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白ヤギさんたら黒ヤギさん宛のお手紙食べちゃった

メッセージというのは、常に宛てた人がいるものだ。白ヤギさんの手紙は黒ヤギさん宛だし、黒ヤギさんの手紙は白ヤギさん宛だ。

書籍やドラマ、映画など「作品」と呼ばれる物にも大小なりとも何かのメッセージが入っていることが多い。もし、これと言ってメッセージがない場合は、その「メッセージがない」ということ自体がメッセージとも言えなくはない。

「作品」と呼ばれるものたちに込められたメッセージにも、大抵は宛先がある。弱い立場にある人、青春真っ只中の人、しんどい人、これから新たな一歩を踏み出す人、人の上に立つ人、戦う人、などなど、作者は大抵、メッセージのターゲットを決めている。(かと言って、それに当てはまらない人が楽しんではいけないということは絶対にない)

「作品」に込められたメッセージの宛先が間違われることは少ないように感じる。その作品を受け取った人たちは、それぞれ、これは自分に向けられた物だと感じたり、自分以外の誰かに向けられた物だと思ったり、それぞれが解釈するように思う。

それは「作品」という一つの形には、様々な背景や物語性を背負うことで、そのメッセージについて、説明をすることが可能だからではないだろうか。

しかし、日常の会話やSNSにおけるコミュニケーションの中では、しょっちゅうメッセージの宛先が間違われることがあるように感じる。

例えば、よくあるのが「つらい時は逃げろ」というメッセージだ。これは、つらくてつらくて、心身共にボロボロであったり、最早自分がボロボロであることにすら気がついていなかったり、もうどうしようもないところまで行ってしまった人に向けられたものだ。

にもかかわらず、元々ずる賢くて、自分勝手な人が「お、逃げていいんすね!ラジャっす!」と言った具合に都合良く解釈してしまうことが間々ある。そういう人を見ると「いやいや、あなたじゃないから!」とツッコみたくなるが、それが伝わる人ならば、そもそも宛先を自分宛だとは間違えない。

本当にその言葉を必要としている人にはなかなか届かないのに、その言葉を何かの免罪符に使いたがる人に奪われてしまう。このコミュニケーションエラは、もっとどうにかならないのだろうか?

かと言って、こういうことを書くと、常に自分を疑う視線を持つ真面目な人ほど「私のことかもしれない……」と悩み、ずる賢くて自分勝手な人ほど「そうそう、そういう卑怯なヤツいるよね!」となったりする。もう、どうすればいいのかわからない。

ずる賢くて自分勝手な人に言葉を奪われ続けると、段々大切な意味を持っていた言葉たちが空洞化し、意味を持たなくなってしまう。それは本当にどうにかしたい。どうにかしたいのだが、どうすればいいのかわからない。

教えてー!わかる人ー!!

きっとこのnoteにも、ずる賢くて自分勝手な人が間違った解釈をして「いいね!」をつけるのだろう。どうにも悔しい。

文学には、規制が強まれば強まるほど発達するという悲しいパラドックスが存在する。それは文学に限らず、ありとあらゆる芸術文化がそうなのだろう。ならば、どんなにずる賢くて自分勝手な人たちに言葉を奪われ続けてても、紡ぎ続けるしかない。自分が本当にメッセージを届けたい人たちのために、走り続けるしかない。

今のところ、ちっぽけな私には、それしかできない。

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