ヒップホップを考える|マツコ会議(2021.11.13放送回)から

私はヒップホップファンを名乗れるほどヒップホップを知っているわけではなく、ヒップホップを知りたいと思っている人間である。中でもヒップホップと女性に関しては特に関心が高い。

ヒップホップを知りたいというその勉強の一環として、今回は「DJ 松永がミソジニーを肯定しているとして炎上 ※」した件を取り上げ、考えたことをまとめようと思う。
(※本件に関してDJ 松永さんご本人が使っていた言葉を使用しました。)

本題に入る前に、
・個人を批判する目的のものではない。
・記載している発言については、私個人が考えをまとめて残すという目的において特に重要と考えた部分のみを抜粋したものである。このため、当人の意図するところを伝えるには不十分である。
・一連の事柄をスタート地点としているものの、内容の多くは私個人の考えによるものである。
・ヒップホップとミソジニーについてはほとんど触れていない。

見聞きしたもの

・マツコ会議(2021/11/13)
・Creepy Nutsのオールナイトニッポン0(ZERO)(2021/11/16)
・アフター6ジャンクション(2021/11/15)
・Creepy Nutsの未来を守りたい!コンプラ・タイムコップ EP.1~4(2021/11/19-)

一連の流れ

- マツコ会議

Creepy Nutsがゲストとして出演した11月13日の放送回の、DJ 松永さんの発言等がSNS上で議論となった。主な批判の内容としては、DJ 松永さんがミソジニーを肯定しているというものであったとのこと。ヒップホップ界隈においては古くから女性蔑視的な考え方が存在しており、近年ではそれを問題視する声も大きくなってきている。

DJ 松永:
日本でヒップホップがまあ広まってくれれば嬉しいなと思う反面、日本だとやっぱりどうしても限界があるなと思ってて。その暴力的なところとか倫理的にアウトなところとかを許容する価値観みたいなのが日本人と合わないなどうしてもと思って。
俺それをすっごい感じたのがフリースタイルダンジョンだったんですよ。MCバトルってめっちゃ流行ったじゃん。でもそれ元々さ、超アウトサイダーな格闘技なわけ。マジな犯罪者たちが暴力以外の解決方法というか、やり合うというかで。ならず者たちがアウトな言葉たちの応酬で、それがエンタメになって、それが面白いぞってなってテレビまでいったじゃないですか。罵り合う競技だから暴言を言わないとそもそも始まらないというか、その大前提なわけですけど。男性が女性に言った言葉でミソジニーって炎上したわけですよ。
そういうのを見たときにあーもうここ止まりだな日本ではとか、ヒップホップってどこまで広まるべきなんだろうなとか、これ以上日本だと無いんじゃないかなとか思うフシがあって。それ(Rとマツコさんは)どう思うのかなって。

- Creepy Nutsのオールナイトニッポン0(ZERO)

SNS上での議論を受け、放送日後のオールナイトニッポン0の冒頭でDJ 松永さんが発言の意図を説明した。

DJ 松永:
日本のヒップホップが盛り上がらないのは(という内容で)。事実として、フリースタイルダンジョンでミソジニーだという風に炎上したことを伝えたんですよ。放送を見返してあの部分だけ見たら確かにそう(=ミソジニーを肯定していると)読み取れないこともないなとも思ったの。
実はそのフリースタイルダンジョンの話をした直後にNAMIMONOGATARIの話もセットでしてんの。カットされてたけど。
要は俺が何を言いたかったかというと、ストレートニュースのつもりだったんですよ。日本のヒップホップでこういうことが起こりましたよ。この2つが並んだらなんとなく分かってもらえると思うけど、俺が憂いている状況なわけ。
その2個を羅列して、でもヒップホップ好きじゃん。ヒップホップ好き、だけどヒップホップの持ってるポリコレに反するところだったりとか、音楽業界の信頼を失墜しかねない行為もあるけれども、やっぱりヒップホップが一番好きなこの自己矛盾をどうしたらいいでしょうか?という議題を挙げたわけよ。俺は是非は問うてないの。是非は問うてなくて議題を挙げたんですよ。
DJ 松永:
ヒップホップに絶望することもあるし、ヒップホップに引くこともあるし、アウトだろみたいなこともあるけど、そこの自分の倫理観とは別に何か感覚的にどうにも説明できないヒップホップ好きな気持ちってのが存在して、なかなかそこの折り合いがつけれない。そういう憂い・葛藤をマツコさんならぶつけられるなと思ってしゃべったの。
R-指定:
海外でもがっつり変わっていってるヒップホップと、ただ変わらないままあるそういう(暴力的な)表現もあって。どっちも内包しているヒップホップをもう心から好きになってしまっているのに、生きてきて変わってく世の中と一緒に自分の倫理観・モラルとかもアップデートしていく中で、そこと照らし合わせてどうしよう?でも好きなもんもある…という自己矛盾と。日本でヒップホップめちゃくちゃ広まってほしいと思ってるけど、そっちの部分も広まってしまうのかな?大丈夫かな?みたいな曖昧な議題を、どう思いますかという形で出したんですよね。
DJ 松永:そこのしんどさみたいなのを感じたから議題に挙げたのよね。
R-指定:だからほんまにポリコレ的にアウトなヒップホップを容認しろなんてのは一言も言ってないわけですね。

私見

- 炎上の原因

DJ 松永さんは「NAMIMONOGATARIとセットで話してもらったら今回の誤解は生まれなかったのかなとも思う」と言っていたが、もっと言えば「ポリコレに反するヒップホップに対してどう感じているか」が伝わらなかったことが原因であると感じた。

マツコ会議から、DJ 松永さんが「ヒップホップが日本で広まってほしいと思っているが葛藤している」「その葛藤の理由は、ヒップホップの孕むポリコレ的観点での問題点(今回はミソジニックな部分)が日本だと受け入れられづらいと考えるから」ということは理解できた。しかしポリコレ的観点での問題点に対してどう感じているかが伝わらず、「受け入れられない日本に問題がある」というようにも聞こえ得た。

オールナイトニッポン0での説明により、DJ 松永さんの挙げた議題は「ヒップホップがポリコレに反するものも内包していることは理解しているが、それでもヒップホップを愛しており、それ故に葛藤している。ヒップホップが日本で広がってほしいと思う反面、そこに受け入れ難いものも存在することは事実としてあるのでしんどい。」ということだと分かった。やはり「どう感じているか」が重要な要素だったと思う。

「日本でヒップホップが広まってほしいという願い」と「ヒップホップ好きが感じる"自己矛盾"」とが切り離されていれば誤解は生まれにくかったのでは?と思うが、彼らがただのヒップホップ好きではなくプレイヤーで、議論の場がテレビ番組であるという状況ではそれは難しいのだろう。

- ヒップホップ好きの感じる"自己矛盾"

R-指定:こういうのって一発の気持ちでっかい言葉でパンと結論決まることとか、そうだそうだってなるもんじゃなくて。多分ずっと熟考しつつ、平行線辿りながら、辿り着かん答えをずっと互いの意見を言い合いながら、落としどこやったりどう納得するかみたいな考えを出すっていうこと。で、あんとき議題に挙げたその倫理とモラルってとこ、自分も勿論めちゃくちゃ反してきたからこそ、でも変わろうとしてて、でも愛してるからこそ…どうしよこの色んな複雑な感情が俺の1個の身体に全部の感情が入ってんすよ、っていう話。で、あそこの場でも結論はやっぱ出てないわけですよ、でそれをずっと長々話し続けたというあれなんですよね。
DJ 松永:多分どの表現においてもそうだけどね。一切差別的な表現がないアートフォームだったりとか、100%暴力性のみのアートフォームっていうのは存在しなくて、全てが両方孕んでる上だと思うんだけど、ヒップホップはすっごい両極あるのよね。
R-指定:一番進んでる考えも孕んでるし、一番うおっとなるような表現も孕んでるし。だからほんまあの場ではその両方孕んでるヒップホップというでっかいかつ魅力的でもあるっていう、その文化自体を愛してしまっている自分ということを議題に挙げたわけなんです。
DJ 松永:ヒップホップ好きな人は絶対ぶち当たる壁だと思う。プレイヤーだから俺らが特別に考えてることじゃなくて、多分ヒップホップ聞いてる人はみんな考えて、なかなか多分これは一生結論出ないと思う。

私自身、ヒップホップをあまり知らない状態から始まりその文化を知ろうとする中で、ミソジニーを容認するかのようなコンテンツに触れて失望したことがある。ヒップホップをもっと知りたい、好きになりたいと思っていたのに、このような考え方が当たり前の世界なのかと絶望した。このまま、何も知らない状態のまま、「ヒップホップが好きだ」と無邪気に言っても良いのだろうかと悩んだし、今もその気持ちは変わらずある。

この葛藤をプレイヤーであるCreepy Nutsの2人も抱いているということ、それをラジオを通して聞くことができ、私としては救われたような気持ちになった。

そして同時に、差別的・暴力的なコンテンツをnot for meなものとして切り離して考えることはできないのか、差別的・暴力的なコンテンツを内包しているという理由で(実際にそのようなコンテンツそのものが好きかどうかに関わらず)ヒップホップを愛することに責任を感じ葛藤する必要があるのか、とも思う。

ヒップホップは多様な価値観を受け入れる大きな器であるというものの、現段階においてはまだ差別的・暴力的なコンテンツの存在感がかなり大きいということなのだろうか。

- 3人の語る「ヒップホップ」から

マツコ会議ではヒップホップとテレビを題材に、「リアル(本当のこと・本物)」と「フィクション(嘘・作り物)」について3人が会話していたが、その中で「ヒップホップ」がどのように表現されていたかをまとめる。

マツコさんはアメリカでヒップホップが根付いている理由を「あれ(=ヒップホップのネタになっているもの)がリアルな人たちが相当数いる」からであるとし、「日本も皆が平和であることを信じている国ではなくなってきている。日本にもヒップホップに乗せる叫びみたいなものが生まれやすい環境にはなっている。不安感や怒りが大きくなってきており、それを乗せるのにヒップホップはすごく適任である。ヒップホップが日本でこれ以上大きくならないというのは違う。」と発言していた。また、「日本のヒップホップは独自で面白い」とし、アメリカのリアルが「貧困・暴力・ドラッグ」であるのに対し、日本のリアルを「青少年が抱える闇」と表現していた。これらから、日本のヒップホップとアメリカのヒップホップは別物であると考えていると読み取れると思う。

DJ 松永さんの「ヒップホップの"暴力的なところや倫理的にアウトなところを許容する価値観"が日本と合わないため、これ以上(広まることは)無いんじゃないか」という意見では、ヒップホップがポリコレに反するものを多分に含んでいるという点が強調されているように感じられた。

R-指定さんは「元々の自分たちの人間性はどう足掻いても曲に出てしまう。無理に(所謂ヒップホップらしい)キャラを入れることなくラップしている人たちに影響を受け、俺みたいな奴がやってもいいんだと思った。」と発言しており、本人にとってリアルなことを表現することを念頭にヒップホップの世界で活動しているのだろうと伝わってきた。

ヒップホップについて書かれた文章の中で「ラップはそのコミュニティにおいて共感を得られるトピックでどれだけ上手いことを言えるか競うものである」という記述を目にしたとき、私の頭にまず浮かんだのはCreepy Nutsだった。一般的にイメージされるヒップホップとは毛色が違うのかもしれないが、共感できるトピックを扱うのがヒップホップだと言うのなら、「誰もが持つ負の感情」を音楽に乗せるCreepy Nutsはまさにヒップホップだと思った。私にとっては「貧困・暴力・ドラッグ」より、Creepy Nutsの表現する「負の感情」の方が遥かに共感しやすい。

ヒップホップについての現状の理解は上記のようなところであったので、私が3人の発言の中で一番しっくりきたのはマツコさんのものだった。

しかし、実情はまた異なっているのだろう。そのコミュニティで共感を得られるものをという考え方があったとしても、アメリカである程度スタイルが確立されている以上日本でもアメリカのスタイルを追随する形になるのが普通だろうと思うし、実際そうなのだろうと思う。人気の如何に関わらず、現状Creepy Nutsは現在の日本のヒップホップのど真ん中ではないということなのだろうと2人の発言から感じた。

ヒップホップは新陳代謝の早い文化だという。流行りのスタイルの移り変わりと同様、価値観のアップデートの速度にもそれは当てはまるとCreepy Nutsの2人は言っていた。ポリコレへの意識が高まる中、世界のヒップホップは、そして日本のヒップホップはどのような方向に向かうのだろう。

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