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三余の読書③ フロム『自由からの逃走』東京創元社(原著1941年)

 ナチス・ヒトラーは独裁政治を通じて人類史を汚す蛮行を行った。ヨーロッパ、世界を戦争に巻き込み、600万人に及ぶユダヤ人を政策的に虐殺した。しかし、ヒトラーは武力や強権のみで絶対的権力を確立していったわけではない。民主制度に基づく国民の支持を得て政権を獲得していった。しかも当時の世界では最も先進的民主的といわれたワイマール憲法の下で自由な選択を保証されたドイツ国民による支持を受けてナチス政権は誕生したのである。自由を与えられた人々がなぜ自由を束縛する独裁を自ら選び取っていったのか。フロムの問題関心はそこにある。

   フロムは奇異に思える現象を人間の心理から解き明かそうとした。結論的にいえば、様々な束縛から解き放たれて自由となった人々が、孤立感、孤独、無力感に打ちひしがれ、それらから逃れるために、強い者=権威にすがって安定と安心を求めた、ということである。フロイトから学んだ心理学者フロムは人間行動や社会現象を人間の心理から説明しようとする。しかし、彼は人間について、各自が生来持つ意思に従い気ままに好き勝手行動するという捉え方はしない。外的条件、社会的環境が人間の意思や行動を規定する側面を重視する。むしろ冷徹なほどに社会的存在としての人間を強調している。
  
      (個人の)願望や目的は、じつは外部の社会的要求の内在化したもので
           ある(106頁)

      近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他の誰もが考え話して         いるような状態にあることを忘れている。…また自分自身で考える能力         を獲得していないということを忘れている(122頁)
 
それぞれが自分自身の考えや願望だと思っていることさえ、社会的価値観や周りからの期待でしかないと断ずる。とはいえ、人間は機械ではないので、それぞれの性格や特性は異なり、ものの受け止め方や捉え方に差異があることも認める。つまり個人と社会の関係は常に双方向的なものであると捉えているわけである。

自由と不安

 人間は自由を求める。人に支配され管理されることを嫌い自身の好きなようにふるまいたいと考える。実際、時代が進むに従い人間は自由の範囲を広げてきた。生まれながらに帰属するムラ社会などの共同体からはなれ、自分を縛っていた人間関係や規則から解放された。人間は徐々に、農業や大工など代々引き継いだ稼業に縛られることなく職業を自分で選べるようにもなった。人生の目標すら自分でたてられるようになった。しかし、個人を縛り方向づけていた従来の共同体や規則から解放されたことは一方で、自分自身で自分の居場所や帰属先を見つけ出し、職業や人生の目標も自分自身で選び取らねばならないことをも意味した。すぐさまそれができる人間はよいけれども、大抵の多くの者は、迷い、決断ができない。下した決断が正しいかどうかにも確信が持てず不安に陥る。そして孤独感と無力感を味わう。そうした時には、ついつい自分を受け入れてくれる集団、高揚感を与えてくれる刺激的で力強い言葉で自分を導く指導者に頼ってしまう。泳力もないのに大海に放り出された人間が、浮かび漂う中、救命船に救いを求めるようなものである。自由になった人間は、自らの意思と判断で多くの決断せねばならない。そうした自由に担う責任は重い。

 ワイマール憲法で最先端ながらも重すぎるほどの自由を与えられたドイツ国民は、第一次大戦敗戦後の政治的経済的混乱状況の中に放り込まれており、先行きの見通せない中で不安と無力感を増幅させていた。そんな時に、強い言葉で進むべき道を示し、人々に社会での役割を説き、そしてドイツ・ゲルマン民族としての誇りを与えたのがヒトラーだったのである。資本主義進展とともに、生産の歯車と化し、自己の無力感、喪失感を深め、莫大な戦争賠償負担に途方に暮れていた多くの国民には頼りがいのある光明として立ち現れたのだ。人々は自由を放棄し自ら服従した。

権威主義的性格

 フロムはさらに「権威主義的人間」について分析する。自我を確認し、自分自身に確信の持てない弱い人間は、自分より強い者に服従して強者と一体化することで安心を得ようとするマゾヒズム的傾向を持つ。あるいは逆に、弱い人間は自分よりさらに弱い者を虐げ支配することで強い者になったかのように錯覚して満足するサディズムに陥る。権威に服従する者、権威をかざして他人を支配する者、いずれもが背後に自己の「弱さ」を抱える。つまり自我を主体的に確立し、自己に自信を持てない者が、自らの自由な意思によって行動するのではなく、他者との支配被支配関係の中で権威主義的にふるまうことで存在を確かめようとするのだという。

 周りの人間を観察していてもそれは当てはまるかもしれない。さらに言えば、「権威主義的人間」という特殊な人がいるというよりも、人間誰しも権威への服従といったマゾヒズム的側面と他者を支配しようとするサディズム的側面の両方を実際には持っていると言えるのではなかろうか。誰もが自身の中に「弱さ」をなにがしか持っている故に、その裏返しとしての追従服従や支配虐待に走る可能性がある。弱さと不安に苛まれる状況の中で、私たちも強い指導者や権威にすがってしまう危険性を秘めていると言えるのだろう。

自由の実践

 フロムは、自由を自らの責任をもって享受するためには、権威主義的傾向につながる自己喪失感や不安を克服することが肝要であり、そのためには「すべての人間との積極的な連帯と、愛情や仕事という自発的な行為」(45頁)が必要だと主張する。つまり権威に頼らず同等に手のつなげる人間関係や共同体に関わり、その中で他者と価値や思いを共有しながら生産的社会的活動をすることによって、自己の存在する意味と役割を自覚していく。それらを通じてこそ、責任を以て自由を実践できるのだとする。簡単なことではないが、社会的存在である人間は他者との協力や相互支え合いの中でしか、安定的な生を送ることができない、ということでもある。

 フロムはこの本を出版したのは1941年である。その頃、ナチス・ヒトラーはすでに本格的に欧州大戦を展開し、ユダヤ人迫害・虐殺を進めていた。ユダヤ人であるフロムは、米国を拠点おきながら、異常とも思える同時代の事態を、人間が共通に有する不安や孤独をもとに冷静に分析してみせた。 

 彼の人間分析と、自由に関するメッセージは現代においても色あせるところがない。特定課題や攻撃対象をあげつらい、時には論理を超えて感情に訴えかける鋭利な言葉で扇動する指導者に多くの人が同調する。米国トランプ支持者しかり、欧州極右勢力支持者しかり。長い歴史的プロセスを経て培われてきたはずの人権、連帯、協同、自由、民主主義の価値観が、がらがらと音を立てるように崩れている。不安にあおられ自由を放棄し、権威にすがりついてしまう弱い自己を克服することが大事だとフロムが警鐘を鳴らして100年近く経った。彼が危惧した状況は21世紀の現代にも別の形で、各地で生じている。多くの人々は「自分の意思」で権威を受け入れている。

連帯と ”No!”

 こうした問題にどう立ち向かうのか。自由の放棄がやがて多くの者にとって望まない結果につながる可能性は高い。過去から学ぼうとか、各々が自由をしっかり守っていこう、といった一般的教訓や個人的努力の奨励だけで事態が好転するとは思えない。権威的性向を呼びおこしてしまう孤立、不安、無力感に対処する必要がある。そのためには人間的つながりの確認できる機会や社会を具体的にどのように構想するのかが重要となる。足元のレベルから考えていかなければならない課題だろう。
 フロムは別の著作でそのきっかけになるようなことも示唆している。

 人間は「ノー」と言う能力によって、つまり肉体的生存を犠牲にしてまでも、真実、愛、誠実などを主張することによって、他のあらゆる動物と区別される。(『希望の革命』97-98頁)

 自分に納得のいかないことに対してしかたないと諦めて受け入れてしまうのではなく、自分の意思を明確に表明して、他者とつながっていくことが重要な第一歩になる、ということなのだろう。

 社会と個人の関係をよくよく考えさせられる良書である。(2024.2)

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