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きゃりーぱみゅぱみゅからの学び 退局まで残り2日

「実は先生のこと、すごく苦手だったんです」


勤務最終日に、看護師長さんに最後だからぶっちゃけるけど、と前置きされて、突然言われてしまいました。

ショックでした!

自分で言うのもアレですが、僕は感情の起伏が少なく、循環器内科医にしてはとりわけマイルドな気質で、当たり障りなく誰とでもある程度仲良くやれるという自負がありました。
日々の診療も未熟な面はあるとは思いますが、真面目に患者さんに向き合っていたと思います。

おそるおそる、どうしてなのか、聞いてみました。

「何を考えているか分からなくて、接しづらかった」

とのことです(T_T)

けど自分の人生を思い返すと、こう言われたことは初めてではありません。
なぜそう思われてしまうのか、少し胸に手を当てて考えてみました。

その看護師長さんは、医療・看護に熱く、患者さんがどう思っていて、何が辛くて、どうなりたいのか、そういったことを全て理解したいのだと思います。怒り狂っている患者さんよりも、寡黙な患者さんの方が苦手だとも言っていました。
それはきっと患者さんだけではなく自分に関わる全ての人間に対しても言えることで、話している相手がどう感じていたりとか、自分がどう思っているかとかを、その場で100%で共有したい性格なのかなと思います。


一方で僕はと言えば、成長していく中で一定の距離感・心理的障壁を他者との間に自然と形成するようになっていました。これは自分の本心や弱点を知られたくないという自己防衛でもあると思いますし、程度の差はあれど誰しもが有する本能のようなものだと思います。

どうしてこういう傾向が強くなってしまったのかと振り返ると、たぶん思春期とか、人格が形成されていく段階で感じていたことが根底にある気がします。自分の100%を曝け出したら、もうそれ以上人間的な面白さとが出てこなくなって、「もっとこの人を知りたい」とか、「ひょっとしてすごい人なんじゃないか」って思ってもらえなくなるんじゃないか。興味を持ってもらえなくなるんじゃないか。自分の中にまだ公開していないの未知の部分、切っていない手札を残しておくことで、人の眼に映る自分にミステリアスな可能性を残しておきたいというちょっと歪んだ保身術だったのだと、ようやく気付きました。

けれど、あけすけに自分を表現している人がいたとして、僕はその人に対して興味を失ったことはあるでしょうか?答えはNoです。
むしろ、なんて素直でわかりやすい人なんだろう、と安心し、もっと話したいなと感じたり、ある種自分にはない側面に尊敬の念すら抱いたりします。

学生時代から仲良くしていて、気の置けない友人を思い浮かべます。そんな風に、人と長く付き合っていく中でさえ、その人が100%自分を表現していたとしても、僕が感じるその人のパーソナリティはその内のごく一部(例えば60%)であって、まるまる全てを知ったり、感じたりすることはありません。だからこそ惹かれるし、憧れたりします。仮にそうであるなら、未知なる可能性を残すために他人との間に壁を作ったり、自分の表現をぼかすことは、あまり意味がないことではないでしょうか。つまり、ハナから60%の自分で誰かに接していると、単純計算で60%×60%=36%しか相手には伝わらず、「この人は一体何を考えているのだろう」となるのです。

100%の自分で勝負することが怖いのは、批判されたり失敗した時に自分のこれまでの全てが否定され、逃げ場がなくなってしまうのではないかと思うから。けれども、どれだけ自分を曝け出しても、相手の眼に映った自分は、自分のすべてでは決してありません。

「所詮他人とは、100%は分かり合えない」
この言葉が意味するところは、孤独な人間観ではなく、素の自分で向き合って初めて、相手に理解されたり、安心を与えるレベルのコミュニケーションになるんだということではないでしょうか。

三十路を過ぎて、今更こんなことを考えているのは僕くらいかもしれませんが、そんな風に、帰りの飯田橋駅の長い乗り換えで、少し答えが見えた気がしました。

ボクの気持ちの100パーセント 届け届けキミに
そんな気持ちの何パーセントも 練習が足りないけど
(きゃりーぱみゅぱみゅ 「キミに100パーセント」より)

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