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4.暴力をめぐる点景、2000年代の日本(西洋近代と日本語人 その19)

Ⅲ 村上隆「スーパーフラット」と「リトルボーイ」

Ⅲ-6 スーパーフラット概念の諸問題(続き)

Ⅲ-6.3 スーパーフラットと投企

4.295.  前回(その18)の主題は、第二の問い、すなわち、村上隆によるスーパーフラットの提唱は既存の何を打破しているのか(その17:4.208)という問いに答えることでした。村上隆の言葉を調べていくと、この問いには、現代美術の領域での既存の伝統の打破と、より広い歴史的・社会的な展望における既存の秩序の打破という二つの文脈が浮かび上がる。そこで、この問いには、二つの回答を与えました。

4.296.  第一の回答は、現代美術の領域にかかわる回答で、スーパーフラットの提唱は現代の前衛芸術とオタク文化の境界を打破し、表現形式の高級と低級の区別、ハイアートとロウアートの区別を取り払っている、というものだった(その18:4.263)。さらに、こうした境界や区別の打破がもちうる効果を、Miss ko2(Project ko2)とSecond Mission Project ko2という連作の解釈を通じて検証し、〝高級な〟表現と〝低級な〟表現の区別の打破によって得られる新たな自己認識がある*、という結論を得ました(その18:4.273)。

注*: 村上隆はこの「自己認識」を「日本の自画像」と呼んでいます(その18:4.257~259)。

4.297.  第二の回答は、より広い社会生活の展望にかかわっており、スーパーフラットの概念の提唱は、あらゆるものを同じ平面に並べて「おもしろい」「カワイイ」と評価する子供のようなあり方を示唆しており、「国を雄々しく立ち上げ続ける事」*とは別の「ゆるい」生き方を提示することによって、既存の歴史的文脈や価値意識を打破するきっかけを与える、というものでした(その18:4.281)。これは、別の言い方をすれば、現代日本に見られるような「ゆるい」あり方を肯定することが、世界の未来につながるかもしれない、という期待の表明です(その18:4.276)。

注*: 村上隆「「脱力」に宿る芸術の力」、朝日新聞名古屋本社版夕刊、2005年5月16日。

4.298.  これについては、子供のような節操の無さが、国家を立ち上げることとは別の可能性をもたらすという考え方は、村上隆自身が全力で否定した日本の美術教育における「日本式自由神話」と同じ誤りに陥っている疑いが濃厚だ、と指摘しました。子供のように気ままに描くことが芸術活動における自由な制作を意味しないのと同じく、子供のように無節操に振る舞うことは社会活動における自由な投企を意味しない(その18:4.293)。

4.299.  「投企」などという生硬な翻訳語は、あまり使いたくないのですが、やむをえない。これ以後この言葉をしばしば使うので、以下4.303までこの言葉についての注釈です。

4.300.  「投企」は、「projet〔仏〕、project〔英〕」の訳語です(以下、英語のみ表記します)。名詞の「project」は、元来「企画、立案、提案」といった意味です。それが実存主義文献で「投企」と訳された。人間的主体は「subject」でなく「project」だ、というのがサルトルの言いたいことの一つだった。人間という主体subjectは「下にsub」「投げ置かれたject」ものではなくて、「前方にpro」「投げ出されたject」ものだ、という趣旨です。欧州諸語では“sub”と“pro”が対比されるので、分かりやすい。人間的主体とは、未来に向かって〝投げ〟られたひとつの〝企て〟である、ということで、「投企」と訳したんだと思います。

4.301.  他方、「subject(下に、投げ置かれたもの)」は、概念として、「substance(下に、立っているもの)」と同じことを言い表す。表面に現れた諸性質の根底に在る主体、現象の背後にある本体、ということです。「subject」や「substance」は、この意味では、哲学用語として「実体」と訳します。「実体」という概念はアリストテレスに始まって、西洋哲学を貫く基礎概念のひとつです。一つ、二つ、と数えることができる「もの」のこと。一人の人間、一頭の馬などが実体の典型例になる。

4.302.  実体は、本質によって定義される。人間という実体(substance、subject)は、例えば「理性的動物」であると定義される。すると、ヨーロッパ世界では、この定義を通じて、アリストテレスとキリスト教が合体してできた中世スコラ哲学以降のすべてのキリスト教思想の重荷が、生身の人間にのしかかってくる。人間は、全知全能にして理性的なる神と、理性をもたない動物との中間に位置する。しかるに、理性的であるとはどういうことか、動物であるとはどういうことか、理性的動物はどのような条件のもとにあるのか、等々。

4.303.  だから、ヨーロッパの現代人にとっては、人間はそんな本質に縛りつけられたsubjectなんかではない、未来に向かう自由なprojectなのだ、と言ってのけることが、伝統思想からの解放になった。サルトルを読むと、たぶんこういうことだったんだろうなと思われます。(この論点は、4.316以下の議論に続きます。)

4.304.  さて、今回取り上げるのは、第三と第四の問いです。第三の問いは、村上隆は、スーパーフラットを旗印にした作品展を計画・実行することを通じて、どういう歴史をどのように始めることができたのか(その17:4.209)です。第四の問いは、村上隆は、なぜ自分たちの文化(our culture)を「醜い文化であっても(may be repulsive, but . . .)」というように、劣位にあるものとして提出したのか(その17:4.212)、です。

Ⅲ-6.4 第三の問い ――スーパーフラットから始まる歴史

4.305.  第三の問いは、第二の問いのその後を問うものなので、やはり二通りの回答を与えることになります。一つは、現代美術という文脈で、どういう歴史を始めることができたのかに答えること。もう一つは、社会的な文脈で同じ問いに答えること。順に考えます。といっても、現代美術にかかわる前者の問いは、現代美術の批評家でないと中味のある回答はできない。2005年のリトルボーイ展以降の興味深い出来事を年譜などから抜粋するだけにとどめます。

現代美術の文脈
4.306.  2006年には、リトルボーイ展が国際美術評論家連盟(AICA)米国支部によりニューヨーク・ベスト・テーマ・キュレーション賞に選ばれた。2007年、大回顧展『©MURAKAMI』(ロサンジェルス現代美術館)が開催され、欧米を巡回した。2008年にはニューヨーク、サザビーズのオークションで《マイ・ロンサム・カウボーイ》(1998)が村上作品として過去最高の1516万ドル(約16億円、当時)で落札された。そして、2009年、ルイヴィトンとのコラボレーションがあり、2010年、個展『Murakami Versailles』(ヴェルサイユ宮殿)が開催された(2010)。個展は、この後も、2011年『イヴ・クラインへのオマージュ』(エマニュエル・ベロタン・ギャラリー、パリ)、2012年『Murakami-Ego』(アル・リワーク展示ホール、ドーハ)、2013年『Takashi in Superflat Wonderland』(サムスン美術館プラトー、ソウル)、2014年『死者の国に差し込んだ「虹」の尻尾を踏んだ時』(カゴシアンギャラリー、ニューヨーク)、2015年『村上隆の五百羅漢図展』(森美術館、東京)と続けて開催されている。

4.307.  参照した年譜が2016年7月発行の図録『村上隆のスーパーフラットコレクション』(有限会社カイカイキキ発行)所収のものなので、私の手元にはその後の活動の記録はありません。活動の消長は今後ともあるに違いないけれど、村上隆の活動が美術界に大きな足跡を示してきた事実は動かないと思われます。

4.308.  蛇足ですが、私は上の一連の個展のうち、2015年の『村上隆の五百羅漢図展』(森美術館、東京)を見ました。ただし、そう強い印象は残らなかった。たぶん、それ以前にいろいろな村上作品を知っていたからでしょう。私が好きなのは、例えばこの「Tan Tan Bo」と題された2001年の作品です。 

(Tan Tan Bo 2001『芸術起業論』口絵p.3)

4.309.  ミッキーマウスを連想させる形のなかに、大小様々な目玉のような形象が、平面を隙間なく埋め尽くすように、遠近法を無視して多数描き込まれている。悪夢に現われたミッキーマウスのようだ。この絵は、たしかに、スーパーフラットというカテゴリーを立て、そこに分類することによって、単なる無秩序や悪趣味ではなく、例えば、〈無原則で異様な自由〉という美学上の好ましい性質を感じさせる絵に見えてきます。その意味で、村上隆の企ては、少なくとも私に対して、現代美術として成功を収めました。

4.310.  「Tan Tan Bo」と題される作品は、2015年の『村上隆の五百羅漢図展』でも展示されていたらしい。図録の「インスタレーション風景」のなかに写真があります。 

(図録『村上隆の五百羅漢図展』p.274)

これは、「たんたん坊:a.k.a.ゲロタン:輪廻転生」(同図録pp.188-189所収)と題された作品ですが、私の記憶には残りませんでした。専門家ならぬ一般の見物客は、斬新な試みにもすぐ慣れてしまうということだろうと思います。

社会的な文脈(1)―― 投企としての可能性
4.311.  スーパーフラットの提唱は、社会的文脈において、どういう歴史をどのように始めることができたのか。これが第三の問いの二つ目の文脈です。この社会的文脈は「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまはSuperflat。」という言葉の示唆するものです。この言葉は、それなりに本気で述べられていると思われる。その証拠にスーパーフラット展の図録冒頭の「スーパーフラット宣言」*と、リトルボーイ展の図録所収のエッセイ「窓に地球」**の両方に現れています(その18:4.276)。

注*: 村上隆(編著)『SUPERFLAT』(マドラ出版2000)p.4。
注**: 村上隆(編著)『リトルボーイ 爆発する日本のサブカルチャー・アート』(発行:ジャパンソサエティー、イェール大学出版 2005)p.100。

4.312.  この言葉の示唆は、次のようなことでしょう。すなわち、日本人は、原爆の圧倒的な暴力を目の当たりにして脱力してしまった。だが、原爆の愛称そのままの「「Little Boy」=「ちっちゃな子供」」(「窓に地球」p.101)のような状態の日本人こそ、世界の未来かもしれない。というのも、そこには、「国を雄々しく立ち上げ続ける事」*とは別の「ゆるい」生き方の模索があって、それは「人間の未来を造り出そうとする底力を発揮し続けた、戦後のトラウマまみれの日本人のしたたかな芸術性」*の所産と言うべきものだ。

注*: 村上隆「「脱力」に宿る芸術の力」、朝日新聞名古屋本社版夕刊、2005年5月16日。

4.313.  では、スーパーフラットの提唱は、このような方向で新たな歴史を始めることができたのか。この問いに対しては、現実の歴史として、そういう方向は始まっていないと答えるほかありません。現代世界の住人は、依然として国民国家を建設して維持するという重荷から逃れられない。それはウクライナの現状を見れば明らかです。

4.314.  私も含め、現代日本語人の相当数は、人々を戦場に送り出す権力の側に立ちたいと思ってはいない。にもかかわらず、一旦戦争が始まってしまえば、依然として、兵士たちを送り出す側に自分がいる事実を見出すことになる(本ブログ「勇敢な人々に涙することについて ――ウクライナと私たち―― (西洋近代と日本語人 番外編1)」50-53)。「ちっちゃな子供」のような「ゆるい」生き方は、憲法第九条の庇護の下、参戦を回避して朝鮮戦争とヴェトナム戦争をやり過ごし、同時に米軍の軍事力を後ろ盾にすることが許された戦後日本の特殊な生活様式だった可能性が高い。*

注*: 1960年代末期のヒッピー運動も、ある種の「ゆるい」生き方の追求だった。暴力を全否定して愛と平和を求める運動は、どんなに真摯な試みであるとしても、一定の秩序の庇護の下でしか、おそらく成立しない。その秩序の背後には暴力があります。

4.315.  それならば、現実の歴史とは別に、ひとつの理想として「ゆるい」生き方を肯定することは可能でしょうか。これもなかなか難しい。「ゆるキャラは日本人なのだ」(「窓に地球」p.138)と宣言してみても、「節操の無さ、無意味さを世界中が自嘲的にうっすらと笑う日」(同上)はおそらく来ない。既に述べたとおり、無節操に振る舞うことは、社会活動における自由な投企とは両立しないからです(その18:4.292-293)。

4.316.  自由な投企は、行き当たりばったりの無作為な行為ではない*。というのも、未来に向けて自分自身を投企するときには、あんな風になりたいという理想が目標として不可欠になるからです。このことは、先に、芸術活動に関して論じました(その17:4.245-249)。芸術家の自由は、歴史を意識し、それを乗り越えることであって、何も知らない真っ白な状態で勝手に振る舞うことではなかった。そして、駆け出しの芸術家は、先行するさまざまな芸術家の試みを理想として参照し、技法や思想を真似ながら、自分の表現を創造して行く。自由には理想が必ずからんでくるのです。では、社会生活において、ゆるい生き方をしたいという理想ははたして成り立つのだろうか。無節操にご都合主義的に振る舞うことは、理想を持たないこととほぼ同義です。すると、ゆるい生き方を理想とすることは、理想を持たないことを理想とすることになる。これは矛盾を引き起こします。

注*: この見方は、Charles Taylor の論文「What is Human Agency」(Charles Taylor, Human Agency and Language, Cambridge University Press, 1985, pp.15-44.)のサルトル批判を参考にしています。

4.317.  理想を持たないことを理想とする人は、理想を目指して生きる限り、みずからの理想に到達することはできない。というのも、みずからの理想は、理想を持たないことなのだから、これは理想を目指すこととけっして両立しないのです。別の言い方をすると、そもそも理想を持たない〝ゆるい〟人は、理想と無縁なのだから、〝ひとつの理想としてゆるい生き方を肯定する〟ことはあり得ない。

4.318.  前段落の論法は、意味ありげに見えるかもしれない。だが、特に価値あるものでもありません。「理想をもたないことを理想とする」ことは、「意志しないことを意志する」とか「自由を否定する自由」といった表現と似たような論理的な混乱を引き起こすというだけのことです。ある作用の否定をその作用自体の目的格にする操作を実行すると(たとえば、自分は寡黙であると言い続けるとか)、こういう矛盾が生じやすい。矛盾に陥ると身動きがとれなくなる。この場合、理想を目指すと、理想に到達できなくなるわけです。こんな事態は避けるのが賢明です。それゆえ、結局、自分は寡黙だという演説と同じく、〝ひとつの理想としてゆるい生き方を肯定する〟というあり方は、自分の行為としては成り立たないのです*。

注*: ただし、他人に対する外からの評価としては成り立つでしょう。「あの人は寡黙だ」と雄弁に主張できるのと同じです。「理想をもたないあの人のゆるい生き方はひとつの理想だ」と評することは、矛盾になるわけではない。ただし、自分もそうなりたいという含みがまったくない場合、言い換えれば、外部から突き放して評価する場合にかぎるでしょう。この場合、「理想」という言葉の使い方として適切か、という疑問が新たに生じそうです。

社会的な文脈(2)―― 自己放棄としての可能性
4.319.  ところが、この話はこれで終りません。理想を持たない状態を理想として目指すことが問題を引き起こしたのだから、理想を省いたらいい。つまり、「ひとつの理想としてゆるい生き方を肯定する」のではなく、「ゆるい生き方を肯定する」だけにする。なんなら「肯定する」も省く。というのも、「肯定」は「よいと認める」ことだから、「よさ」についてのある判断を前提する。この判断はよい状態、つまり理想の認知を含意するから、残しておくと後々問題を引き起こしそうだ。で、これも省く。すると、残るのは「ゆるい生き方をする」だけです。

4.320.  「ゆるい生き方をする」だけの場合、もはや人間の生は自由な投企ではない。そもそも生きることは〝プロジェクト〟なんかじゃない。ただたんにそこにいるだけだ。こういうとらえ方になる。

4.321.  村上隆の言葉に即して言うと、これは、「日本式自由神話」に立ち戻ること、生後間もない幼児のようになることにほかならない。芸術家としての自由とは背馳する(その16:4.183)。しかし、西洋世界の自由の概念を苦労して受け入れる義理はないともいえるわけで、そもそも矛盾とか背馳とかそんなことに気を遣わないのが「ゆるい」生き方なのだ、だから、これでいいのだ。おもわずバカボンのパパになってしまいましたが、こういう考え方には、本ブログの初回にすでに出会っています。

「玄関マットか何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える」(村上春樹「タクシーに乗った吸血鬼」同『カンガルー日 和』所収)(その1:2.18)

4.322.  この文は、初回に記したとおり、自己放棄の願望の表現でしょう。ただし、玄関マットに変身しても、それが〝私〟であるかぎり、私は私自身を対象として思考してしまう。自己意識と思考は切り離せない(その1:2.19)。だから、「ゆるい生き方をする」ことは、究極的には自己意識と思考を棄てることを意味している。これはイヤだ、あれがほしい、ああなりたい、こうなりたい、そういう煩悩をすべて棄てる。そうなれば、もちろん国家も戦争もどうでもいいでしょう。たしかに「国を雄々しく立ち上げ続ける事」とは別の生き方として、これはこれで首尾一貫します。自己意識と思考を棄てることが何を意味するのか、少し考えてみます。

4.323.  上のような自己放棄の奨めは、通俗的に受容された仏教的な諦観に由来するように思われる。「煩悩」は仏教用語です。とはいえ、自己放棄の奨めは、もっぱら仏教由来であるとも言えないようだ。橋川文三が本居宣長の老荘批判を論じた「日本浪曼派批判序説」の一節で、私は、国学者流の考え方が自己意識と思考の放棄に流れていくことに気づかされました。

4.324.  本居宣長は、徂徠学派の儒学者、市川匡麻呂たずまろに「老荘がときたる自然といふものをよしと思へるにや」と論評され、老荘と自分は違うと主張して「くず花」という反論の書を著しました*。橋川文三が取り上げている一節を下に引用します。

「但しかれらが道は、もともとさかしらをいとふから、自然の道をしひてたてんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず。もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強言こわごとなり。」(「くず花」下)**

冒頭、「かれら」とあるのは老子と荘子のこと。大意は、次のようなことでしょう。老荘の道は利口ぶった振る舞いを嫌って自然の道を立てようとするものだ。それゆえ、老荘の自然は本当の自然ではない。仮に自然にまかせるのをよしとするのなら、利口ぶった振る舞いをする社会は、その利口ぶった振る舞いのままであることこそ、本当の自然であるはずだ。それなのに、そういう利口ぶった振る舞いを嫌って憎むのは、かえって自然に背く強制だ。

注*: 野口武彦「本居宣長の古道論と治道論〈解説〉」p.21、野口武彦(編注)『宣長選集 直毘霊・くず花・玉くしげ・秘本玉くしげ』(筑摩叢書1986)所収。
注**: 野口武彦(編注)1986、p.137。

4.325.  宣長のこの立論では、「さかしらを厭う」という心理的な態度をもつことそのものが、自然に反するはたらきとして排斥されています。「さかしらなる世は」とあるので、利口ぶった振る舞いが自然である状況では、利口ぶった振る舞いを嫌ったりしないことが自然である、わざわざそれを嫌がるのは自然に背くものだ。そう言っている。

4.326.  すると、何かを認知し、その認知した内容に対して、個人が周りと違うなんらかの心理的な反応を起こすこと自体が、自然に反する振る舞いになる。たとえば、芸術家が何かに深く感動して作品を制作したりするのは、〝さかしら〟なる振る舞いの最たるものになりそうだ。

4.327.  橋川文三は、宣長のこの一節を、儒教の人為的な規範のみならず「主情的人間意識の絶対化をも否定する」*ものであると評価しています。元来、宣長には「人為的な規範の否定によって見出された主情的な人間自然の強調」**があった。だが宣長には、人間の感情反応の強調とともに、その絶対化の否定がある。ここで老荘に即して言われているように、人間は事物に接すれば感情反応を起こすが、それもまた自然に背くものであり得るのであって、真の自然ではない。というわけで、この方向で自然なあり方をとことん追求していくと、一個の〝もの〟のように、そこにたんにあるだけ、というあり方が究極の自然ということになるでしょう。自己意識と思考を棄てさること。これはつまり「玄関マットか何かになって一生寝転んで暮ら〔す〕」ということです。

注*: 橋川文三『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫1998)p.88。
注**: 同上

4.328.  「さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらん」という言葉を、ある性質 φ を備えた状態は、その φ のままであればよい、φ に対して人間が反応する(嫌ったり憎んだり、あるいは、好んだり愛したりする)必要はない、と言うように解すれば、この一節は、人間の意識的な情動や思考はいらないという主張になる。人間も事物も、〝もの〟として、自然に、ただそこにあるだけです。

4.329.  こうして、「ゆるい生き方をする」ことを突き詰めていくと、意識も思考も、意志も情動も、すべて放棄した状態が出現する。これは一つの可能性を極端に推し進めた論理的帰結にすぎず、現実にそういう状態が出現可能であるとは思われません。しかし、そういう状態をなんとなく理想的なもの(というと矛盾がもたらされるのだけれど)と感じてしまう傾向が、現代の日本語人にもたしかに存在するようだ。それは、玄関マットに関する村上春樹の言葉からも、うかがわれると思います。

4.330.  こうした傾向が仏教に由来するのか、国学に由来するのか、あるいは太古からの通奏低音として日本語社会に潜在するのか、それは今のところ私には判定がつかない。そのいずれにせよ、村上隆は、2015年の『村上隆の五百羅漢図展』で仏教に題材をとった作品を展開しています。それを見ると、「日本は世界の未来かもしれない」という言葉は、案外この自己放棄の方向を示唆しているのかもしれません。自己放棄の示唆は、第四の問いへの回答ともかかわってきます(4.337参照)。

Ⅲ-6.5 第四の問い ――価値観の衝突と神の視点

4.331.  第四の問いは、次のような問いでした。村上隆は、なぜ自分たちの文化(our culture)を「醜い文化であっても(may be repulsive, but . . .)」というように、劣位のものとして提出したのか?(その17:4.212) この問いは、村上隆の「窓に地球」の末尾の一文の背景を問うものです。「窓に地球」はリトルボーイ展の基調報告というべきエッセイで、その末尾の一文は、次のとおりでした。

 「進化発展ばかりが夢じゃない。ミューテーションを繰り返した果てに、奇形化した醜態をぶらさげて、顔に醜い傷があっても、それらは生きる意味を持つ。醜い文化であっても生きて来た意味を、未来に伝えたい。」(『リトルボーイ』p.149)*

 “Evolution and progress are not our only dreams. After interminable mutation, a deformed abomination, a face hideous with scars, there is still meaning in life. Our culture may be repulsive, but I want the futre to know the meaning of our lives.”(同上)

注*: 村上隆(編著)『リトルボーイ 爆発する日本のサブカルチャー・アート』(発行:ジャパンソサエティー、イェール大学出版 2005)所収。

4.332.  村上隆は、スーパーフラットという概念をうち出して、スーパーフラット展(2000)、ぬりえ展(2002)、リトルボーイ展(2005)という三つの展示を企画・運営しました。その掉尾を飾るリトルボーイ展の基調報告エッセイの末尾で、いったいなぜ「醜い文化であっても」と腰くだけになったのだろう。

4.333.  時代の主流に反逆した過去の芸術家たち、たとえば印象派の画家たちも、キュビスムの画家たちも、自分たちの作品を発表するときに「たとえこれが醜くても……」という留保はつけなかったでしょう(その17:4.215)。だから、いったいなぜ、という疑問が湧く。すでに述べたとおり、この問いに、村上隆が欧米の美術界に気おくれしたからだと答えるのは見当はずれです。スーパーフラットを打ち出す時点では、彼は気おくれする段階を通り過ぎていた(その17:4.216)。

4.334.  いくつかの答えが浮かびますが、この種の問いに、決定的な回答はありません。これから述べるいずれの回答も、考え方の提示、仮説的な提案にとどまります。

価値観の衝突
4.335.  第一に浮かぶ答えは、社会的文脈におけるスーパーフラット概念の提唱に、村上隆は究極のところで自信をもつことができなかったのだ、というものです。現代美術の文脈で、自分たちの表現に価値があるという点については自信があったにちがいない。しかし、「日本は世界の未来かもしれない」という社会的文脈でのスーパーフラットの含意は、それは重要ではありうるとしても、その価値に自信を持ち得なかった可能性はあります。

4.336.  ここまで述べてきたとおり、「国を雄々しく立ち上げ続ける事」とは別の、子供のように無節操な「ゆるい」生き方は、現実の歴史過程として実在する余地はない(4.312)。理想としても、人間の自由な投企を価値の源泉とする現代世界の枠組みのなかでは矛盾を含む(4.315)。結局、「ゆるい」生き方には現実的にも理念的にも価値を認めることが難しい。

4.337.  さらに、理想として掲げるのではなく、まったく端的に「ゆるい」あり方をするということは、とことん突き詰めれば、人間として意志や思考をもつことそのものを放棄することに行きつく。思考放棄、自己放棄によって、国家も戦争もどうでもよい境地に達するとは、人間が社会でもちうる心的な態度としてそうなるのではなく、人間が自然界でもちうる物的な様態として――心のない物体として――そうなるということだろう。現代世界の枠組みどころか、人間的世界の枠組みの外に出てしまうことに等しい。人外の境地に至るのは美醜を超越する事態かもしれない。だが、そんな境地を唱えながら展覧会を催すのは、人外の境地をほのめかしながら人間界の評価も欲しがることなので、そんな生半可なあり方は醜悪と言われてもしょうがない。

4.338.  とまあ、こんなふうに無粋に理詰めで考えたわけではないでしょうが、自由な投企を価値の源泉とする現代の常識を前提すれば、理想をもたない「ゆるい」生き方が現代の価値観と相容れないことは暗々裡に意識されたと思われます。そのせいで、現代日本の文化を「醜い文化であっても」と言わざるを得なかった。こう考えることが可能です。

神の視点、その欠如
4.339.  とはいうものの、現代の常識的価値観と対決しなければ、新たな歴史を始めることなどできるはずはない。村上隆自身、「既存の定説をいかにアヴァンギャルドが破ってゆくのか。そして突破された後に、どのような歴史がスタートしてゆくのか。その時間軸を踏まえた上でなお、「自由」をいかに獲得してゆくか。」(「スーパーフラット日本美術論」p.20)これこそが大事なところだと述べていました。だから、理想をもたない「ゆるい」生き方にこそ、究極の価値があるのだ、とがんばる必要があった。なぜ、がんばれなかったのか。

4.340.  というわけで、第二の答えが私の脳裡に浮かんできます。それが、先に「相当の回り道を行くもの」(その17:4.216)と予告した回答なのですが、今のところ、その回り道を辿りきることはできていません。つまり、証拠を挙げながら筋道立てて説明することは難しい。というわけで、細部を詰めずに、結論の部分だけ、駆け足で説明します。

4.341.  村上隆は、スーパーフラットを提唱することを通じて、自由な投企を価値の源泉とする現代の価値観と対決する。だが、その対決を上から見おろす第三の視点を想定していない。

4.342.  この第三の視点は、神の視点です。この視点は想定することはできるとしても、それが具体的にどういう判断を下すのかは誰にも分らない。もちろん、神の視点においては、スーパーフラット的価値観と現代の価値観のいずれが真実に近いものなのかは確定している。しかし、対立する当事者には、相手と自分のどちらが真実に近いのか、絶対確実にはわからない。とはいえ当然双方とも自分の方が近いと思っている。また、対立に立ち会っている私たち聴衆にも、神の視点から真実に近いのがどちらなのかはわからない。私たちは、双方の主張を聴いて、自分が正しいと思う方に肩入れするだけです。

4.343.  この第三の神の視点が導入されていれば、スーパーフラットの提唱は、現代の価値観と完全に対等になる。どちらが真に正しいのかはわからなくて、どちらも自分の方が正しいと思っている。それならば、当事者の双方が、あくまでも自分の主張が真実に最も近いと主張し続ければよい。地上では、私たち聴衆がどちらに肩入れするかで、暫定的な決着をみるだろう。このように完全に対等な立場で双方が主張し続ける場合、「醜い文化であっても」というような卑下や譲歩が出現する余地はありません。相手が正しいかもしれないと卑下したり譲歩したりするくらいなら、最初からそもそも自分の正しさを主張するべきでないのです。

4.344.  というわけで、スーパーフラットの提唱の最後の局面で、村上隆が「醜い文化であっても」という卑下または譲歩をしてしまった理由は、自分自身の主張を述べるときに、神の視点を導入する手法と習慣が、日本における芸術論の場に、ひいては日本語の言論の場に用意されていなかったからだ、ということになります。

4.345.  神の視点が導入されないと、言論の場は相手と自分の相対あいたいの関係になる。上から見おろす公正な第三者はいない。すると、相手をどう籠絡するかが重要になり、取り引きや駆け引きが行なわれることになるだろう。卑下や譲歩はそういう駆け引きのひとつの形です。

4.346.  なんだか突拍子もない説明だと思う人が多いかもしれない。美術の議論になんで神が出てくるのか、と詰問したい人もいるだろう。少し補足します。

西洋美術と神の視点
4.347.  西洋美術には神の視点がかかわることは、村上隆が指摘しています。

「西洋の絵画の発展は、科学的数学的手段である一点透視図法による写実によってなしとげられました。西洋の美術の神髄は客観性の追求であり、現世とそれを超えた神秘的な世界像を客観的に表現する手法だったのです。」(『芸術起業論』p.145)

絵画の制作は真に実在するものを表わす活動だった。だから、絵画は実在と見まがうばかりの写実性をもつことが求められた。そして、真に実在するのは、現世を超えた神秘、つまり神なので、西洋美術は、神と、神の眼差しの下にある世界の実在とを精確に表わすという使命をもっていた。

4.348.  上のように説明する場合、神が退場していく19世紀半ば以降の西洋芸術をどうとらえればよいのか、これが問題になります。神が退場しても神の残像はのこる。ここのところの説明に工夫が要ります。これは大きな論題なので、すぐには解決できませんでした。回り道をきちんと辿れなかったというのはこういうことです。

村上隆の芸術観
4.349.  これに対し、村上隆自身は、芸術の目的とは客観的な真実在の表現である、という立場をはっきりとってはいないように見えます。芸術の目的について述べている箇所を幾つか引用し、それにもとづいて村上隆の芸術観を抽出してみましょう。

ア.「芸術の核心は自分で見つけましたが、発見したのは「芸術をやる目的」でした。」(『芸術起業論』pp.16-17)

イ.「ぼくの欲望ははっきりしています。それは「生きていることが実感できない」をなんとかしたい、なのです。」(『芸術起業論』p.77)

ウ.「そこ〔日本の美術教育〕には表現の目的がすっぽりと抜けおちています。」(『芸術起業論』p.151)

エ.「表現の世界では、みんなが、実現不可能なことに夢をはせては挑戦を続けています。
 …〔中略〕…
 不可能に挑戦してきた、満身創痍の先人たちを見てきました。
 手塚治虫さんは、きっと「何か」を見たんだと思います。
 歴史に名が残るかどうかよりも、その「何か」が見えたかどうかが気になるのですね。ぼくはその「何か」を見たいと願い続けてきました。」(『芸術起業論』pp.174-175)

オ.「成功したいという情熱よりも、今のままではイヤだという不満がぼくを動かしている。」(『芸術起業論』p.178)

カ.「ぎゅうぎゅうにしめあげていると、しめあげているだけあって、やっぱり最低でも一回は、光が見えるかのような瞬間がやってきます。これは経験上だいたいの人がそうです。
 …〔中略〕…
 まぶしい光を一回でも見たんだったら、もう他のものなんて何もいらないぐらい幸福なのではないでしょうか。」(『芸術起業論』pp.198-199)

キ.「最終的には「なぜ表現しようとしたのか」の魂に辿りつけばいいのです。
 自分のデザインの根拠を探す仏教美術の調査の過程では、奈良の大仏を作る仏師が名もなき人足だったように、ひたすら労働に打ちこんで作品に隷属するということがいちばん大事なのだという確信を強めました。
 作品からは「自分の信じる何かに隷属する」という姿勢が伝わる。」(『芸術起業論』p.210)

ク.「物語、お話というのはなぜ必要なのか。人間がどうしても芸術にたどり着かなくてはいけないのはなぜか。…〔中略〕…人間は高度な遊びとして精神的なバランスをとる知的なゲームをせずにいられないからなのでしょう。
 そのゲームの中に、ある種の哀しさ、真実があるとすれば、自分が生まれてきていずれ死ぬ、自分が生まれて来たことが無意味であると気がつく瞬間に、それでも無意味ではないのかもしれないと自分を納得させるためにお話をつくらないと生きていけない。ほとんどの宗教はそういう構造を持っているのではないかと思います。」(『芸術闘争論』pp.201-202)

4.350.  上の引用群を綴り合わせて、村上隆の芸術観を取り出してみます。

 日本の美術教育には表現の目的を示すはたらきが欠けているから(ウ)、芸術にたずさわる目的を自分で見出さねばならなかった(ア)。自分を表現に向けて動かしているのは、生きていることが実感できないような(イ)、今の状態はイヤだという不満(オ)なのだ。表現活動に従事するのは、不可能なことに挑戦して「何か」を見るため(エ)、あるいは、光が見える特別の瞬間を体験するためだ(カ)。そのためには、ひたすら作品制作に打ち込んで、自分が「なぜ表現しようとしたのか」の核心に到達するまで作品の完成に隷属することがいちばん大事だ(キ)。人間がそのようにして芸術に従事するのは、自分が生れて死ぬことが無意味であると気づく瞬間に、それでも無意味ではないのかもしれないと自分を納得させるため、ひとつの物語を、つまり作品を、制作する必要があるからだ。それが人間にとっての芸術の存在理由だ(ク)。

4.351.  この芸術観は、芸術家の自己理解として首尾一貫しています。さらに、これに加えて、芸術家の制作する作品にはなんらかの仕方で客観的な真実在が顕現する、と主張すれば、この芸術観は、そのまま芸術の目的とは真実在の表現である、という立場になる。だが、私が見た範囲では、そこまではっきりと言われてはいないように思いました。上の、「何かが見える」体験や「光を見る」特別な瞬間(エ、カ)が、主観的な覚醒の体験なのか、客観的な実在の顕現なのか、必ずしもはっきりしないのです。

4.352.  芸術的な達成が、客観的な真実在の顕現として理解されていれば、スーパーフラット的価値観の提唱は、客観的な真実在へ到達する道の提示になる。その場合、現代の価値観に遠慮して、「醜い文化であっても」と卑下する必要はまったくない。スーパーフラットこそが真実であり、美しいのです。

4.353.  芸術活動とは客観的な真実在の顕現を追い求める活動であるという考え方と、言論の場に神の視点を導入するという語用論的慣習は、同じ一つの考え方にかかわっているようだ。その考え方はこういう風に言い表すことができるでしょう。

 人間の表現活動は、芸術も言論も、また科学的探究も、すべて客観性を追求する試みである。客観的な真実在に、人間は永遠に到達できないかもしれないけれども、人間の産み出すもの(作品、言説、知識、行為、等)はすべて、その客観的な真実在との繋がりの如何によって価値が定まる。

4.354.  村上隆は、この考え方を洞察し、理解しており、自分の活動のなかで実践しようとしている。「世界共通のルール」にこだわるのはその現れです(その16:4.200-202)。しかし、この考え方が暗黙の前提としてすべての人間的活動に織り込まれているような文化、唯一神の眼差しの下にある文化のなかに暮らしているわけではなかった。この意識的な実践と暗黙の前提のあいだに出来たすきまから、「醜い文化であっても」という一瞬の怯みが忍び込んだように思われます。

4.355 最後にお知らせ。以上で、村上隆についての考察は終わりです。8月と9月は夏休みとします。次回は、10月8日に公開する予定です。

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