見出し画像

4.暴力をめぐる点景、2000年代の日本(西洋近代と日本語人 その18)

Ⅲ 村上隆「スーパーフラット」と「リトルボーイ」

Ⅲ-6 スーパーフラット概念の諸問題(続き)

Ⅲ-6.2 スーパーフラットと伝統の打破 ――第二の問い

4.253. 前回(その17)は冒頭で四つの問いを列挙し、第一の問いに回答を与えました。今回は第二の問いを扱います。第二の問いは、村上隆によるスーパーフラットの提唱は、既存の何を打破しているのか(4.208)でした。
 なお、第三の問いは、村上隆は、スーパーフラットを旗印にした作品展を計画・実行することを通じて、どういう歴史をどのように始めることができたのか(4.209)でした。第四の問いは、村上隆は、なぜ自分たちの文化(our culture)を「醜い文化であっても(may be repulsive, but . . .)」というように、劣位にあるものとして提出したのか(4.212)、でした。これらについては、次回以降、順に考えていきます。

第二の問いへの第一の回答 ――ハイアートとロウアートの区別の打破
4.254. スーパーフラットは、美学的には、「隙間の見えない正面性で、超平面的画面を認識させるトリック」(「スーパーフラット日本美術論」p.8)に、「一枚の絵が観客に対して作り出す視覚の動きのスピード感とスキャンのさせ方」(同上)を加えた表現様式として説明されています(その16:4.162&163)。一点透視画法的な遠近法を無視し、同一画面に多数の視点からの図像を描き込み、そこに見る者の視線の動きを誘導する工夫が凝らされる(その16:4.164~4.172)。

注: 村上隆(編著)『SUPERFLAT』(マドラ出版2000)所収。

4.255. この表現様式は、美術史上では、伊藤若冲、曾我蕭白、狩野山雪など、奇想の画家たちから、葛飾北斎などの浮世絵師たち、さらに現代のアニメーション作家の金田伊功らを含みます(その16:4.169~171)。スーパーフラットという美学的カテゴリーによって、いわゆるジャンルの区別は無視できる。屏風絵、襖絵や浮世絵などの伝統的な絵画と漫画やアニメなどを同じ表現様式として解釈できるようになった。

4.256. さらに、スーパーフラットの概念を絵画の様式に限定せず、抽象的にとらえて、同一平面上に、奥行きを感じさせない仕方で、ものを隙間なく並べてしまうやり方、というように一般化すると、この概念は、既存のさまざまなジャンルの区別を無視し、多種多様な表現を無差別に扱う態度を意味することも可能になる。具体的には、現代の前衛芸術とオタク文化を相互乗り入れさせることも可能になる。スーパーフラット概念のこの方向での拡張は、村上隆の自己発見と繋がっています。

4.257. すでに見たように、村上隆はニューヨークで自分自身のバックグラウンドを確認します。村上自身の言葉で辿ると、「差別されたオタク文化から距離を取っていたはずの自分は、絵が動いている姿を見たり考えたりすることが好きでしかたないのだとわかった」のでした(『芸術起業論』pp.98-99)。そして「日本の自画像を作ってみようと、それでフィギュアの作品を作りはじめた」のです(『芸術起業論』p.71)。「日本国を象徴するものは実はロリコンであったり、メイドの服のようなものを愛するちょっと恥ずかしいようなセクシュアリティではないか」(『芸術起業論』pp.71-72)という洞察から、「ヒロポン」や「Miss ko2」といった作品が制作されます。

4.258. ニューヨーク滞在以前の「ポリリズム」(1991)は、大きな合成樹脂の塊の上にタミヤのプラモデルの兵隊をたくさんくっつけた作品です。これはこれで、日本の自画像だった。『芸術闘争論』では、「日本は戦争していないので、平和ボケしている。でもアメリカの軍事力の影響下において平和の惰眠をむさぼっています、という自画像みたいなもの」(p.65)と解説されています(その15:4.138)。

4.259. 〝日本の自画像〟は、この、いかにも前衛芸術然とした「ポリリズム」から、ニューヨークにおける自己発見を経て、オタク文化に根ざす「ちょっと恥ずかしいような」性的欲望を表現するフィギュアに変貌した。現代芸術という〝高級な〟表現形式から、美少女フィギュアという〝低級な〟表現形式への思い切った跳躍があります。村上隆の表現活動が、高級・低級といった約束事を無視して、「オタクから日本人が本質的に抱え込んでいる何かを示す」(『芸術起業論』p.99)方向に拡張されたことがわかります。

4.260. 自己発見を通じて表現形式上の慣例の無視に至り、〝高級な〟前衛芸術と〝低級な〟美少女フィギュアを無差別にあつかって、日本の自画像を描き出す。この姿勢は、欧米の美術市場で受け入れられるための戦略という意味もありました。

 「ぼくは日本のサブカルチャーをハイアートに組みこむことで、欧米の美術の世界における新しいゲームを提案してきましたが、
 「ハイアートとロウアートの境界を理解した上で、ロウアートをハイアートでわざとあつかう楽しみ」を提示したからこそ新解釈として理解されるのです。」(『芸術起業論』p.95)

「ハイアート」と「ロウアート」の区別は漠然としています。それを「〝高級な〟」「〝低級な〟」と言ってきたのですが、村上隆に従えば、ハイアートとは、新たな試みを行って美術史に名を遺すような人々やその作品を言い、ロウアートとは、美術史的な文脈とかかわりなく、人々が日々生みだす無数の美的表現、落書きやアウトサイダー・アート、あるいは土着的・民俗的な表現を言います(『芸術闘争論』pp.210-211)。オタク文化の所産はロウアートになる。しかし、それを日本の自画像として再定義して提示する試みは、ロウアートをハイアートとして押し出す新たな歴史的挑戦です。だから、欧米の美術市場でハイアートとなり得るわけです。

4.261. 根本にある洞察は、現代日本を構成するさまざまな表現を、高級も低級もなく、ジャンルの境界を乗り越え、伝統的な位置づけを無視して隙間なく並べれば、日本の現在が現れるはずだ、というものです。これを村上隆自身は、「「日本」を構成するガジェットで出来た絵を「super flat」絵画のように見渡す作業」(「スーパーフラット日本美術論」p.22)と表現しています。日本の現在を描き出すために、スーパーフラットという概念が有効になる。欧米の美術市場の動向をにらみながら、こういう方向にスーパーフラットの概念は拡張されたわけです。

4.262. 絵画の表現様式としてのスーパーフラットと、日本の自画像を構成する方法としての拡張されたスーパーフラットの、どちらが先に村上隆に自覚されたのかはわかりません。日本画専攻の画学生として、当然、若冲その他の奇想の画家たちのことはニューヨーク体験以前から知っていたでしょう。しかし、奇想の画家と現代のアニメーション作家を一つの視野に収める着想と、日本のさまざまな表現活動をスーパーフラットという概念で見渡す着想は、おそらく相互に示唆し合って同時に生れたのだろう、というのが私の想像です。

4.263. スーパーフラットの提唱は、既存の何を打破しているのか、という冒頭の問いに対しては、第一の回答として、現代の前衛芸術とオタク文化の境界を打破し、表現形式の高級と低級の区別、ハイアートとロウアートの区別を取り払っている、と答えることができます。

日本の自画像――Miss ko²の場合
4.264. では、既存の区別の打破にともなって、どういう表現が可能になったのか。個別の作品を取り上げて、考えてみます。ここでは、村上隆の「Second Mission Project ko²」(1999)(下参照)に着目します。現代芸術がオタク文化へと越境することを通じて、たしかに、現代日本の本質を的確にとらえた自画像が出現しています。

(村上隆(編著)『SUPERFLAT』マドラ出版2000, p.69より)

4.265. この作品は、上の写真右下の、翼をもつほぼ全裸の美少女サイボーグ(Second Mission Project ko² human type)が変形して、左上のジェット戦闘機のような飛行体(Second Mission Project ko² jet airplane type)になるという設定と思われます。この飛行体は、各部をよく見ると、手や腕、脛や太腿の組み合わせでできている。少女の身体を分解して組み立て直したもののようです。写真では見えないのでわかりませんが、胴体や頭部は機体の上面に使われているのでしょう。

4.266. 元々のMiss ko²は、メイド服姿の美少女フィギュアでした(下図、下右)。それが第二の任務(Second Mission)として、美少女サイボーグとなり、さらに飛行体になるようです。男性の身体をもち、男性の性自認と異性愛指向をもつ男性(いわゆるシスヘテロ男性)に、例えばそれはこの私ですが、この一連の変身はどう見えるのか。ごく単純に、女性の性的身体が、戦士という男性の伝統的性役割を担いつつ、人間性を喪失して機械になる、という推移に見えます。

(Miss ko2(Project ko2)『芸術起業論』口絵pp.4-5より)

4.267. 女性が戦士になるのは伝統的な境界の越境かもしれない。だが、おそらく、本人にとって特別なことではない。外科医や物理学者や企業CEOになるのと同じで、ものごとの自然な成り行きの範囲に入るだろう。しかし、ほぼ全裸で戦うというのは不自然で、これはオタク文化のなかに仕込まれたシスヘテロ男性一般の欲望にもとづくものとしか考えようがない。つまり、メイド服と同じく、それには女性に性的な媚びを強要する力が作用しています。

4.268. 他方、戦うときにMiss ko²の身体が分解されて戦闘機の部品となるという展開は、媚びを求める欲望とは違う種類の、人間の身体に対する積極的な悪意がある。よく見ると、この飛行体はかなり異様です。たとえば、機首を支えるように組み合わされた両手のひらは、単なる部材でありながら意識があるように感じられる。意識がかすかに残っている物質。これは気味の悪いものです。人間の身体が部品になっている機械というのは、人間性の否定の最たるものでしょう。

4.269. アジア・太平洋戦争末期の日本には、人間を機械の部品として積極的に利用する悪魔的な兵器がありました。人間魚雷の回天とロケット爆弾の桜花です。回天、桜花は、飛行機や小型船による通常の特攻と違い、反転して基地に戻ることができません。発射されたら、乗員は機器を操作して自爆するしかない。これは人間の脳を利用した精密誘導弾であり、人体が機械の部品となっている。飛行体になったMiss ko2は、回天や桜花と同じ思想を表すように見えます。人体は、物理的身体としてあるメカニズムの部品であって、それ以上でもそれ以下でもない。そして、意識があることは、部品であることを妨げない。

4.270. メイド服姿と美少女サイボーグに共通するのは、性的な媚びの強要です。美少女サイボーグと飛行体に共通するのは、メカニズムの部品となることの強要です。このように整理してみると、Miss ko²のプロジェクトは、現代日本を的確に映し出していることがわかります。個として生きるときには性的なあり方が強要され、共同的な役割を果すときにはメカニズムの部品であることが強要される。どんなときも他者が介入してきて、自分自身の生きている身体を自分で所有することができない。これは女性において顕著かもしれませんが、男性にも起こる事態です。

4.271. 人間が自分の身体を自分で所有することは、近代社会の根本の権利のひとつです。たびたび取り上げて来たジョン・ロック(John Locke 1632-1704)は、『統治二論 第二篇』の第5章27節の有名な一節で次のように言っています。

 「すべての人間は、自分自身の身体において所有権をもっている(Every man has a property in his own person)。この身体に対しては、本人以外のだれもどんな権利ももっていない。その人の身体の労働とその両手の働きは、固有にその人のものであると言ってよい。」

第一文は、各人の生きている身体(person)において、各人はみずからに固有のもの(a property)を持つ、と言っています。その身体を、他人は利用する立場にない。その身体がその人に固有のものであるがゆえに、その身体の労働とその成果もまたその人に固有のものである。したがって、労働の成果物は固有にその人に帰属する。すなわち、所有権の始まりは、人間が自己の身体を所有するということに存する。

4.272. 統治権力が未だ存在しない自然状態にあっても、こうして労働を通じて自然物に対する個人の所有権は成立します。この自然状態における所有権を安定して維持するために、人々は相互に契約を結んで統治権力を組み立て、自然状態から社会状態に移行する。これが十七世紀に提出された近代社会の成り立ちの説明でした。

4.273. Miss ko²のプロジェクトは、したがって、人間は自己の身体を所有する、という近代社会の根底にある理念と、そんな理念なんか知らない、という日本社会の現実とのずれを描き出すものになっています。人間は、他者の眼差しの下で、性的な対象であったり、メカニズムの部品であったりする。神の眼差しの下、身体を所有して労働する一個独立の自己である、なんて話は知ったことじゃない。日本社会のこの自画像は、たしかに、現代芸術とオタク文化の境界を侵犯し、〝高級な〟表現と〝低級な〟表現の区別を取り払うことを通じて達成されたと主張できるでしょう。

第二の問いへの第二の回答 ――リトルボーイ展に見られる「脱力」の幻想
4.274. スーパーフラットの概念は、スーパーフラット展(2000)だけでなく、リトルボーイ展(2005)を主導した概念でもあります*。しかし、二つの展覧会には重点の置き方に少し違いがある。スーパーフラット展の目的は、表現様式としてのスーパーフラットの概念を、日本の美的表現の歴史を貫くものとして提示することにあった。村上自身の言葉によれば、「特異なフォームと、日本独特の美術的感性を持つ作家作品を統合する言葉として「super flat」という概念を抽出〔する〕」(「スーパーフラット日本美術論」p.22)ことに重点があった。他方、リトルボーイ展では、現代社会をとらえる手がかりとしてスーパーフラット概念を提示することが前面に出てきています。

注*: 「スーパーフラット展」(2000)、「ぬりえ(Coloriage)展」(2002)、「リトルボーイ展」(2005)の三つが「スーパーフラットシリーズ三部作」を構成します(『芸術起業論』p.217)。なお、スーパーフラットの概念は、こののち、「村上隆のスーパーフラットコレクション展」(2016横浜美術館)に続いて行きます。

4.275. リトルボーイ展の図録に収録された基調報告エッセイ「窓に地球」は、「エノラ・ゲイ」という歌 の歌詞の引用から始まります*。

「夏のにおいは どこふく神風
……〔中略〕……
世界初の 真夏の思い出
忘れないで 鼻高々
スター気取りで 夏の大空舞えるかい?
君の出番が 二度と無い事を
ほんと願うよ みんなで祈ってるよ
……〔後略〕……」(「窓に地球」**p.99)

「エノラ・ゲイ」は広島に原爆を投下したB29の愛称で、投下した爆弾の愛称が「リトルボーイ」でした。日本は原爆による徹底的な破壊と、その焼け野原からの復興を経験した。しかし、復興を遂げても原爆が日本の根幹を打ち砕いたという事実は動かしがたい。敗戦後、「日本はアメリカの傀儡国家であり続けたために、主体性を保持できずに「戦争」「国家」の判断はアメリカなしでは動けない」状態に陥った(『芸術起業論』p.214)。そして、その状態のなかで、「原子爆弾の愛称そのままに、我ら日本人は「Little Boy」=「ちっちゃな子供」」として生きている(「窓に地球」p.101)。これがリトルボーイ展で打ち出された日本の自画像です***。

「広島原爆の愛称「Little Boy」に込められた真意はどうであれ、我々は見事なまでにおこちゃまだ。おこちゃまのまま、だだをこねつつ自分かわいさに生きてきた。トラウマを栄養に、へたれた社会を温床地に、ぬくぬくと育って来た文化の成れの果ての姿。」(「窓に地球」p.141)

注*: 「エノラ・ゲイ」作詞作曲・辻村豪文。なお、「エノラ・ゲイ」は、辻村豪文・辻村友晴の兄弟デュオ、キセルのアルバム『窓に地球』に収録されている。

注**: 村上隆(編著)『リトルボーイ 爆発する日本のサブカルチャー・アート』(発行:ジャパンソサエティー、イェール大学出版 2005)。

注***: 4.258で引用したように、「ポリリズム」(1991)の時点ですでに、日本の自画像として、「アメリカの軍事力の影響下において平和の惰眠をむさぼっています」という認識はあった。そして、「『リトルボーイ』展では「自分のやりたかったことはまさにこれだ!」というところまで辿りつけました」(『芸術起業論』p.213)と言われている。この自画像は、村上隆のなかに一貫してあったものと判定できます。

4.276. このように、原爆後の日本は、脱力した「ちっちゃな子供」が作る贋物の国民国家にすぎない。しかし、この自己認識とともに、かえってそれこそ世界の未来の姿かもしれない、という逆転が構想されます。日本の自画像が、世界の未来像に転写される。

「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまはSuperflat。
 社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超二次元的。」

この言葉は、スーパーフラット展の図録冒頭の「スーパーフラット宣言」と、リトルボーイ展の図録の「窓に地球」の両方に、このままの形でくり返されています。村上隆がスーパーフラットという概念を通じて提示したかった洞察の核心にある着想と思われます。

4.277. ちっちゃな子供のように、〝高級な〟ものと〝低級な〟ものの区別を無視し、歴史的な文脈や価値基準と無関係に、あらゆるものを同じ平面に並べて「おもしろい」「カワイイ」と評価する。極度に平面的で、もっぱら快感に支配され、奥行きを欠いた判断から成り立つ世界認識、それが世界の未来かもしれない。村上隆は、こう示唆したいらしい。

4.278. この示唆は、2005年5月16日に朝日新聞の夕刊に掲載された村上隆自身によるリトルボーイ展の紹介記事では、次のように説明されています。なお、このとき、村上はニューヨークのジャパン・ソサエティでリトルボーイ展を開催中でした。

「原爆の影響による心のトラウマと、アメリカが真に行いたかったであろう、戦闘意欲喪失のプログラムが施行され、子供的なる脱力社会が完成した。…〔中略〕…
 ではなぜおたくやかわいい文化が勃興したのか?…〔中略〕…この状況下における平和な日常はある意味完成しており、その感覚内において…〔中略〕…幼児的なスーパー個人主義が日本で育まれてしまった。とはいえ必要な時だけは他者も必要だ。そのコミュニケーションの方法やツールを模索していく中で、おたく的嗜好やかわいいものへの無制限な愛情の表現方法が琢磨された。
 その事をドラえもんからウルトラマン、ハローキティやガンダム、アキラ、エヴァンゲリオンそして奈良美智までを並列化し、解説したとき、人間の未来を造り出そうとするする底力を発揮し続けた、戦後のトラウマまみれの日本人のしたたかな芸術性を発見出来るのである。…〔中略〕…
 こうした文化は、アメリカのような軍事主義を中心に据えた国家の人民の中に急速に浸透している。国を雄々しく立ち上げ続ける事への疲弊感からなのか、ことさらパラダイスの出現のように称賛されているのだ。…〔後略〕…」*

注*: 朝日新聞名古屋本社版夕刊 2005年5月16日 村上隆「「脱力」に宿る芸術の力 おたくの起源たどる「リトルボーイ」展 NYで異例のヒット」。

4.279. 「急速に浸透している」とか「パラダイスの出現のように称賛されている」というのは話半分に聞くとしても、大のおとなの幼児性に関心をもつ人がいたことは事実だったのでしょう。記事の趣旨は、日本人は原爆で戦闘意欲を挫かれ、幼児的な個人主義に立てこもった。そして、自分の嗜好に合うものやかわいいものを愛玩することに頼って自分の未来を造り出そうとした。いま、国家を立ち上げることに疲れた人々に、そういう姿勢が評価されている。こういうことのようです。もっと切り詰めれば、「おたく的嗜好やかわいいものへの無制限な愛情の表現」は「国を雄々しく立ち上げ続ける事」とは対極にある態度であり、これが未来を切りひらくかもしれない、ということです。

4.280. リトルボーイ展にいたって、スーパーフラットの概念は、国民国家の解体を射程に入れ、既存の体制に挑戦するものとなったのでしょうか。もちろん、そういうことではない。国民国家の解体を正面からねらったりしていない。そうではなくて、スーパーフラットの概念は、国家と交錯する軌道を避け、国民国家の力を〝肩すかし〟する方法を提示する。というのも、大のおとながなんにも知らない子供にもどって生きて行かれるのならば、国家を一生懸命に立ち上げることの無意味さはおのずと気付かれるに違いない。村上隆が提示したいのは、おそらく、こういう期待ないし希望的観測だと思われます。

4.281. スーパーフラットの提唱は、既存の何を打破しているのか、という冒頭の問いに対する第二の回答としては、あらゆるものを同じ平面に並べて「おもしろい」「カワイイ」と評価するちっちゃな子供のような生き方を提示することによって、「国を雄々しく立ち上げ続ける事」とは別の生き方を示唆し、既存の歴史的文脈や価値意識を打破するきっかけを与える。こんな風に答えることができるようです。

「ゆるキャラ」という存在 ――自由と無節操の混同
4.282. では、スーパーフラットの概念は、たしかにそのような打破のきっかけを与えることができるのか。これを問わねばなりません。あらかじめ言っておけば、私はたいへん懐疑的です。が、ともかく、この問いに答えるためには、ちっちゃな子供のようなあり方を表現する対象を取り上げて、その表現の実質を検討すればよい。そういう対象としては「ゆるキャラ」がもっともふさわしい。

4.283. 「ゆるキャラ」は地方自治体や観光協会が制作した着ぐるみマスコットで(下図参照)、それぞれの地方にちなんだ設定が付与されます。ただし、キティちゃん、ドラえもん、アンパンマンなどとは違い、少数を除いて知名度は低く、「メインストリームからこぼれ落ちるキャラクター」(「窓に地球」p.136)というほかありません。

(「窓に地球」pp.32-33より)

4.284. こういう着ぐるみを、一括して「ゆるキャラ」と名付けたのはイラストレーターのみうらじゅんらしい(「窓に地球」p.137)。キャラクター、つまり、登場人物ないしその特徴のあり方そのものが、「ゆるい」ということでしょう。だが、「ゆるい」とはこの場合どういうことか。

4.285. 村上隆は「「わび・さび」のように、「ゆるい」はなかなか翻訳が難しい」(「窓に地球」p.137)と言います。そして、「ゆるい」を説明するために、「歴史に例を求めるなら、江戸時代の水墨画久隅守景「夕顔棚納涼図」が好例だろう」(同上)と述べる。

4.286. これは十七世紀に制作された下のような二曲一隻の屏風です。村上隆は、この絵について、辻惟雄の「「あはれ」に対する「をかし」の心」といった評言を引き、「「ゆるさ」は日本の歴史の流れの中にも必然を発見可能だ」(「窓に地球」p.137)と断定しますが、それ以上とりたてて説明していません。

(「窓に地球」p.138より)

4.287. 見ればわかるとおり、この絵は、農民の男女と子供の三人家族が、夕闇の迫るなか、夕顔の棚の下で夕涼みをしている、ただそれだけの絵です。木下長嘯子の和歌「夕顔のさける軒端の下すずみ男はててれはふたの物」に材を取ったとされますが*、伝統的な意味のこもった画題ではなさそうだ。また、特段の寓意もないようです。三人家族が夏の夕暮れに夕涼みをしている、その幸福感を描いている。今ここに生きていることに満足している瞬間が切り取られています。いい雰囲気の絵です。

注*: e国寶(https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=100160)の説明から。「ててれ」は襦袢あるいはふんどし、「ふたの物」は腰巻き。

4.288. 村上隆は、ひるがえって、現代の「ゆるい」キャラクターを、次のように特徴付けます。

「あるのはご都合主義の設定のみ。泡沫なイベントのために受けた生命。みんな平和ボケした顔をしている。ゆるキャラは日本人なのだ。なにもかもが一瞬にして吹き飛び、その後の傀儡下の無根拠な国家基盤の下、幼児化した不能な文化が力を帯びてくる。…〔中略〕…この土壌をして、かわいくゆるいキャラクターたちが生れてくるのだ。
 かわいいが完全に理解されたあかつきには、次のモード、「ゆるい」感性も理解され始める。節操の無さ、無意味さを世界中が自嘲的にうっすらと笑う日は近い。」(「窓に地球」p.138)

ここに見られる「ご都合主義」、「平和ボケ」、「無根拠」、「幼児化した不能な文化」、「節操の無さ、無意味さ」といった言葉が示唆するのは、文脈や意味に無関心で、価値の対立に気づかず、自分の立ち位置を自覚せず、あたかも幼児のように、現在ただ今、ただ単に幸福であることに終始している、というあり方です。
 なお、このあり方は、「夕顔棚納涼図」に歴史的な先例を見出すことができるといっていいかどうか、いささか納得しがたいものがある。「夕顔棚納涼図」は現在の幸福感を描いているけれど、それは無節操や無根拠さやご都合主義とは別で、一日の労働を終えて家族そろって休息する幸福に見える。幸福感には根拠があります。でも、この疑問は追及しないでおきます。

4.289. さて「国を雄々しく立ち上げ続ける事」とは別の生き方は、「ゆるキャラ」をめぐる村上隆の言葉を援用すると、こんな風になりそうだ。すなわち、「ゆるキャラは日本人」なので、その日本の「ご都合主義の設定」や「無根拠」性と「「ゆるい」感性」を世界中が理解すれば、みなが「うっすらと笑」って、その「節操の無さ、無意味さ」を「自嘲的に」受け入れる日が来る。

4.290. 「日本は世界の未来かもしれない」という示唆を、上のように具体化して展開してみると、はたして村上隆は本気なのだろうかと疑われます。本気でこんな主張をするつもりがあるのだろうか。「ゆるキャラ」の子供っぽさやご都合主義や無節操を受け入れることが、既存の歴史的文脈や価値意識を打破するきっかけになる、というのは到底成り立たないんじゃないか。というのも、無節操な子供っぽさを肯定する主張は、村上自身が断固としてしりぞけた「日本式自由神話」と同じ内容の誤りになるからです。

4.291. 「日本式自由神話」とは、子供のような真白な状態を芸術家の「自由」と誤認することでした。芸術家の自由とは、子供のように境界を意識せず、制度を知らず、情報をもたない空白の状態ではない。そうではなくて、芸術家がみずからの歴史的な位置を確認しつつ、既存の理念を打破し、自分の制作がひとつの起源となるような新しい歴史を開始することが、芸術家の「自由」なのでした。(その16:4.183~189)

4.292. 「国を雄々しく立ち上げ続ける事」は、芸術ではなく、政治にかかわります。上の「日本式自由神話」に対する批判を政治の領域にそのまま応用するなら、政治的な活動における自由は、子供のような無節操、無根拠の状態ではない、と言わねばならない。自分の歴史的な位置を確認し、既存の理念を打破し、自分の投企がひとつの起源となるような新しい歴史を開始することが、政治的な領域における自由なのだ。既存の歴史的文脈や価値意識を打破するきっかけは、そういう投企によって、はじめてもたらされる。子供のような無節操、無根拠によってもたらされるのではない。

4.293  芸術における自由意志のとらえ方と、政治における自由意志のとらえ方を、同一の内容に保つつもりなら、上のように判定するほかありません。「ゆるい」感性や無節操が政治上の自由な投企であるというのは、子供のように気ままに描くことが芸術上の自由な制作であるというのと、同じ誤りなのです。

4.294 村上隆は、スーパーフラットの概念を拡張し、世界の未来を描く手がかりとして提示する過程で、自分自身が全力を挙げて否定していた「日本式自由神話」に、我知らず陥ってしまったようです。次回以降、第三と第四の問いに答える過程で、村上隆がどうしてこうなったのか、日本思想の問題と絡めて考えていくつもりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?