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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の38]


5.近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

はじめに

1548. 前回は、二つの論点について話をしました。それについて、少し補足します。

第一の論点について

1549. 第一の論点は、デカルトの第一の神の存在証明が「人間の自然な認識の傾向に根拠をもつもの」(番外編2の37:1516)であるということでした。人間は、よく知っているつもりのものに未知の側面が出現するとき、自分から独立に(即ち、絶対的に)存在するものをかいま見る体験をします。たとえば、科学者は、事前の予想を裏切る結果を得たとき、自然の実相が立ち現れてきたと感じるはずです。

1550. デカルトの場合、絶対をかいま見る体験の場面は、神の無限性の認識だった。人は神の無限性を理解する(〔ラテン〕intelligo;〔英〕understand)ことはできるが、全体を把握する(〔ラテン〕comprehendo;〔英〕comprehend)ことはできない。神の無限性が自分の観念を超えて広がっているという感触を通じて、デカルトは神の実在をまざまざと感じたようです。

1551. 無限は、かつては神学上の概念でしたが、現在は数学の概念です。無限を思いめぐらすことが絶対的な存在をかいま見る体験をもたらしたのは、デカルトがすぐれた数学者だったからかもしれません。デカルトの神は数学から来た、というのは、最近誰かから示唆されて、ああそうだ、そうにちがいない、と思ったという記憶がある。だから、誰々の示唆による、とここで注記したいのですが、DMその他の記録をたどっても、誰だったかわからない。(夢だったのかな)

1552. 絶対的存在はあくまでも〝かいま見る〟体験の対象であって、〝じっと見る〟ことはできません。〝じっと見る〟には「これこれこういうもの」という記述が必要です。でも、記述できる対象は、私たちから独立してはない。私たちの観念や言語の体系に取り込まれたかぎりのものでしかありません。

1553. 私たちから独立の絶対的存在は、典型的には、自然の事物です。認識体系にまだ取り込まれていない絶対的なものとしての自然の事物は、自然をとらえる観念や言語の体系が変化するとき、その変化の原因として〝かいま見る〟ことができる。デカルトの場合、数学――これはデカルトにとっては物理学と同義でした――の問題について考えるなかで、無限についての自分の観念が変わっていくのを体験し、無限の存在をかいま見たのではないか。

1554. なお、絶対は〝かいま見る〟だけというのは私の考えです。前回の草稿を書いていて思いついた。哲学業界の一般常識ではないと思います。ただし、誰でも思いつきそうなことなので、有名な人がすでに別の言葉遣いで言っている可能性はかなり高い。(ちなみに、もう一つ、私の思いつきで、かつ有名な人がすでに言っていそうな言葉に、「理性とは権力を内面化する装置である」というのがあります。前から気になってるんですが、誰か言ってるかな。)

第二の論点について

1555. 自然をとらえる観念や言語の体系の変遷を経験しない文明はないので、絶対をかいま見る体験は、どんな文明にもありうると思われます。ただし、絶対を〝あえて考えない〟文明はありうる。日本語が作りあげた文明はそういうものだったようだ(番外編2の35:1441, 1442)。というわけで、伝統的な日本社会は、どうやって絶対との遭遇を管理したのか。第二の論点はこの問いでした。回答は、絶対を〝あえて考えない〟文明は身分差別が支えている、というものでした(番外編2の37:1536)。

1556. 集団の頂点に位置する者だけが天(絶対)と接触し、頂点より下の者は、上位の者に服従する。これで、人々が絶対をあえて考えない仕組みができます。下位者がみずから天と接触すると、天に従って上位者に刃向かい、社会秩序が乱れる可能性がある。上位者だけが天に接し、下位者は上位者に従うようにすれば、集団全体としては天に従いつつ、社会秩序の転覆は避けることができるわけです。(番外編2の37:1534-1536)

1557. これにからんで、前回、今後の宿題にした問題がありました。絶対をあえて考えない文明の特徴として、これまで本居宣長的な認識論を取り上げてきました*。この認識論と、身分差別による絶対との接触の抑制という社会制度との間に本質的なつながりが有るのか無いのか、という問題でした(番外編2の37:1542)。回答を思いついたので、書いておきます。先回りしていうと、本質的つながりがあります。

注*: これまでに宣長的認識論を扱った箇所を枚挙し、どういう側面について述べたのか簡単に述べます。注記というより自分用のメモです。

 番外編2の15、595~631: 絶対的存在の認識へ向かわないという本居宣長の認識論的な特徴の最初の分析。
 番外編2の29、1187;同2の30、1217;同2の37、1540: 上の分析の要約。
 番外編2の30、1231~1241: 宣長的認識論を生み出す要因の一つは、懐疑論を知らなかったことだろう、とする議論。
 番外編2の35、1443~1446: 絶対へ向かわないこと(自分の感動体験を対象の本質認識とみなすこと)と懐疑をもたないこと(自分の感動即認識の体験を疑わないこと)には本質的な結びつきがあるという指摘。
 番外編2の35、1462, 1463: 絶対のない文明から絶対のある文明を見やると、どのように見えるのかの描写。

宣長的認識論と身分制度

1558. 宣長的認識論とはどのようなものなのか、前回の要約を、再録しておきます。

「宣長的な認識論は、対象に感動することと、対象の本質を認識することを同一視します。「あはれ」と感じることは、「あはれなるもの」の全き把握であり、感動を通じて対象は余すところなく把握される。感動を超える異形の本質が姿を現すことは想定されておらず、その意味で、絶対をかいま見る体験は生じない。宣長の審美的認識論は、単純化すればこのようなものです。」(番外編2の37:1540)

1559. 要点は、「「あはれ」と感じることは、「あはれなるもの」の全き把握であ〔る〕」ということ。一般的にいえば、「感動を通じて対象は余すところなく把握される」ということになります。さらなる探究によって見出されるはずの未知の性質は対象に残されていない。

1560. このように対象への感動と対象の本質認識が同一視される場合、非凡な人物の感動と認識の体験は、侵しがたい権威を持つことになりやすい。というのも、対象の本質が感動を通じて〝余すところなく〟把握されているという仮定の下では、初心者や凡人が、非凡な人物の見逃しや見落としに気づくことはあるはずがないからです。

1561. 非凡な賢者は感動とともに対象の本質をとらえてしまう。認識から独立した絶対的存在は想定されていないので、対象はくまなく賢者の直観(感動と認識)の中に現れている。したがって、世界の隠された実相というものはない。となれば、凡人がひょんなことから賢者に未知の隠された本質を見つけてしまうこともない。

1562. しかし、賢者の直観は凡人にはうかがい知れません。だから、この世界は、凡人にとっては隠された実相を秘めている。修行を積んで賢者の直観を我がものとすれば、その実相は凡人にも明らかになるでしょう。凡人が賢者と同等の直観を得たかどうかは、賢者に親しく教えを受け、奥義に達したという承認を授かること(免許皆伝)によって確認される。

1563. 上のような次第ですから、宣長的認識論の下では、非凡な人物を頂点とする階層が作られやすいことは容易に想像できます。宗教カルトや家元制度はこういう階層構造でできているように見えます。きちんと調べたわけではないのですが、導師に従う禅の修行にも似た印象がある。また、頂点に不可謬の教皇を戴くローマン・カトリック教会の伝統的な組織も、この種の階層構造をなしているようだ。したがって、非凡な頂点とそれに付き随う凡俗からなる階層構造は、洋の東西を問わず、どこにでも現れうる。

1564. 宣長的認識論は、絶対(ないし真理)との接触の身分差別による抑制という社会制度と馴染みやすいことが、以上から分かります。カルト宗教などでは、頂点の人物が世界の実相をすべて知っているとされやすい。これに対し、頂点の人物のさらに上位に天や神 God という絶対的存在が想定される場合は、頂点の人物は、たかだか人間の知り得ることを知っているにすぎない。しかし、いずれにしても、頂点の人物が、対象の本質認識を独占的に所有する、というあり方は共通します。こういう認識論は、権威主義的な階層構造を容易に作り出すと考えられます。宣長的認識論と階層構造のあいだには本質的なつながりがあるのです。

1565. 西洋近代文明の前提は、絶対的存在が人間によって余すところなく把握されることはない、というものです。宗教改革においては、プロテスタント諸派とカトリック教会は、お互いに相手の主張は懐疑論に陥ると非難し合いました。どちらの陣営の信仰の論理にもそれぞれ足りないところがあって、人と神を確実に結びつけることはできなかった(番外編2の31:1247-1256)。また、デカルトは、自分の見出した疑いのない真理を語るという姿勢を崩さなかったけれど、自分の主張に対して異論があり得ることを認めていた(番外編2の35:1453)。

1566. 個人は、互いに対等の立場で、自由に、みずから真と信ずるところを述べ、善と信ずることを行ない、美と信ずるものを愛するのみ。たとえ非凡な存在でも真善美を独占的に所有することはできない。これが西洋近代の流儀のようです。人間にできるのは、たかだかそれぞれが真善美と信ずることがらを、絶対的存在の前で追求することだけです。その追求の成否は絶対的存在によって定まる。自分は絶対的存在をすでに余すところなく把握していると主張することは、人間の条件を逸脱しており、とんだお笑いぐさにほかなりません。

デカルト研究をめぐって

1567. デカルトの神の存在証明について、ずいぶん長く議論してきました。デカルトについてはまだまだ論ずべき点が残っていて、なかでも、新しい自然学(数学的物理学)がどういう内容なのか、新しい自然学と神との関係はどのように設定されているのか、といったことは述べておくべきですが、これについては、文献を一つ紹介しておくにとどめたい。

小林道夫「デカルトにおける自然学(物理学)の形而上学的基礎づけについて」(日本學士院紀要、2017、第71巻、第1号、https://doi.org/10.2183/tja.71.1_1

 これは、小林道夫(1945-2015)が日本学士院で行なった講演で、デカルトの自然学について、歴史的展望を含め、要点を絞って短く述べたものです。私がデカルト自然学について何か語るとしても、この報告のごく一部を語りなおすぐらいしかできません。

1568. 著者の小林道夫は、私が大学院の博士課程を終えるころに、いろいろな研究会で顔を合わせ、親しく薫陶を受けた人です。私がデカルトについて知った風なことを述べていられるのは、ひとえに若いころ小林さんの学殖の一端に触れたことがあるからです。フランスで博士の学位を取得したあと、コレージュ・ド・フランス(Collège de France)のジュール・ヴュイユマン(Jules Vuillemin, 1920-2001)の助手に採用された。そういうすごい切れ者なんだという噂は私などにも聞こえてきていました。ところが、親しく接してみると、すこしも切れ者っぽいところがないばかりか、とても粗忽で、対人的にまるで無防備で、言わなくてもいいことを口走ってしまうので敵が多く、場所柄をわきまえてるつもりが全然わきまえてない、熱狂的な阪神ファンの、困ったおっちゃんでした。

1569. 小林道夫さんのデカルト関係の仕事を紹介しておくと、まず入門書として、『デカルト入門』筑摩書房(ちくま新書、2006)があります。本格的な研究書としては、デカルトの全体を論じた『デカルト哲学の体系: 自然学・形而上学・道徳論』勁草書房(1985)がある。また、『デカルトの自然哲学』岩波書店(1996, 新版2015)は、コレージュ・ド・フランスで1991年に行なわれたデカルトの自然学に関する講演を邦訳して出版したもの。この本については、私の書評(日本科学哲学会編『科学哲学』第30号1997所収)が、名古屋大学学術機関リポジトリ (nii.ac.jp)にあります。

1570. 私は、たまたま、西洋哲学史上でデカルトと対称的な位置にあるとされるイングランドのジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の哲学を勉強していたので、小林さんが主催していた「17世紀研究会」*という場に混ぜてもらった。デカルトに比べればロックやヒュームは小者だが、それでも17世紀を勉強してるとは、ハイデッガーとかロールズとか今どきの有象無象に取りつく連中よりは見どころがある、ということだったようです。

注*: この研究会の論文集があります。井上庄七、小林道夫 編『自然観の展開と形而上学 西洋古代より現代まで』紀伊國屋書店(1988)。私は、「ジョン・ロックと微粒子説」という論文を寄せています。

1571. デカルトに関する残りの問題は小林さんの仕事を参照していただくことにして、ここからは、ジョン・ロックをはじめとするイングランドの哲学者や自然学者の話をしたい。デカルトは主に数学と理論物理学に関心をもっていたけれど、イングランドの哲学者たちは医学や化学をはじめとする実験的自然学に関心をもっていた。理論物理学だけでなく、実験物理学や化学、医学その他の実験科学が勢ぞろいして、初めて近代科学の全体になります。数学と実験は、近代科学の二本の柱です。そして、これらは西洋古代中世の学術では脇役ですらなかった。近代を画する特徴は、数学だけでなく、実験という学問的手法にもひそんでいます。

1572. と、まあこういう風に語れば、デカルトからうまく話題がつながるわけですが、どうもよそよそしい。私は、こんな小ぎれいにまとまる型通りの問題関心からロックという哲学者と縁ができたわけではありません。そもそも、なんでまた私は、ジョン・ロックなんていう、日本の哲学畑には研究者もあまりいない(政治思想畑にはけっこういますが)、しかし認識論・存在論と政治・社会思想の両方で西洋思想史上の巨人の一人である、つまり、人気はないけど重要だ、というシブい哲学者の研究に流れついたのか。そのあたりを話しておきたい。題して「余は如何にして哲学徒となりしか」

余は如何にして哲学徒となりしか

1573. 別のところで書いたのですが、1976年の5月頃、関西でいうところの大学5回生、つまり留年1年目だった私は、洋書店で、オックスフォード大学出版局から刊行が始まったばかりの新訂版ロック全集の第1巻 John Locke, An Essay concerning Human Understanding (『人間知性論』)を目にして、卒業論文はこれでやってみるか、と思って購入したのでした。でも、洋書店の店頭にいたるまでの歴史があります。

1574. 留年なんかしていて、あまりやる気のない怠惰な学生だったわけですが、やる気なく怠惰であることは、真面目で真剣であることの別の表現でもあります。大学でやらされる勉強が価値のないものに思われるのは、どこかに本物の学問があると思っているからです。本物がどこにあるかわからず、雲をつかむような不安な気分なので、やる気も出ず怠惰にならざるを得ない。ちょうど、大学を終えて松山や熊本に赴いたころの漱石の心境とやや似ています。漱石は秀才で、怠惰ではなかったのですが。

1575. 学校の勉強がバカらしく思われるようになるについては、前史があります。1968年、私は高校1年生で、勉強とスポーツに一心不乱に打ち込んでいました。でも、この年の暮れ頃からどうもいら立ちがつのり、心身の調子が狂ってくる。正月に帰省した兄が、山崎正和の『このアメリカ』という本を持っていて、たまたま読んだところ、こんなエピソードがあった。記憶に残っています。

1576. 著者はニューヨークに住んでいた。ある夜、わめき声と騒音で目が覚める。自分のいるアパートメントに多数の緊急車両が来ている。階下で激しい諍いが起きているらしく、どうも誰かが連れて行かれる様子である。翌日、外出するため階段を降りていくと、階下の一部屋のドアが開けっ放しになっている。見ると、備え付けの家具の、寝台や机や箪笥がすべて消え失せ、大量の木っ端ががらんとした部屋のあちこちに散乱して積み重なっている。その部屋の住人がすべての家具を木片になるまで叩き壊し、わめきながら放り投げたらしい。その騒動で緊急車両が呼ばれ、どこかへ連れて行かれたのだった。

1577. ニューヨークで生きる人々の緊張と不安、孤立と暴力衝動を示すエピソードですが、16歳の私は、この人の気持ちは分かる、と思ったのだからなんだか可笑しい。私も周りにあるものをぶち壊したい気分だったようです。そして、勉強にスポーツに一心不乱に打ち込むなんてのは間違ってるのだ、そう翻然と悟ってしまった。この冬をもって勉強はすっぱりやめました。

1578. 折から1969年、東大入試が中止になった年です。平穏な時代だったら、自分ひとり脱落するのは勇気がいったに違いない。時代が後押ししてくれたから、勇気はいらなかった。たんにやめちっただけ。受験勉強なんてものはしない方がまともなんだという感覚は、自分で主張するまでもなく、時代の空気として存在していました。村上龍の『69』は、この時代の地方都市の高校生をとりまく空気を活写した名作です。80年代に読んで爆笑した。

1579. そういう次第で、69年と70年の2年間は、学校当局に向かって、高等学校が大学受験に特化しているのは教育理念の放棄である、差別選別の受験教育を直ちにやめろ、なんて文句をつけたりしながら、好き勝手に本を読んで過ごしました。とりあえず卒業しましたが、受験はせず、親は寛大だったので、東京にいた兄の下宿の別室に転がり込み、市ヶ谷にあった小さな予備校に籍を置いて遅れた勉強を取り戻す、という仕儀にいたりました。

1580. アホになって勉強すりゃいいんだろう勉強すりゃあ、という人間性をなめた姿勢で取り組んだ結果、一年後の入試は通ったものの、きっちりアホになってしまい、真人間にもどるリハビリのため、大学1年目は体育の授業しか出席しないという生活を送らざるを得なかった。年次を重ねても特に専攻したい学問が見つかるわけでなし、何をやっても許されそうな哲学科に所属して、一週間に2回か3回くらい授業に出ながら、宇野邦一さん*なんかとやっていた読書会で、ヘーゲル『小論理学』、カント『純粋理性批判』、バタイユ『エロティシズム』なんてものを読んでました。

注*: 宇野さんとは長く音信が絶えていたのですが、5年前に交流が復活し、対談することができました。宇野邦一さんと田村均さんの対話 vol.1  学園坂出版局 (gakuenzaka-press.com)を参照してくだされば幸いです。

1581. この60年代末から70年代初めの経験は、やはり意味があった。振り返って整理すると、私はこのときはじめて、個人の選択だけではどうにもならない社会的な力というものがある、ということに漠然と気づいたようです。自分ひとりだけ現在の社会制度から抜け出して自由になることはできない。ひとつの拘束から抜け出しても、抜け出た先でまた再び搦めとられる。個人と社会の関係は入り組んだ網の目になっている。個人と社会の関係をうまく解きほぐして理解できないだろうか。そういったことをなんとなく考え始めたようです。

1582. 3回生、4回生ともなれば、自分の進む道を見つけたようなふりもせねばならない。個体が環境の知覚的認知から始めて共同性へといたる道筋を示すことができたら面白かろう。とりあえず、当時もっとも新しい感じの哲学だったフランス現象学でもやってみようと思い、メルロー=ポンティの『知覚の現象学』に取りついてみた。さっぱりわからない。邦訳を読めば字面じづらの意味はわかるが、問題の焦点は全然わからない。現象学の元祖、フッサールから読まないといけないのかな、と思って『現象学の理念』や『デカルト的省察』なんてものを読んでみる。こんどは大仰な言い回しと不自然な訳語の頻出に閉口する。現代のこの手の議論には、どうも18世紀のヒュームとカントが先行するらしい。でもヒュームとカントには17世紀のロックとデカルトが先行している。そんなことがなんとなく分かってきたところに、洋書店でロックの本を見つけて買い込んだわけです。すでに5回生なので、迷っているひまもなかった。

1583. 律義にノートを取りながら2回通読して、3回目の読み返しに取りかかったころに、まあなにか論文めいたものが書けそうだなという感触が生まれました。ロックの言う「実体(substance)」とはいったい何なんだろう。ロックは、ある箇所では、実体とは物のさまざまな性質をたばねて保有している「なんだか分からないもの(we know not what it is)」に過ぎない、と批判する。それなのに、別の箇所では、デカルト同様に、思考する精神的実体と、空間に延び広がっている(延長する)物的実体は存在する、と明言する。なぜ、ロックは、私たちから独立していて、私たちの経験にはその全体が決して与えられない「実体」というものを、「なんだか分からない」と罵りながら、自分の体系から追放できないのか。この謎を説明すれば、卒業論文にはなるんじゃないかな、と思ったわけです。

1584. 実体(substance)という概念は、アリストテレス以来、西洋思想を貫く大問題をなしています。私見では、フランス現代思想も、量子力学の解釈問題も、世界を実体論的に記述するか、それとも実体概念は捨てて関係性を重視して記述するか、という問題にかかわっている。つまり、それらは実体をめぐる問題系に属すといってよい。もちろん、当時はこんなことはまったく思いもよらなかった。ただ、ロックという人物の思考を追って行くと、“substance”という言葉をめぐって一見矛盾したことが述べられている。ここのところを解きほぐせば、学校に提出する論文くらいにはなるんだろう、という感じでした。

1585. 古い時代の大物の哲学者の著作を読むことの功徳は、こういうところにあります。よく理解できないところを理解しようと足掻いていると、目の前の文章を理解するための努力が、そのまま歴史を貫く哲学の根本問題につながって行く。ロックの『人間知性論』は、認知心理学の始まりをなしており、科学哲学と言語哲学のさきがけであり、道徳哲学と神学の近代的な形を提示するものでもあって、通読にはかなり忍耐を要しますが(文章は平明だが説明が冗長でくどい)、立ち入って紹介する価値のある著作です。

1586. というわけで、次回(7月13日公開予定)から、デカルトと対比しながら、ロックとその周辺の哲学者・自然学者たちが、実験と観察という近代的な学問の手法を確立していったいきさつを紹介して行きます。

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