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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の36]


5.近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

はじめに

1466.  前回はデカルトの神の存在証明が、真理をめぐる論争の公正な審判者を立てるはたらきをもっている、という話をしました(番外編2の35:1456)。今回は、神の存在を証明する論理の実質を紹介します。

1467.  証明の前提になる条件は三つが明らかになっています。第一に、さしあたり、確実に存在するのは考える私とその観念だけであること。第二に、観念は何かを表しており、表現するものに応じた実在性(表現的実在性)をもっていること。第三に、原因は結果以上の実在性を備えていること。この三つの条件の下で、神の観念は表現的実在性がきわめて大きいので、その観念の原因となるような神そのものが、私の心の外に現実に存在しなければならない、という結論が導かれます。(番外編2の35:1429, 1430)

1468.  その論証はこれから紹介しますが、随所でちょっと納得しかねるような論理が展開される。今回の目標は、そういうところにはある程度目をつぶって、議論のつじつまが一応合っていると感じられるように説明することです。

神の存在証明の基本的な考え方

1469.  デカルトの第一の神の存在証明の基本的な考え方は、考える私の心の中にある神の観念の原因を、神そのものの存在に求める、というものです。上で確認したように、この議論の段階では、確実に存在するのは私とその観念だけです。したがって、私の持っている神の観念の原因は、私であるか、あるいは、私以外であるかという二者択一になる。デカルトは、神の観念の原因が私ではありえないことを示し、結局、神の観念はそれが表現している神そのものを原因と考えるほかない、という結論にもって行くわけです。

1470.  なお、デカルトの第二の神の存在証明は、私の存在の原因を神の存在に求める論証です(『省察』「省察三」pp.267-271*)。第三の存在証明は、存在論的論証と呼ばれるもので、神は最も完全な存在者であり、存在しないことは完全性を欠くことであるゆえに、最も完全な存在であるところの神が存在しないということは矛盾である、という論証です(『省察』「省察五」pp.284-288)。この二つは以下では言及しません。

注*: 野田又夫(編)『世界の名著 デカルト』中央公論社1967所収の『省察』のページ付け。以下同じ。

1471.  第一の存在証明においては、原因の概念と実在性の概念をうまくあやつることが論証の要点になります。デカルトは、

「より多くの実在性をそれ自身のうちに含むものは、より不完全なもの〔より少ない実在性をもつもの―引用者補足〕からは生じえない」(『省察』「省察三」p.261)

と述べます。そしてすぐ続けて、このことは

「現実的すなわち形相的実在性を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても、明らかに真〔である〕」(同上)

と確認します。

1472.  ややこしい言い方ですが、これは、原因の実在性は結果以上であるという原理は形相的実在性だけでなく表現的実在性にも適用される、と念を押しているのです。「形相的実在性」という言葉は初出なので、まずこの言葉を説明します。

形相的実在性

1473.  「形相」とは、アリストテレス哲学の「エイドス」というギリシア語を訳したものです。「エイドス」は英語では「form」と訳されます。つまり、「形」です。「形相」は、アリストテレス用語としては、ある事物の本来の姿かたち、つまり本来のあり方、を言います(番外編2の1:17, 18)。例えば、椅子は、椅子の形をしているがゆえに椅子であり、バラはバラの形をしているがゆえにバラである。そのものをそのものとしている本質的な特徴を「形相」と呼ぶわけです。

1474.  「形相的実在性(formal reality)」とは、だから、「そのものをそのものとしている特徴にもとづく実在性」という意味です。要は、バラがバラであることにもとづく実在性ということ。あっさり言えば、現実のバラの実在性です。デカルトも、「現実的すなわち形相的実在性」と言っています。「形相的実在性」とは、現実の事物が在るということです。

形相的実在性とその原因

1475.  デカルトは、形相的実在性に関しては(つまり現実の事物に関しては)、原因の実在性は結果の実在性以上でなくてはならないという原理が問題なく成立する、と考えています。出来事や物体の原因は、その出来事や物体と少なくとも同等以上の実在性を備えているのは当然だ、と考えているわけです。どういうことか。

1476.  デカルト自身は、石と熱という例を挙げています。詳しい説明はないので、読者が考えて補う必要があります。熱の方が考えやすいので、まずはこちらから。ヤカンの水をガス火で沸かすといった日常の経験から、より熱いものが作用すればものは熱くなる、と容易にわかります。水が熱くなるという結果は、より多くの熱の実在性を有する(より熱い)ものが原因である。要するに、これだけのことです。

1477.  石はどうか。私たちは、マグマが冷えて固まる(火成岩)とか、礫、砂、泥、火山灰、生物遺骸などが水底で押し固められる(堆積岩)といった地質学の切れ端を学校で学びますが、デカルトは知らなかったでしょう。石については、次のように言っています。

「以前にはなかった一つの石が、いま存在しはじめるということは、その石のうちにおかれるすべてのものを、あるいは形相的に、あるいは優勝的に、自己のうちに有するところのあるものによって、それが産出されるのでなくては、不可能である」(『省察』「省察三」p.261)

要するに、石が存在するとは、その石の性質すべてを〝形相的に〟または〝優勝的に〟含むものから産出されるということだ、という大ざっぱな説明をしているだけです。詳しい説明はありません。「優勝的に」とは風変わりな言葉遣いなので、下で説明します。

1478.  まず、石のうちにあるすべてを「形相的に」含んでいるものとは、形相として石であるもの、つまり、石です。一つの石が、大きな石が割れることで産み出される、といった場合を考えればよさそうです。

1479.  次いで、「優勝的に」とは、ラテン語の「eminenter」の訳語*です。羅英辞典には、「highly, eminently」とある(Charlton T. Lewis, Charles Short, A Latin Dictionary, ēmĭnenter (tufts.edu))。ここでは「より優れた仕方で」**というほどの意味。石の性質すべてを〝優勝的に〟含むとは、それ自体は石ではないけれど、石の形相のすべてを〝より優れた仕方で〟有している、ということです。

注*: 世界の名著版の井上庄七訳だけでなく、白水社のデカルト著作集版の所雄章訳も、「優勝的」という訳語を用いています。典拠がありそうですが、あまり感心しない訳語です。

注** “eminenter(eminently)”の解釈は、Clatterbaugh, K.  The Causation Debate in Modern Philosophy : 1637-1739.  London: Routledge, 1999, p.23を参照しています。

1480.  具体的には、神が天地創造において一個の石を創造するといった例を考えてよいでしょう。神は石のイデアをもっています。だから、一個の石が存在しはじめる原因として、神はより優れた仕方で石の形相すべてを有しているといってよい。あるいは、現代の読者としては、マグマはそれ自体は石ではないが、冷えて固まって砕ければ無数の石となる。だから、無数の石を産出し得るという意味で、マグマは優れた仕方で石の形相(性質)を備えている。こんな風に理解してもよいと思います。

1481.  石であれ熱であれ、現実の事物が存在するについては、そういう結果を産み出すだけの実在性を、結果と同じ仕方で、または、結果より優れた仕方で備えた原因があって、それによって結果が産出される。デカルトはこう言っているわけです。これは、「事物にはそれが生ずるに足りる十分な原因がある」*といっているだけのことです。空虚な文言のように聞こえますが、たしかに私たちはこう考えています。言葉遣いはややこしいけれど、形相的実在性に関するデカルトの主張は、一応うけいれてよさそうです。

注*: これは、「充足理由律(the principle of sufficient reason)」と呼ばれることがあります。

表現的実在性とその原因

1482.  「形相的実在性」とは、現実の事物が在るということです。これに対し、「表現的実在性」とは、「ある観念の表す対象によってその観念に宿る実在性」(番外編2の33:1328)のことでした。例えば、バラの観念は、それが表しているバラによって一定の実在性を有するようになる。それがバラの観念の表現的実在性です。

1483.  上で見たとおり(1471, 1472)、原因の実在性は結果以上であるという原理は、形相的実在性だけでなく表現的実在性にも当てはまる、とデカルトは念を押しています。どういうことか。

1484.  観念は、表現的実在性によって、つまり、それが何を表現しているのかによって区別されます。バラの観念と石の観念の違いは、それぞれの観念が表現している対象の違いに帰着する。したがって、個々の観念の原因の探求は、それぞれの表現的実在性の原因の探求になる。

1485.  表現的実在性の原因を考えるにあたって、デカルトは、次のように述べています。

「この観念はこの特定の表現的実在性を含んで、他の表現的実在性を含んでいないということは、明らかに、その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含むところの、ある原因によるのでなくてはならない。」(『省察』「省察三」p.262)

 ひどくややこしい言い方ですが、この一節は、〝Xの観念がXを表現するのは、現実のXが原因である〟と言っているにすぎない。例えば、バラの観念がバラを表現するのは、現実のバラが原因だ、ということ。

1486.  「その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含む」(上掲)とは、具体的に考えれば、〈バラの観念の表現的実在性と同等以上のバラの実在性を形相的に含む〉ということです。そして、〈バラの実在性を形相的に含む〉とは、現実のバラであるということです。だから、上の1485の引用は、バラの観念がバラを表現するのは、現実のバラである原因による、と言っていることになる。

1487.  表現的実在性の原因が、「少なくとも同等の実在性を形相的に含む〔もの〕」とされているところが1485の引用の眼目です。表現的だった実在性が、形相的な実在性(現実のものの実在性)に置き換えられているのです。どうしてこうなるのか。

1488.  デカルトは、観念においては表現的実在性が問題になるのだから、観念の原因もまた表現的な実在性で足りるはずであって、あえて現実のものとしての形相的実在性に及ぶ必要はない、という考え方をはっきり退けます。

「一つの観念が他の観念から生まれることがありうるにしても、しかし、この場合、無限に遡ることはできないのであって、ついにはある第一の観念にいたらなくてはならない。そしてこの観念の原因は、原型ともいうべきものであって、観念においてはたんに表現的にあるところの実在性のすべてが、そこでは形相的に含まれているのである。」(『省察』「省察三」p.262)

観念の表現的実在性の原因を探求していくと、最後は原型となる形相的な実在性(現実のものとしての原型的な存在者)に行き着く、と断定しています。しかし、断定するだけで、詳しい説明は書いてありません。

1489.  こんな例を考えることができます。「ソクラテス」という観念を例に取りましょう。私は、「ソクラテス」という名前を若い頃に何かの本で読んで知りました。その名前はある観念(考え)を伴っていた。本から得たその観念は、ソクラテスを表現している。つまり、そういう表現的実在性を持っていたわけです。その本の著者も、もちろん、ソクラテスの観念を別の本から得たことは間違いない。

1490.  すると、こうなる。私は、ソクラテスを表現する観念を、ある本を通じて、その本の著者のもっている観念から得た。その本の著者は、また別の本から、ソクラテスを表現する観念を得た。この系列はどんどん遡ることができます。遡ると、遂にはプラトンとかクセノポンとか、現実にソクラテスを知っていた人の書いたものに行き着く。そして、プラトンやクセノポンのもっているソクラテスの観念は、現実のソクラテスに親しく接して得た観念であり、現実のソクラテスを原因としている。

1491.  このソクラテスの例は、上の1488の引用文の趣旨に合致します。引用文をかいつまんで書き直すと次のようになります。

「一つの観念が他の観念から生まれることがありうる」が、「ついにはある第一の観念にいたらなくてはなら〔ず〕」、「この観念の原因は、原型ともいうべきもの」であって、「実在性のすべてが、そこでは形相的に含まれている」

 私たちのもっているソクラテスの観念の表現的実在性の原因は、遡ればプラトンやクセノポンのもっていたソクラテスの観念(「第一の観念」)に行き着き、この第一の観念の原因は、「実在性のすべてが、そこでは形相的に含まれている」現実のソクラテスである。こういうことです。

1492.  観念の表現的実在性の原因は、その実在性を形相的にふくむところの原型としての現実の存在者である、というデカルトの主張は、とりあえず受け入れてよさそうです。もちろん、「シャーロック・ホームズ」の場合はどうなるのか、「ヤハウェ」はどう考えたらよいのか等々、疑問は尽きません。が、標準的な事例では、表現的実在性の原因は、形相的実在性に置き換わる、ということを認めましょう。

さまざまな観念とその原因

1493.  冒頭に掲げた神の存在証明の三つの前提条件は以下のとおりでした。

(1)確実に存在するのは考える私とその観念だけである。
(2)観念は何かを表しており、表現するものに応じた実在性(表現的実在性)をもっている。
(3)原因は結果以上の実在性を備えている。

ここまでの検討によって、(3)の条件が詳しく書き改められたことが分かります。すなわち

(3′)表現的実在性の原因は、当該の実在性を同等以上に、かつ、形相的または優勝的に、含むところの現実の存在者である。

1494.  デカルトはこれだけの前提から何を結論したいのか。本人はこう語っています。

「もしも、私の有する観念のうち、あるものの表現的実在性がきわめて大きく、その実在性は形相的にも優勝的にも私のうちにはないこと、したがって、私自身が当の観念の原因ではありえないことを、私が確信しうるほどであるならば、ここからして必然的に、私ひとりがこの世界にあるのではなく、その観念の原因であるところの、何か他のものもまた存在するということが帰結する」(『省察』「省察三」pp.262-263) 

 趣旨は以下のとおり。確実に存在するのは考える私だけである。そこで、私のもっている観念をすべて調べて、その表現的実在性に見合った実在性を、この私が形相的または優勝的に含んでいるかどうか吟味して行く。ある観念の表現的実在性に見合った実在性を私が形相的にも優勝的にももっていないことが判明したならば、私以外の存在がその観念の原因として存在しなければならないことがわかる。こういう論理です。

1495.  したがって、デカルトが神の存在を証明するために論証しなければならないことは、第一に、神以外の存在者の観念の表現する実在性は、すべてそれに見合った実在性を私のなかに見出すことができること。第二に、神の観念の表現する実在性は、私のなかに見出すことができないこと。この二つです。

神以外の存在者の観念について

1496.  デカルトは、観念を次のように分類します。(ア)私自身を表現する観念、(イ)神を表現する観念、(ウ)無生物である物体を表現する観念、(エ)天使を表現する観念、(オ)動物を表現する観念、(カ)他の人間を表現する観念。書き並べてみると、植物を表現する観念が欠けているのに気づきますが、なぜだかわからない。不問としておきます。

1497.  (ア)の私自身を表現する観念には問題はありません。私は私として存在しており、私自身の観念の表現的実在性に見合った形相的実在性を私の中に見出すことができるのは自明です。

1498.  (エ)(オ)(カ)の天使、動物、他の人間をそれぞれ表現する観念は、「私自身と物体的な事物と神とについて私の有する観念から」(『省察』「省察三」p.263)複合できる、とされます。複合の仕方の説明はありません。勝手に補足すれば、天使の観念は、私より神に近く、私以上の理性をもち、物体性をともなわない(即ち、身体をもたない)存在の観念として複合できそうです。他の人間の観念は、私と同様の存在の観念として考えればよい。動物の観念は、私と同様に身体をもつが、私と違って理性をもたない存在の観念として複合できるでしょう。

1499.  これらについてすこし注意が必要なのは、「観念から」複合されると言われていることです。天使、動物、他の人間を表現する観念は、私と神と物体の〝観念〟が原因なのです。観念の表現的実在性の原因が再び観念である場合、最終的には形相的実在性を備えた原型に行き着くはずでした。私の観念は私の形相的実在性が原型になる。でも、神の観念と物体の観念は、それぞれの原型が何であるかはまだ判明していません。

1500.  そこで、(ウ)の物体を表現する観念を考えましょう。まず、光、色、音、香り、味、熱や冷といった感覚的に受容される観念は、その時々で変動する混乱した不明瞭な観念であって、そもそも何らかの実在を表現しているのかどうか疑わしい。つまり、考慮するほどの表現的実在性はもっていない。これが感覚への懐疑から哲学的思索を開始したデカルトの一貫した立場です。それゆえ、これらについては取り上げる必要はないとされます。(『省察』「省察三」p.264)

1501.  物体に関して明晰かつ判明に認知されるのは、三次元的な広がり(延長*)、形、位置関係、位置の変化(運動)などです。また、物体は実体であり、時間の中で持続しており、一つ二つと数えることができます。したがって、延長、形、位置、運動に加えて、実体、持続、数といった観念が物体を表現していることになる。(結局、物理学で問題になるような物体の観念が考慮に値するとされるのです。)

注*: 「延長」は「extension」の訳です。デカルト哲学の(ひいては西洋近代哲学の)用語としては、「延長」は物体が三次元空間に延び広がっている〝状態〟を言います。「延ばす」という〝動作〟を意味しないので、注意してください。私の印象によると、日常語では、「延長」は、多く「延長する」という動詞形で使われ、「延ばす」という意味になる。名詞「延長」も「延ばすこと」や「延ばした部分」を指す。なので多少の違和感があると思いますが、哲学用語としては、「延長」は、物体が三次元空間に延び広がっている状態のことです。

1502.  物体における実体、持続、数といった観念については、デカルトは、考える私も実体であり、時間的持続を生き、数多くの観念をもっていることから、「実体、持続、数、その他これに類するものは、私自身の観念からとりだされえたように思われる」(『省察』「省察三」p.264)と言います。要するに、今の場合これらは物体を表現する観念だが、その表現的実在性の原型は、私の形相的実在性(現実の考える私の存在)が供給すると見てよい、ということです。

1503.  物体の延長、形、位置、運動といった観念については、こう言います。魂は空間を占拠せず(即ち延長ではなく)、形も位置も場所的運動ももたないから、考える私は、これらを形相的に(即ち、みずからの属性として)備えてはいない。だが、これらはいずれも実体の様態である。考える私は実体なのだから、これらは、優勝的には、つまりより優れた仕方において、私の存在に含まれるはずである(『省察』「省察三」p.265)。ここには、言外に、魂は物体よりも優れた存在であるという考え方が前提されています。魂である実体は物体である実体のすべての様態を、いわば〝上位互換〟の様態で備えている、と主張しているわけです。

1504.  以上のようにして、物体を表現する明晰判明な観念は、すべて考える私という存在を原因とすると言ってよいことになる。物体の観念の表現的実在性は、形相的または優勝的に、考える私の実在性に帰着するわけです。残るのは神を表現する観念です。

神の観念について

1505.  神とは、「ある無限な、独立な、全知かつ全能な、そして私自身をも――もし私のほかにも何ものかが存在するなら――他のすべてのものをも創造した、実体」(『省察』「省察三」p.265)です。神を表現する観念は、こういう実体を表現している。物的実体については、私も実体、物体も実体なのだから、物体の諸性質の観念は、私の存在に形相的または優勝的に含まれる、ということができた。同じように、私も実体、神も実体なのだから、神の諸性質の観念は私の中に含まれる、と言うことはできないのか。

1506.  無論、デカルトの回答は、「できない」です。なぜか。理由は、神が無限の実体だから、ということに尽きます。説明が必要でしょう。

1507.  まず、考える私は有限な実体です。この場合、有限であるとは、誤りうるとか、知らないことがあるとか、魂のはたらきに限界があることを意味します。自分が誤っているのではないかと疑ったり、知りたいと欲したりするのは、自分に何かが欠けていることが私にわかるからです。このとき、次のことは論理的に明らかです。

「何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私のうちにあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ、不可能である」(『省察』「省察三」p.265)

みずからの有限性と不完全性を自覚する私は、自分の中に、完全な存在者の観念をもっているのです。だから、「神の認識は私自身の認識よりも、ある意味で先なるものとして私のうちにある」(同上)と言わねばなりません。私の中に、神を表現する観念が存在している。

1508.  私の中に神の観念がある。けれども、神の無限性を私は把握する(comprehend)ことはできない。神は、私たちが考え得るあらゆる完全性をすべて備えています。そればかりでなく、「神のうちには…(中略)…思惟によって触れることすら決してできないようなものが無数にある」(『省察』「省察三」p.266) つまり、私たちの考えがとうてい及ばず、考えることすらできないような仕方でも、神はやはり完全無欠である。神が無限であるとは、このように、あらゆる限定を超えて完全無欠な存在であるということです。考えることすらできないような完全性を把握する(comprehend 丸ごとつかむ)ということは成り立たない。

1509.  何が明らかになったのか。第一に、神の観念は、私の不完全性を知らしめる規準として私の中に存在している。だが、第二に、無限な実体としての神の観念は、私が把握できる範囲を超えている。すなわち、神の観念は心の中にあるのにもかかわらず、その観念は私のとらえることができる範囲を超え、私が考えることすらできない領域に及ぶと認めざるを得ない。私が考えることすらできない存在の観念を、私が作り出したということはありえない。したがって、私の中にある神の観念は、神そのものを原因とする。ゆえに、神は存在する。私の読み取った限りで、デカルトの第一の神の存在証明は、こういう論法になっています。

おわりに

1510.  以上の論法は、説得力が有るような、無いような微妙なものです。〝私が考えることすらできない存在〟を私が現実世界の対象として作るということは、確かに背理です。何かを作るときは、ああしよう、こうしよう、と考えて作るはずなので、できたものは〝考えることすらできない存在〟ではないことになるからです。

1511.  しかし、〝私が考えることすらできない存在の観念〟は、作ることができるんじゃないか。というのも、「私が考えることすらできない存在」という表現の意味を、私は少なくとも理解はしている。意味の理解は、言語を運用する一連の心的かつ身体的な過程として、社会的に成り立つ。この一連の社会的過程が成り立つとき、「私が考えることすらできない存在の観念」を私は作っていることになる。こう言えるんじゃないか。

1512.  ちょっとなに言ってるかわからない、とお考えの方も多いと思います。私も正直いって、自分が何を言おうとしているのか判然としません。神ないし絶対的存在は、人々が社会的な相互行為(interaction)のなかで実現することであって、個人の意識に還元することはできない。こんな直観が根底にあるようです。でも、今回はここまでにします。

1513.  次回(2024年6月8日公開予定)は、絶対のある文明とない文明について少し補足したあとで、ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)について考える予定です。


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