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樋口直美さん「私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活」を読んで~静かに希望への道のりを歩む~

この本にたどり着くまで

仕事していた時に縁があり、心の病院に通うことになった。仕事を辞めてストレスフリーになった今、抗うつ薬が嫌になり服薬を本日、お医者さんに連絡して中断することになった。私の場合、軽い不安障害なことと副作用なのかまだ分からないけど、しばしば腹痛があるので中断してみた。

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薬の効果より、美味しいものや大好きなお酒がずっときちんと食べ飲みできない辛さが勝ってしまっている。横須賀ネイビーバーガーやポテトのようにジャンクなものをがっつり食べたい。
薬だけに頼らないで、本当に落ち着くべきところに着くのか不安になるので、図書館で本を借りては読んでいる。

心の病院には、待合室には私と同じ一見、「どこに不調を感じているのかな?」と見えづらい人もいるし、高齢のおばあちゃんおじいちゃんもいる。私は通院するたびに待合室の人のことが気になった。通院している病院は認知症の専門病院でもあるので、認知症の人も多くいる。認知症のことや他の心の病気、また当事者だけでなく付き添っている介護者や家族も目に入る。

そんな背景もあり、「私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活 」の紹介をSNSで見てなんとなく図書館で借りた。認知症に興味があると思っていても、レビー小体型認知症は福祉系大学時代に授業で聞いたことはあるが、難しいイメージで読めるかな、と不安に思っていた。
けど、当事者(本人)の日記を通して、様々な不安や絶望を経験しそれでも立ち上がっていく姿を見て共感できたし、すこし差し出がましいかもだけど「先輩としてお会いしてお話したいなぁ。」という自分の心が安心できる温かい気持ちになった。
紹介してくれた人と樋口さんと本を通して繋がれた気持ちになれた。
素敵な人はたくさんいるんだね。

辛いのは人との関わりに支障が出ること、孤独感

脳の病気や障害は、明日にでも、自分や愛する人に起こる可能性のあるものです。でも、もし誰もが、正しく病気や障害を理解し、誰にでも話すことができ、それを自然に受け入れられる社会なら、病気や障害は、障害でなくなります。私は、認知症を巡る今の問題の多くは、病気そのものが原因ではなく、人災のように感じています。〔私の脳で起こったこと、表紙より〕

樋口さんは日記で症状に対する不安だけでなく、その先にある家族へ迷惑をかけたくない、という思いや、認知症に対する偏見に伴う告知の問題、友人など周囲の人との関わりについて不安を述べている。このことは、認知症だけでなく、他の障害や病気を持っている人にも共通するのかなと思う。

また彼女は何度か悪夢を見ている。悪夢に対して「人から普通の人間として扱われなくなることが怖い」と述べている。団体行動から外れてしまう夢、皆から呆れられ、軽蔑の目でみられる夢。実際にそんな風にバカにされることは今はないにも関わらず。

なるべく笑っていたい。小さなことでもいい。夫と一緒に他愛なく笑う日常こそが、人生の幸せなのだと思う。グルメも旅行もモノもいらない。普通の日常が欲しい。〔私の脳で起こったこと、p28〕

本のはじめのころに樋口さんが言っていることば
私も不安障害がひどく、専門家にも繋がっていない時は「普通の日常が欲しい。」と思っていた。ただそれだけなのに、遠い存在に感じた。そうなると、私の場合は友人からの誘いもキャンセルして、楽しいことも我慢して、「仕事をがんばらないと。」と思った。なぜそうなってしまったのか、と思う。
絶望の中にいる時、孤独の時は、自分を楽しみから遠ざけてしまうのかもしれない。

理解されにくい病への偏見について

レビー小体型認知症は脳はほとんど委縮しないという。樋口さんは本の最後の項で「私は認知症ではありません。」「一種の障害だと今は受け止めています。」と述べている。また、偏見についても次のようにも述べている。

テレビで専門家が言います。「認知症の人は記憶ができません。新しいことは覚えられません。でも、感情は残っているんです。」病気の種類も進行の度合いも無視して、十把一絡げに全部。「認知症の人」です。〔私の脳で起こったこと、p231〕

認知症が主体ではなく、樋口さんという素敵な存在が主体なのだと思う。
私のことになるが、私と仲良くしてくれる人はみんな、私自身を見て判断してくれる。そんな人と一緒にいると心地良い。私も相手にとってそんな存在になりたいな、と思う。

樋口さんは専門家である、主治医からも「進行を遅らせるために(あなたに)できることはない」と言われている。
うつ病と誤診され、認知症の専門医に繋がり適切な治療を受けるまで丸9年もかかっている。その間、死の恐怖や、自分が自分でなくなる怖さなどを綴られている。
その中での主治医からのことば。

その後、別の先生から「あんたが進行しないように、祈っているよ。」と言われて帰り道に涙が出たという。「大丈夫だよ。」と責任者はなかなか言えないと思うし、安易なことばかけはできないと思う。
私の主治医は基本、寄り添ってくれる人だけどそれでも、主治医の対応から「先が見えない不安」を少なくとも感じている。
ましてや、切り捨てるような発言はして欲しくないと思う。
絶対的に信頼を寄せている専門家に切り捨てられたりすることは、さらに追い打ちをかけられるようなものだと思う。

障害や傷を堂々と見せる人を美しいと思う。障害自体が障害なのではないと気づかされる。それを隠そうとする気持ち、そうさせる周囲の誤った理解や偏見が、障害だ。どんな病気だって、脳の病気だって同じだろう。〔私の脳で起こったこと、p212〕

最後にこのことばを載せたい。樋口さんは、そのような偏見や対応を経て絶望し、それも絶望の底から這いあがって、今は堂々と生きている。
隠そうとする気持ちをさせる周囲の理解、偏見、は直接的だけでなく、間接的にも感じてきたと思う。
私は今後、世の中や周囲だけでなく、専門家すらにそういったことを感じるかもしれないけど、冷静に自分らしく生きていけたらと少しでも思えた。

最後に~自分の症状を改善させることと、自分自身を語ることについて~

樋口さんは、情報収集だけでなく症状を改善させるためにアロマやヨガや芸術など自分にとって気持ち良いことを実践している。そしてそれは、実際に症状の改善につながっている。その中で、「楽しく笑うことが一番効果が高いと感じている。」と言っている。
私は10年間のお仕事のストレスで歯ぎしりして生きてしまったように感じている。それも全て経験なのだけど、脳にダメージを与えてしまっているのかもしれない。
お仕事を辞めた今、自分にできることは「自分が気持ち良いと思えること」を探して実践してみることなのかな、と思った。金銭的に限りはあると思うけど、今はそっちに注いでみたいと思う。

また、私は以前、自分の過去のことについてはじめて記事を投稿してみた。けど、「スキ」をくれた人がいて嬉しいと同時に「自己満足で恥ずかしいな。」といった感情がわき起こって、記事を見返すこともできず、二度とネガティブな自分に関する記事は書かないようにようにしよう。と思った。

けど、樋口さんの他者の手が入っていないありのままの日記を見て、少し安心した。これからも機会があれば書いていけたらと思う。
でもできれば、ありのままだけど、見た人が温かく楽しい気持ちになれるような記事を書きたい。静かに希望への道のりを歩んでいけたらと思う。

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