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孤独を感じる年末年始

年末年始は楽しい人もいれば楽しくない人もいる。
私は年末年始に、好きなことをして楽しく過ごせたことが少ない。
今年は最悪だった。帰る実家が無いようなものなので、夫の実家で集まったのだが、親戚で来客があったので、コミュニケーションに慣れない相手が入ったのだ。さらには子どもたち。
子どもたちも親戚で理解があまり無い人の子どもだと、辛い。
理解はしようとしてくれる。でも、いつも接していると言葉の端はしに、「やはり他人事なんだな。」と思うことがある。
例えば私は多人数のやり取りが苦手なのは、聞こえないからであって、さらに経験値が少ないのもあるけど、手話などの言葉がないからである。筆談といっても、向こうがやってあげるというかたちだとどうしても、対等にお話ができない気持ちはある。
私は31日、元旦と頑張った。単語を拾って、喧騒の中でテーブルの向こう側の数人に向けて声を出して。

なるべく前日に夫に「なるべく、隣に座っていてね。子どものところに行かないで。」と言ったので、夫は守ってくれた。守ってくれるのは嬉しいし、夫は優しいから大好きだ。
でも、守られているという私が辛い時もある。本当は、私は一人でも色々できるのに。夫の通訳やサポートが無いと、自由に振る舞えない自分に打ちのめされる。夫婦関係にヒビを入れちゃうものだなーと思う。
何も知らない善意ある親戚はとても厄介だ。「本当はあなた達のその態度が私たちにとって余計なんです。」

夫にとっては、親戚とワイワイ過ごすのが楽しいようだ。私はワイワイ過ごしても孤独を感じるくらいなら2〜3時間で帰りたい。
私自身の問題なのかもしれないが、私が今強迫性障害という精神疾患も抱えているのもあるし、夫には多大なサポートを受けている。
それと聴覚障害のことは別だ。

親戚と過ごすのが楽しいならば、夫だけ親戚と過ごせば良いのかもしれない。前向きな意味で、私はその間一人で何をしようかな?
年末年始、「難聴(ろう者も?)の居場所が必要なのでは?」と本気で思ってしまう。私だけかもしれないけど。
難聴者で、気兼ねなく集まって、美味しいものを食べたり、自由に動いたりして年越しを迎えるんだ。
その時は「聞こえる人に対する不満暴露大会」ではなく、「ここでは聞こえる人(理解が難しい人)はいないので、年末年始ぐらい自由に過ごしましょうね。」という場が良い。
夫は聞こえる人で、かつあまり強く言えない人なので、友人にも親戚にも私のことは強くアピールはしてくれない。だから、私は「もういいや。」と思う。人には向き不向きがあるんだし、マジョリティーがマイノリティーに立ち向かうのは相当なものであるのだ。
私の夫が悪いのではなく社会が悪い。それだけ、再確認したかった。そうしないと「夫が全て悪い」に問題がすり替わってしまうからだ。
なぜ、聞こえない家族が全て悩んだり、考えないといけないのかと思う。聞こえない家族はみんながみんな強い人ばかりじゃない。私たちは普通に恋愛して普通に結婚したんだよ。
もちろん、夫の「仕方ない。」という言葉は嫌いだ。「簡単な言葉で片付けるなよ。」と思う。

特別な聴覚障害者でない私のつぶやきは、また書くと思います。

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