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「HUG」がある日常

はじめに

*この記事は絆家シェアハウスアドベントカレンダーの投稿の一つとして執筆しています。今回は2日目です。

今年9月30日に「HUG」の世界に飛び込んだ。
テラスハウスに憧れがあった自分にとって、なんて最高のことやら。笑

そして今日に至るまでの2か月、いろんな思い出ができた。
たったの2か月で、こんなにいい思い出ができるとは正直思ってもみなかった。

でも、今回執筆するにあたって、思ったことが一つある。

「今まで周りの人たちにちゃんと自分がどんな人なのかっていうのを話したことなかったな。」

いい機会だと思うから、自分のことを伝える場にさせてもらおうと思う。

この機会を与えてくれたやまたくをはじめ、普段から自分たちの生活を支えてくれている運営事務局の方々に感謝いたします。


CHAPTER.1   自分のいない世界

1995年10月 母の実家がある愛知県小牧市で生まれた。
名前の知輝(かずき)は「知性輝くように」という想いでつけられた。
生まれて間もなく、栃木県足利市に引っ越しを余儀なくされた。
いわゆる転勤族で、小学3年生までに4回の引っ越しを経験した。

人生の大半を群馬県太田市という県内で3番目に大きい町に住んでいた。
とはいえ、田舎の部類にはいるかな・・・都会志向が強い人が多い町であった。

最初の3年間は何事もなく生活してきた。
しかし、中学に進学したその時からいじめが自分を待っていた。
3年間やむことがなく、時に辛くて学校から逃げ出したこともあった。
母親にも相談した。しかし、自分に何か悪い点があったからいじめられると言われてしまった。
その時は耐えることしかできなかった。

高校に進学して、状況が変わった。

しかし、自分の他人との距離が遠く感じた。

正直、怖かった。
今まで自分が悪いことをしてなくてもいじめられてて、自分が気づいてないから悪いんだと思ってた。
そして他人が怖かった。周りの人の考えがわからず、こう思っていた。

「どうせあなたも嫌いなんでしょ」

味方でいてくれる人なんていないと思ってた。
だからこそずっと一人でいた。

大学内定をもらってもうすぐ卒業というとき。
別学科の男子グループがよくしゃべりかけてくれていた。
初めて友達ができたと思った。そして嫌われたくないと思いながらいろんなことをしてあげた。
ある日、動画をとってほしいと頼まれ、動画を取ってあげた。
かっこよく動画編集してあげたりした。
しかし、その動画が自分の知らないところでYouTubeにアップロードしてて、その動画自体に問題があるとのことだった。
先生にその動画の目に入り、動画撮影に関わった自分を含め数日間の停学処分が下された。

やっぱり、人って裏切るんだな。

そう思ってしまった。

大学進学して、いじめはなくなった。
しかし、自分はその世界にいないと感じた。
友達もいなければ、普段から話す人なんていなかった。
そんな大学生活が嫌で、バイトをたくさんした。
セブンイレブンに10年間で4都県9店舗勤務したり、
ユニクロ1年半やってそのうち3か月連続でグッドスタッフ賞もいただいた。
社会経験が自分に自信をつけさせた。

それでも他人への恐怖はなくならなかった。

いつかみんな自分から離れる。裏切っていなくなる。そう思っていた。

CHAPTER.2 天国と地獄

そんな中、大学のESS同好会に所属してた時にしていた関東学生英語界連盟の時の先輩に誘われて、都内のベンチャー企業に就職した。
それを機に大学も中退で終わってしまった。
人事担当として採用された

けどそこは、いわゆるブラックな環境だった。

勤務時間は朝10時から始まり、深夜1時に会議をし、朝方4時まで
社宅は会社から5分のところだったけど、1LDKの1室に13人たこ部屋状態。
それでいて給料は「0円」だった。
最初は自分が悪いのかなって思ってた。けど違った。
精神的にも限界を迎えて、8か月で会社を辞めたというか、夜逃げした。

そのあとアルバイトを何個か掛け持ちしながら生きる道を模索していった。
そんな中、コールセンターの仕事する機会をいただいた。ここから人生が変わった気がする。

最初はオペレーターとしていろんな情報をまとめて自分なりに案内しやすいようにがんばった。
その結果、アシスタントSVとしてより幅広い仕事をさせていただけることになった。
資料作成や新人教育、上席対応などの普段経験できないことまでさせてもらえた。
それ以上に得られた経験は大きかった。
周りの人がめちゃくちゃいい人ばかりで、自分がどんなに大きなミスをしても、怒らなかった。
逆にたくさん心配してくれた。

ここまでの人生26年、いろんなことを経験できた。
とてもいい思い出とは言えないほど、過酷な人生だったし、生きる価値がないんじゃないかとさえ思った。
その中でも一つの気持ちは変わらなかった。

「だれかのための存在になりたい」

その思いにも触れておきたいと思う。

CHAPTER.3  自分の生きがい

中学3年生の卒業式、2011年3月11日。
卒業式が終わった数時間後に東日本大震災が起こった。
群馬県も大きな揺れを感じ、市内は停電。
朝方まで寒い中、耐えしのいだのをいまだに覚えている。

翌年、家族で宮城県の南三陸にある防災対策本部を訪れた。
建物は廃墟のようで、周りは殺風景に、近くにはミニカーのように車が積まれていた。
その風景を見て、幼きながらこう思った。

何か力になることがないだろうか

大学生になって、学内で東北ボランティアサークルに入ることになった。
そしてその年の夏に気仙沼市でのボランティアをすることができた。
その後も福島、岩手、宮城の3県でボランティア活動をしてきた。
仮設住宅への訪問や地元の小学校訪問など地元の人との交流もあった。
それらを通してわかったことがある。

人はいろんな人の力を借りて困難を乗り越えている。

いろんな形でもいいから何か自分でも役立つ存在としてこの世界にいたい。
そんな想いからそんなことを思うようになった。
そうして今の自分が存在していることに気づいた。

話を戻すと、コールセンターでの仕事を終え、次なる挑戦としてインフラエンジニアという選択肢を選んだ。それが去年の9月になる。

現在、フィールドエンジニアとして多くの現場に携わさせていただいてる。
周りからの評価が良すぎて自分でも買いかぶりすぎではと思ってしまうほど。
それでも、「だれかのための存在」になれていることにとても誇りをもっている。

おわりに

今回は、自分が何者なのかということを書いてみました。

絆家にはたくさんの困難を乗り越えてきた人たちがたくさんいると思う。
だから声を大にして言いたい。

あなたは1人じゃないよ。

HUGに入る前までの自分にも言い聞かせてやりたいほど。
単純なようで複雑なこと。それでもこの一言は誰にとっても灯火として光続けるだろう。
そう思っている。

自分は色んな紆余曲折を経て、この地に辿り着いた。
でも、これが早過ぎても遅過ぎても、今の自分というのはいなかったと思う。
いや、そもそも存在すらしてないんじゃないかと思う。

HUGに入った後のストーリーは第二弾の時に語ろうと思います☺️

最後にこの言葉を記して終わりたいと思います。

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな肥料になったんだなあ
じぶんが自分になるための
- 相田みつを -

相田みつをの名言・格言集

2023/12/2


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