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[本]「闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由」を読んで

よければ。インスタで長くなりすぎて削った分を含めた完全版です。

闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由/ジェーン・スー

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私は、一体これまで、そしてこれから、どれだけスーさんの言葉に救われるんだろう。

スーさんを知ったきっかけは、スーさんのエッセイをドラマ化した「生きるとか死ぬとか父親とか」だった。大好きな女優さんが出ていたから、それだけの理由で見ていた。
当時は普通に面白いドラマだな〜くらいな感じだった。正直それくらいだった。
そして数年後の今。もう一度見返していて、あの頃と全く見えるものが違っているのを感じている。
...そう思って、考える。あの頃隣で見ていた母は、母として、ひとりの女性として、何を感じていたのだろうか、と。

さて、今回そんな中で読んでいたこちらの本は、「自分の居場所を作り出す女の話が欲しかった」というスーさんの言葉通り、自分で自分の居場所を他ならぬ自分の力で切り開いてきた女性たちの物語だ。

読んでいて、いつしか、自分の将来を先輩たちの姿に重ね合わせていた。自分にもできるんじゃないか、と思えて、希望が湧いてきたように感じた。そして気づく。その希望を持つことは、他ならぬ「自分への期待」をすることと同義なのだ、と。

私はこの2年、自分に期待することができなかった。怖かったのだ。期待して、頑張って、でもできなかった時、まるで自分に裏切られたように感じるから。だったら期待しないほうがいい、やらなければ傷つかない。
...そうしているうちに自分の力を見失ってしまった。いつしか「自分なんて」が頭の中の口癖になっていた。やらない理由を探して、未来への希望も持てず、死ねないから生きてる、という感覚で、穴埋めのように日々を過ごしてきた。
だけど色々なことが重なって、自分なんて一緒にいても楽しくないでしょ、とただ人間関係で傷つくのが怖かったから予防線を張っていた過去とさよならをして、人と関わろうと思えるようになった。そして人と向き合うことの大切さを知った。ちゃんと向き合ってみると、私は向き合ってくれる人に囲まれていたことに気づいた。そうしているうちに、「私なんて」という考えが小さくなっていったのだ。

冒頭に「個人的には、『私なんかが』という思いが私を助けたことは、いまのところ一度もない」と書かれている。今の私はその言葉に大きく頷ける。でも少し前までは、そうじゃなかった。そしてこの言葉は、この本に出てきた先輩たち全てにも言えるんじゃないかと思うのだ。誰ひとり、自分の力を信じなかった人はいなかった。皆が自分にはできるはずだと信じ、力を尽くし、自分の居場所を作っている。

全ては積み重ねなのかもしれない、と思う。「自分なんて」という強い引力のある思いを打ち消すには、「自分にもできる」と思える出来事を積み重ねていくしかない。そうしてできた分厚い層が、自信の根拠となり、自分軸の強固な土台となって彼女たちを支えているのだろう。

印象に残っている部分を数箇所。自分軸を持つことって、他者の如何にも依拠しないことなのだと思っていた。だが田中みな実さんの回を読んで、それは間違いだったのだと気づいた。
体型管理などを「自分のためなんかじゃない」と言い、「人に評価されている状態が、自分が好きな自分なんです」と言っていた。自分の評価を他人に求めてそれを自分の糧にすることは良くないことなのだと思っていた。自己評価を他人に依存してしまうことになるのではないか?と思っていたから。だけど、そうではないことに気付かされた。田中さんは人からの評価を得て、そうあれる自分の姿から自信を生み出し、自分軸を確立させていた。

私はいつも他人の目を気にしていて、何で自分軸で生きられないんだろうと思っていた。他人の目が無ければ何もしないだろう自分が嫌だったし、他人に何を言われても関係ないというような強さを持つことが、自分軸を持つことなのだと思っていたから。
だけどそれは勘違いだった。他者から評価されることは単純に嬉しいし、何より自分の努力や頑張りの裏付けになる。単純な話だ。自分のために、自分の評価のためにやったことが、結果自信なればそれは確固たるものになる。だってその自信の根拠は、他ならぬ自分の行動だから。大切なのは「どうすれば自信が持てるのか」ということなのだ。

もう一つ、北斗晶さんの回。私個人としては、北斗さんはバラエティの「鬼嫁」とにこやかな旦那さん、のイメージ。でもいつも頭に浮かぶのは、あのにこぉっとした笑顔。あの人といえば...と誰もが思い浮かべる顔が「満面の笑み」というのは、なんて素敵なんだろうと冒頭を読んでいて思った。
傷と時について書かれている部分がある。北斗さんの時が傷を癒すってこういうことなのだ、という話を受けて、スーさんが「何があろうとも、最終的には自分に利を生む経験だったと腹落ちさせられる人は、必ず歩を前に進められる。恨みがましさを手放せるようになるまで、私は自分に成し遂げる力があると信じることができなかった」(p.231)と。

冒頭にも述べたことと重なるが、この2年間、できないと決めつけて諦めて、同時に何もできない自分に文句ばかり言っていた。何もしていないのだから当然何も成し遂げられるはずがないのに。...自分なんてと最初から諦めて、やる前から文句を言うな、やってみないと何も分からないでしょう、自分にもできるかもと信じてやってみろよと、自分に言えるようになるまで、自分を信じられるようになるまで、私は2年かかった。

でも同時に、その2年があったから今があるのだとも思うのだ。結果論かもしれないけど。そう思いたい。今嘆いても仕方がない。今いい感じならそれでいい。

20歳の今。私はこれから何度も迷うんだと思う。本当に自分にできるのか、自信がなくなる日なんて山ほどあると思う。だけどその度に、この本に戻ってこようと思う。
そして何度でも、先輩たちの姿からまた前に進む力を受け取りたい。いつか自分が、その背中に続けるように。そして願わくば、自分の後ろに続く人がいて、力を与えられる存在になれるように。

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スーさんの言葉が好きなのは、他者への想像力が溢れているのを感じるから。あぁ自分は一人じゃないのかも、と救われたことがこれまで何度あっただろうか。亀裂が入った心の隙間に、スーさんの言葉が優しく染み込んで、笑い声に背中を押されて、また明日も頑張って生きてみようなんて思えるのだ。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

大屋千風

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