見出し画像

子供をもつということ

子供をもつ、ということについて。

今20歳を生きる私は、現時点で子どもを持ちたくない。現時点では。

このことについて書いておきたいと思う。

というか、これまで子供を欲しいと思ったことがない。
テレビで赤ちゃんの映像が流れる。タレントがかわいい、と呟く。

それを見ている私は、全く共感できなくて苦しい。
どうしても、可愛いとか愛おしいとか、そういう感情が出てこない。
子どもだからと言って、そういう特別な感情を抱けない。
かわいい、と思うことはあっても、それはキャラクターとかに抱くビジュアル的なかわいいと同じ感情だ。多分みんなが言ってる、愛おしさが含まれる“かわいい”とは違う。

子どもも大人も、同じ他人でひとりの人間だとしか思わない。
こんな私は冷たいとか言われるんだろう。

私のアルバイト先は家具屋で、家具だけでなく生活雑貨はもちろん、多くのぬいぐるみや子供用家具を扱っている。だから土日なんかは家族連れが圧倒的多数を占める。
スタッフとして働いている私に、目が合うと多くの子どもが手を振ってくる。私は笑顔で振りかえす。営業スマイル。

私が振りかえすと、子供はさらに笑顔になる。無垢な笑顔をめいいっぱいに広げて、こちらを見つめる。親が気づいてすみません、と嬉しそうに言う。平和だ。守るべき光景だと思う。

子どもの様子を気にかけながらセルフレジをする母親の姿を見ながら、大変そうだな、とぼんやり考える。そして、ああ私にはできないだろうな、とも思う。

離れたところで子どもに笑顔で手を振っている同僚を見る。
私もさっき子供に手を振られて振り返したけど、それは「仕事中」だからだ。私は「感じのいい店員A」を演じなければならない。だってお金をもらっている。だから笑って手を振った。
多分その同僚は私とは違う。
だって自分から手を振りに行っていたし、浮かべる笑顔に嘘は見当たらない。
ああ私はあんな風になれないな、と思う。
他人との違いを、思わせられる。


私は依存したくないし、されたくない。
これは私の家族観に大きく影響していると思う。
他者とのあらゆる関係において、特に恋人や夫婦といった関係性においてはなおさら、精神的にも経済的にも、依存したくないしされたくないと思っている。

子どもは当然一人では生きていけない。
育てる人間がいなければ死んでしまう。私が子どもを産んだら、その子どもは私に依存することになる。生物学的意味でも、私は唯一の産みの母親になってしまう。

子どもにとって特別な存在になることを、かけがえのない喜びに感じる人が大多数のこの世界で、私は真反対の感情を抱く。

唯一。世界で私だけ。私はそれがこわい。

もちろん私は子どもを産んだことがないし、「産んでみたら変わるかもしれないよ」とか「産んでみたら分かる」とかいう意見もあるかもしれない。
でも、子どもって「試せる」ものではない。

武田綾乃さんの「愛されなくても別に」という小説に、こんな一節がある。

「結婚したり、子供産んだり、大切な人を作ったり……守りたい人が出来てしまったら、その人は自分で死を選ぶ自由を失うんだろうなって思うんだよね」(253頁)

武田綾乃「愛されなくても別に」

生きたくはないけど死にたくもないから、まあいつ死んでもいいようにというスタンスで生きている私は、
「子どもを持つこと=自分で死を選ぶ自由を失うこと」
なのではないかと考える。

子どもに限らず、大切な人を作ることは、良くも悪くも私を束縛する。
幸せなことだが、相手にとって私が大切な人になってしまったら、私は自由に死ねなくなる。

縛るのは死を選ぶ自由だけじゃない。時間や行動、その他あらゆるもの。人一人の人生を背負うわけだから責任も当然ある。

私は子どもをなにか「縛るもの」としか見れない。

時々苦しくなる。

仕事中に同僚が子どもに手を振って、近くにいた私に「かわいいね」と言ってきた時。
母親が子どもを愛おしそうに見つめているのを目にした時。
父親が公園で子どもと一緒になって全力で遊んでいるのを見かけた時。
バイト先の主婦さんが、世間話がてら子育ての悩みを私に話していて、大変だと言っていたけれど、きっと幸せなんだろうな、と感じた時。

好きな人が、子ども好きなのを知った時。

好きな人と一緒にでかけていた時、職場の共通の知り合いの話になった。私は仕事中にその知り合いが一緒になってお客さんの子どもと遊んでいた、「お父さん」の姿を見たときの話をした。彼もその知り合いと一緒にオンラインでゲームをしていた時、息子さんが出てきて一緒に遊んだという話をしてくれた。
そして彼が言った。将来あんなパパになりたいなぁ、と。
優しい目をしてそう言った。
私は「○○は優しいからなれるよ、」とだけ言った。
この人の隣にいるべきなのは、私じゃないのかもしれないと思った。
表情をうまく作れなくて、カフェラテの入ったマグカップを口元に寄せて表情を隠した。私はどんな顔をして言ったんだろうか。

子どもを持ちたくない私は、苦しくなると同時に、どこか責められているような気持ちになる。誰に、というわけじゃない。みんなが幸せだと思うことを、自分も同じように思えないからだろうか。

理想として掲げられる母としての女性の姿に全く憧れを抱けない私は、それを体現している人を見ると、苦しくなる。

子どもの問題は難しい。
私のこの考えが変わる可能性も、変わらない可能性も同じくらいある。
妊娠や出産にはタイミングやタイムリミットがあって、仮に考えが変わった時に、ほしいからと言ってすぐにできるものではないのはもちろん、年齢的にもうできない頃かもしれない。相手が欲しいかもわからないし、そもそも相手がいないかもしれない。
そればかりは分からない。

色々考えることが多すぎて、人生ままならないなぁと思う。

好きな人とは、仮に付き合えたとしてもそれにいつか必ず終わりが来るんだろうなぁとか考えたりしながら。まあ、そもそも人と付き合うって、子どもの問題それだけじゃないし。今はあまり考えすぎないように、と思っている。彼が子供好きなのを感じるとき、いつも私は苦しくなるんだろうと思ったり。ただ、もし子供好き?とか聞かれることがあったりしたら、そのあたりのことは正直に答えようと思う。でも、離れてしまうのが怖くて、嘘をついてしまうかもしれない。
だから聞かないでほしいと思う。

最後まで読んでくださりありがとうございました。また。

大屋千風














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?