過去を否定することでしか

ここ1年ほど。
ずっと、ものが手放したいとばかり考えている。

家にいると自分の持ち物が多すぎるように感じられ、部屋の隅に突っ立って手放せるものはないか、無駄なものはないかを考えていたら一日が終わる。

もう正直、手放せるものは手放しつくしてしまった。
必要最低限、とまでは言わないが、もう使っていないものを手放す段階を通り越し、結構使っているけどなくてもいいよね、というものや、ある程度気に入っているものまでも、どうしてか持っていることにストレスを感じてしまい、「手放したい」と「持っておきたい」という二つの感情に挟まれてもがいている。

さて。
このごろ、どうして私はものを手放したいのか、その衝動の背景を考えていた。そして、ある程度まとまったように思うので、ここに書いておきたい。

思えば、私はかなりの収集癖があった。
小学生から中学生までは、大好きなくまのプーさんのグッズをかなり集めていたし、本が好きだった私は新たに好きな著者ができれば何十冊も購入し、一度だけ読んでは本棚に並べて満足していた。
一度数えたことがあるのだが、一時私は最高で130冊ほどの本を持っていた。その上図書カードも集めていて、わざわざ現金を図書カードに変えてそのカードで本を買い、0円になった図書カードを集めていた。

高校生になった私は、自分のスマホを持つようになり、インスタグラムを始めた。
いくつもストーリーを投稿しては、そのすべてをハイライトで何かしらごとにまとめ、満足していた。

大学受験で私は日本史を選択していた。
覚えねばならない情報を一か所にまとめたかった私は、すべての情報を山川の教科書一冊に落とし込む形式をとった。
教科書に載っていない用語や本文では説明しきれていない歴史的背景などをすべて行と行の間の余白に書き込み、写真部分には付箋を貼ってそこにあらゆる情報を書き込んだ。過去問で出た語句などにはピンク色で星マークをつけ、ほぼすべてのページの余白が文字で埋まっていた。
覚えるよりも、余白を埋めることばかりに、注力していたように思う。
教科書を開いては、その情報量の多さに満足していたのだ。(だから受験落ちた。今では納得)

.…今思えば、であるが。

あらゆる持ち物をプーさんにすることで自分がどれだけ好きかを見せつけ、
あらゆる本を集めることで自分の読んでいる本の多さを物理的に示し、
「残高ゼロですので回収いたしますか?」という店員さんの申し出を断って手元に残していた0円の図書カードは、入っていた金額だけそのまま、本に使ったお金の多さを表し、
テーマごとにコレクションされたストーリーの投稿は、他者に自分の楽しい、好きなものの様子を見せつけたいという自己顕示欲の強さを物語り、
余白が見当たらないほどにびっしりと書き込まれた文字は、自分の勉強量を視覚的にわかりやすくするための手段となり、
志望校の過去問で出たことを示すピンクのペンで書いた星のマークは、そこをめざして勉強している自分が確かに存在することを、他者に、ともすれば自分自身に、見せつけたかったからではなかったか。

これらどれもが、ものや情報を集めることそのものが目的なのではなく、それらをもつことで自分が他者からどう見られるか、その像を操ることが目的だったのである。

そして私は手放すものを決めて袋に詰めながら、思うのである。
私は今、過去の自分の選択を否定しているのだ、と。

過去の自分が「もつ」という選択をしたから、今手元にそのものがあるのである。
それを「もたない」と決めることはつまり、過去の自分の選択を否定するということなのではないだろうか。

もちろん、好みや必要なものは変化していく。それに合わせて昔は好きだったものがそうではなくなっていて、手放すことになるものもあるだろう。それは否定ではなく、変化を受け入れる、ということを意味すると思う。

手放すもの、残すものを選んでいく過程の中で、特に手放すこと、に関して私が心地よさを感じるのは。

きっと、反吐が出るほど大嫌いな過去の自分の選択を、手放すという行為によって否定することで、「自分の過去が嫌いだ」という今の気持ちを肯定しているからなのだ。

確かに、過去があったから今があるのは言うまでもないことだ。そんなの言われなくても分かっている。
だけど、私は、過去の自分を好きになれと言われても、なれない。
多分一生なれない。やり直せるのならやり直したい。

でも過去は今の自分から離れてくれない。
なにかにつけて思い出されて、そのたびに拭えないほどしつこくべっとりした不快感を残していく。

だから、多分、私の場合は、捨てるという行為を通して、どうしても切り離せない過去を、せめて物理的にだけでも、消し去ろうとしているのだろう。
今の自分と昔の自分に、物理的な違いを自ら見出そうとしているのだ。
せめて、物理的にだけでも、と。

私にとって、ものを手放すというのは、過去の選択・ひいては過去の自分を否定することであり、そして今の自分を肯定できるようになるためのプロセスなのだ。
あの過去とは違う、今の自分の変化を受け入れることでもある。

結果的にミニマリストになりつつあるわけだが、私のゴールないし目的は、ものを減らすことそれ自体ではない。

…ものを減らすことで、自分の変化を「自分の持ちもの」という物理的な量の変化を使って他者に示そうとしている部分もあるのではないか、とも思う。
結局、本質は変わらないのかもしれない。
まあ、そうだとしても。

ありのままの自分を受け入れよう、とか世界は言うけれど。

私は、否定することでしか、前を向けなかったのだ。

そういう自分を肯定できればいいと思う。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

大屋千風




















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