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[本]「本心」を読んで

Instagramで読書記録を書いているのだが、やはりInstagramは写真や動画といった視覚的部分がメインのSNSなんだな、とnoteとの単純な性格の違いを感じている。

さて今回は、平野啓一郎さんの「本心」。

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多分私には少し難しかったように思う。
この本にある深みに、ほんの少ししか沈めてないように感じる。
時が経ってからもう一回読みたいと思った一冊。

実像と虚像、本物と偽物、現実と仮想、生と死。それらに決して埋まらない差が存在する一方で、それらは表裏一体で、ともすればどちらにもなりうる、ということをあれこれ考えた。

生きるとはどういう状態なのか?
「自由死」を選んだ母の「本心」を知るべく、生前の母を学習させたAIの〈母〉とともに過ごす主人公。だが次第に、生きている者たちによる情報のアップデートでしか変化し得ない〈母〉は、「もし母が今も生きていたなら、という仮定をなぞろうとしている」にすぎないことに気づく。
母の心は“感じられる”としても、そこに「生きている」母は存在しないのであり、時の流れの中で生き、変化し続ける主人公との差は広がるばかりである。
ここに「生きる」とはどういう状況なのか?の答えがあるように思う。

「最愛の人の他者性」について。
主人公は物語の中で母の知らない一面を知ることになる。家族、恋人、会社の人など、誰もが誰かに対して「他者性」を持っており、それがある人にとっては意外なもので、時に受け入れ難いこともある。
だがそれでも、それに向き合おうとする主人公の姿を「人間としての誠実さ」(p.441)と表現していて、人に対して「誠実」である事の意味を考えさせられたように思う。

「充足」の意味。充ち足りる、というのはどういう状態なのか。「死の一瞬前」、「もう十分」、、愛、、、??考えるのに脳みそが足りない感じがする。何かもっと考えたことがあったはずだけど、もう限界なので一旦ここまでにしたい。
これらは次読んだ時の宿題にしよう。

平野さんの小説は初めてだったが、豊かで濃い言葉たちがぎゅっと詰まっている感じがした。何かをきっかけに奥底にしまわれていた記憶が出てくるあの感じを、「買ったばかりの折り紙を開封して、その中から、好きな色を一枚だけ抜き取ろうとしては、一緒に他の色まで引き出してしまうように」(p.38)という言葉で表現されていて、思わず「うおぉぉ、、」と声に出して言ってしまった。感嘆のため息ってこういうことか、と合点した。
また、「好き」を「打算のない思い」(p.292)と書いていて、なるほど確かに、と感じた一方で、果たして「ない」と完全に言い切れるだろうか、と考えた自分はもう純粋さを失っているのかもしれない、、とか考えた。

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「誰もが、何がしかの欠落を、それと『実質的に同じ』もので埋め合わせながら生きている。その時にどうして、それはニセモノなんだ、などと傲慢にも言うべきだろうか」(p.281)

「愛されることを期待している人間にだけ認められる、あの繊細で直向な焦燥感」(p.340)

「結局、人は、ただ側にいるというそれだけの理由で誰か好きになるのであって、逆に言えば、側にいる人しか好きになれないのだった」(p.341)

語彙力、表現力、まだまだ世界には自分の及ばぬ深みも広がりも無限にあるんだと感じさせてくれる一冊だった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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