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#003 F1のファクトリーを訪ねて(1)イギリスの巻

 F1雑誌を作りたくて会社をやめ、有限会社Rev Works Japanを作ってF1速報誌『GPS(グランプリ・スポーツ)』を創刊したのが1989年7月だった。それから半年後の1990年1月、モータースポーツの聖地と言われるイギリスのF1ファクトリーを訪ねてイギリスを回った。

 当時、破竹の勢いだったマクラーレンのオーナー、ロン・デニス、車椅子の闘将と言われていたウィリアムズのオーナー、フランク・ウィリアムズ、中島悟獲得が決まっていたティレルのオーナー、ケン・ティレルの3人が企画のメイン。あとは、ベネトンのチーフデザイナーだったロリー・バーンと、この年F3000からやっとF1にたどり着いたオニックスのチーム監督マーティン・ディクソンが含まれていた。

 当時のF1は中嶋悟の参戦とアイルトン・セナの登場で日本でも人気が沸騰中であり、簡単に会ってもらえるとは思えなかったが、5人とも貴重な時間を割いてインタビューに答え、ファクトリーの中を撮影させてくれた。(ただし、マクラーレンだけ別でインタビューのみ。工場内の写真撮影は許してもらえなかった。)


 みんないい人ばかりだったが、その中でも、フランク・ウィリアムズさんとケン・ティレルさんにはとても親切にしていただき、その後、サーキットの現場でも、いろいろと教えていただくことになった。

 特にティレルさんには、親しみを感じた。ヒースロー空港から車で30分あまりのウォーキンにある工場を訪ねると、ティレルさんは入院中ということで不在。ところが、こちらの来所に合わせて今帰宅中という。待つこと30分ほどで、柔和な笑顔をたたえた大柄な男が姿を現し、握手を求めてきた。


 たぶんに、その年から中嶋悟の移籍が決まっており(まだ発表の前だった)、日本人プレスには丁寧な対応をしておきたいという思惑もあっただろうが、気がつくとインタビュー時間は2時間近くになっており、「入院中ということですから」と、時計を見てインタビューを切り上げた。

 いろいろとしていただいた話の中で忘れられないのは、「今シーズン、優勝するのは、どのドライバーと思いますか?」という問いに答えたティレルさんの言葉とそのときの目だ。

「そういう質問には答えられない。でも、こういうように君が聞くなら、答えることができるがね」

「どういうふうに、ですか?」

「マクラーレン・ホンダに乗ったらだよ。マクラーレン・ホンダに乗ったら勝てるドライバーをあげてくれというなら、あげてみよう」

 そう言って、彼は「プロスト、セナ、マンセル、パトレーゼ、・・・」と、指を折りながら、確か8人まであげていった。

「それでは、ティレルチームの今シーズンの目標は何ですか?」

「6位以内には何回かは入りたいということかな」

 そう言われても、それがトップチームがV10エンジンで戦う中で、V8気筒のコスワースで戦うチームの現実であるということを、まだ知らなかった。

 テニスの取材が長かったから、スポーツというものは絶対的にフェアな勝負の世界であって、実力のあるもの、努力して腕を磨いた者に勝利の女神がほほえむものという確信というか信仰があった。それは、モータースポーツの世界であっても、“スポーツ”と名が冠されているかぎり変わらないものだと。

「では、質問を変えていいですか。優れたドライバーには、何が必要なのでしょう? 例えばテニスプレーヤーには、ボクサーのような反射神経とマラソンランナーのような持久力と宇宙飛行士のような神経システムが必要だ、と言われています」

「マクラーレンがこいつを乗せてみたいと思わせる才能、ということかな」意外な答えだった。「つまり、マクラーレンに乗れる能力だよ。それが優れたドライバーに求められている才能なんだ」


 一介の木材商から身を起こし、フォーミュラジュニア、F3、F2を経てF1にたどり着き、ジャッキー・スチュワートを得て、ワールドチャンピオンにもなったティレルだったが、彼のチームは、ある時期の2シーズンを除くと、常に市販エンジンであるV8のフォード・コスワースのエンジンで戦い続けてきていた。コスワースは彼に言わせれば「基本的には20数年前のエンジン」だった。マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズといった巨額の資金を動かすV10のトップチームを前にすると、象に立ち向かうアリのような存在だったのだ。

「満足というのは、ロン(デニス)でなくては味わえないがね」

 そう言いながら、ロン・デニスやフランク・ウィリアムズがジェット機やヘリコプターで乗り付けるサーキットに、自らマシンを積んだトランスポーターを運転してやってくる姿を見るたびに、応援したくなった。

 しかし、そんなチームも、それから数年して、F1シーンから消えていった。

「時代にはさからえない」と、個人資本での戦いを諦めて、外部資本を投入し、ファクトリーも拡大し、待望のV10エンジンを得て、しばらく経ってのことだった。

「あふれるような情熱、信頼できるパートナー、そして、ごくわずかな資本でもって、あのジャグワーだってスタートしたんだよ」そう言っていたのに・・・。

 
 ところで、最初の出会いから数ヶ月経ったサーキットで、モーターホームを訪ねたとき、ティレルさんは、「この前の答えだがね・・・」と言いながら、こんな話をしてくれた。

「才能というのは4つある。アグレッシブに戦う勇気、マシンへのあくなき知識欲、エンジニアにマシンのことを的確に伝えることのできるコミュニケーション能力。そして、もちろんだが、持って生まれた才能というやつだ」

 
 1924年に生まれ、戦後、兄と共に材木商をする傍ら1951年にレーシングドライバーとしてデビュー、その後レーシングドライバーとしての将来に見切りをつけて1959年にTyrell Racingを設立し、1968年にF1に辿り着き、その温厚な笑顔から”アンクル・ケン(ケンおじさん)”と親しまれたティレルさんだったが、2001年に77歳の若さで亡くなっている。