人は表だけで判断してはならない。裏をしっかりと炙り出し、距離や接点の度合いを見定めよ。
筆者も含めて、世の中には色んな人がいる。仏頂面なのにお人好しだったり、いつも和かなのに激情家だったり、大盤振る舞いなのにドケチだったり、お人が好いように見えても底意地悪かったりと、表と裏で真逆な人もいる。
筆者はどちらかと言えば、慎重な部類に属している人間であるが、結構、妙に癖の強い人が近寄ってくる傾向がある。その理由は、未だ解明していないが、それほど、人は十人十色、考え方も癖も千差万別なのだろうと。
法律にも数学にも科学にも別解があるように、普段暮らしている中で、これが唯一正解であると断言できないことが多々ある。結果論として評価するのは簡単だが、その経緯の中で、微妙に判断し辛い局面に立たされた時に、如何に冷静沈着に事象を分析し、最短にて正解を引き出すかは、かなりの修練が必要となる。
平々凡々と波風なく生きるということは、教科書通りにならないのは当然のことであり、想定外の事が起こり得るのが世の中というものだ。そこに、考え方も癖も千差万別の人間がランダムに絡んでくるのだから、「さあ大変!」となる訳だ。
自分が生活する範疇でも、大なり小なりの「諍い」が生じるのは、周知の事実。よって、人と接触しないが一番の方法かも知れないが、世の中で一方的に孤立する訳にも行かず、どうしても、公園デビューとか転校生挨拶とか、公然の場に自分自身を引っ張り出さぜるを得ないこともしばしば。
そこで、運悪く、遭遇した相手が、妙な輩であれば、一目散に逃げるが勝ちとなる。しかし、そこは問屋はなかなか卸してはくれない。逃げる道を探し出し走り出すと、後ろから魔の手が伸びてくることもある。だからと言って、そこで躊躇し、軸がぶれると、何年経っても、その輩の影響下、支配下に置かれてしまう。
こんな話を、学生時代に「道徳」や「反省会」などで、しっかりと話をしてくれた教師が何人いるだろうか!?ただ、教科書に記述されているものを朗読して終わりだったような気がしてならない。「絵に描いた餅」ばかりが先走り、目の前の不慮の事件や事故の実例を挙げて、しっかりと認識させないから、いつの時代になっても、「諍い」は絶えず、終息することはない。
平穏なる世界にとって「正義、正論」は不可欠であり、特に、「弱者救済」は「いの一番」の最重要課題である。勿論、日頃から磨き上げてきた感性が高ければ、人の表と裏は簡単に見破ることができる。しかし、できない人の方が圧倒的に多いのが現実であると推察する次第。
人の表と裏は、相手の「瞬間的な所作」、「瞬間的な目の動き」、「瞬間的な言葉」で、すんなりとどの程度の人間なのか、どこに悪癖がへばりついているのかが透けて見える。一瞬間の自分の挙動を制御できる人間は、なかなかいない。よって、その瞬間を見抜くセンサーさえ持っていれば、その人物との距離感や接点の度合いが定まることになる。
どんなにプロの詐欺師のような雄弁家の偽善者であっても、一瞬間の挙動には必ず「隙」がある。随分前に聞いた内容とは、少しずつズレが生じていることに気づかねばならない。頭の使い方が下手な偽善者は、即日見破られるが、プロの詐欺師を見破るには、過去から現在に至るまでの、「整合性」をしっかりと検証しない限り、気づけば「騙された!」になってしまう。
別に、他人様の人格を炙り出すことに日々傾注する必要はないけれども、自分の身は自分で守らなければ、世の中、そう簡単に周囲が守ってくれることはない。「触らぬ神に祟りなし」と考える人が多く、法も同様に、被害者を最優先して保護下に置くこともなく、その間、被害者の命が絶たれるという悲惨な事件も多発している。
人との距離感及び接点の度合いの対応として、常に研ぎ澄まされたアンテナを立て、「自己防御」をしっかりとしておけば、先々、「あいた、しまった!」と泣き悔しがる必要はないはずだ。