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三月二十五日 開く

平日昼間のこのまちの顔を知りたくなって、ひとり、散歩にでかることにした。

ミートボールと厚焼きたまごでお弁当をつくって。
4月からの仕事に備えて準備した新品のパンプスをおろして。
(新品を少しだけ使いこなしておくっていう、この準備の感覚がとても好きだ)

遊具を備えた公園のベンチは子どもを連れたママさんでもういっぱいで
片隅に天然酵母のパンを売る小さなトラックがとまっている。

立ち寄ってみたら
(カレーパンはもう終わっちゃっいました、すみません!)
と、ピンク色のほっぺたをした店員さんがいった。
(カレーパン、人気なんですね)
(あ、はい。うちの名物メニューで)
野菜がたっぷりで甘いのだけれど独特のスパイスがくせになる味わいなのだという。
(主人が昔バックパッカーだったので、そういうのにこだわりがあるんです)
店員さんは、フェルトでできたまるい帽子をかぶっている。

(こんなパン屋さんがあったんだー!これは彼にも報告しなちゃ)
とお店のカードをもらったら、曜日ごとに違う出店場所が書かれていた。
(佐々木さん)という、この店員さんの携帯番号と一緒に。

(移動パン屋さん、いろいろな場所でされているんですね)
(そうなんです。ああ、でもそれも、あと少しなのですけれど...)
聞くと、4月になったらまたしばらく、旦那さんとふたりで旅にでかけるのだそうだ。
(いつ帰ってくるかとか、その先どうするかは、全然決めていなくて)

思いがけずそんな話をきいて、俄然佐々木さん夫妻が気になってしまった。

(そういう話、聞いてみたいです。カレーパンも食べてみたい)
尋ねてみたら、4月の最初の桜祭りの日に、旦那さんと一緒に出店すると知らせてくれた。
(休みなら行けます、行きます)と私は応えた。

そんな理由で、桜の季節になると私は佐々木さんのカレーの味を思い出す(佐々木さんのお店はシャンティというのだけれど、私たちの中では"佐々木さんのお店"のまま定着している)。甘くて、スパイシーで、ほかのどこにも#ないような、不思議ななつかしさのあるあのあじわいの。

あれは、今のようにSNSがそんなに流行ってなかったころのこと。あれからもう3年くらいがたつけれど、帰ってきたら連絡します、といった佐々木さんからの便りはまだない。

その間、このまちにも5軒くらい新しいカフェができて、そのうち2店は途中でオーナーがかわり、ドーナツやだとか惣菜屋になった。ミニクロワッサンが人気のパン屋さんもオープンした。新しくできた小学校の校庭の桜が、いまではこのまちの名物になっている。

(そういえば、佐々木さんご夫妻、どうしているだろうね)。
桜の咲く頃。それが私たち夫婦の季節を刻む言葉になった。

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