花守夜市
こんな夢を見た
「裏山の参道に、夜市が立つよ」
鈴が鳴るような声に、僕は振り返った。さらさらと何かが遠ざかる音と共に、熟した果実のような甘い香りが身体を通り抜けていく。顔をあげると、少女の赤い衣と長く垂らした黒髪が、すぐ前のあぜ道を曲がっていくのが見えた。
「夜市」という言葉の意味するところを、僕はすでに知っている。母がくれた、夜市へゆくための金も、僕の手の中に握られていた。今の少女も、夜市にいるのだろうか。
夜市は毎年やってくる。
でも、僕はもう二十一になるというのに、一度も行ったことがない。あの少女に会えるのなら……僕は唾を飲み込んで、手の中の金があやうく無残な姿になるくらい強く握りしめた。
どのくらい突っ立っていただろう、ふと気づくと、あたりは全くの夕暮れである。太陽と大地が交わるところで赤く燃える地平が、夜の訪れを兆していた。
僕は、早足で裏山に向かった。
まばらに光る灯篭が夜市への道標だ、と、先日村を出た兄が言っていた。その通りに僕は、黄昏の田舎道を急ぐ。
しかし、同じように夜市に向かうだろう男たちが大勢ひしめいているので、たとえ標がなかったとしても問題はなかったろう。僕は、間もなく参道の入口にたどり着いた。
参道は、これまで見たことがないほど賑わっていた。奥にある巨大な社が見えないほど、人、人、人の波が上に下に横にうごめいている。やっとのこと列に並んで待っていると、白塗りの男がこちらを見て、ニヤリと笑って言った。
「初めてですか?」
僕は素直にうなずいた。
「それはいい!じゃあ、まず左側の道を進んで、お土産を買ってください。可愛い人形が喜ばれますよ」
ご親切にどうも、と僕は答えて間もなく、左側の道へと足を踏み入れた。先程の人波は右に流れて行ったらしい。左の道に出てようやく僕は、夜市の姿を見ることができた。
赤、青、黄、紫、緑……極彩色と蛍光色が交互に頭に流れ込んでくる。
それらの無数の色が、テントのようなものに貼り付いた幕であり、ビカビカと光るネオン看板であり、その前で微笑む女たちの奇妙な衣の色である、と理解するまでに僕は、その場で三周も回ってしまった。
テントは、縁日の屋台のように整然と隙間なく並んでいる。
派手な幕もネオンも、奇妙なほどに自身の区画の中に納まっていて、それらが放つ光さえもはっきりと分裂しているように見えた。僕は眩暈を覚えて、さらに二周、その場で回った。
そんなことをしていたせいか、
『ハイパーキュート♡セル人形』
と書かれたネオン看板の前に立っている女が、じっとこちらを見つめていた。そういえば、人形を買っていけば喜ばれると聞いたのだった。
何となく顔をあげると、女は心を読んだようにくちびるの端を上げた。
その瞬間、テントの入口の金幕がハラハラと落ちて、小さな人形がギッシリ詰まった棚が現れた。
「お兄さま、どれがいいですか」
女が聞く。
色鮮やかな人形を前についうっとり、どれも可愛いですね、などと言いそうになってからようやく気づいた。
人形は、端から端まで、全て裸の女を模していた。
「いいでしょう、こちらは伊藤晴雨の絵をモチーフにしておりますの」
女が手に取って説明するが、僕は絶句するしかない。麻縄を肌に食い込ませる女の顔は、人形とは思えないほど生々しく紅い。
「これ、上から吊るせますのよ」
女がホホホと笑う。妊婦がお好きならこの月岡芳年のものが……、と尚も続ける女を僕はつい手で制して、いちばん布の面積が多い少女の人形を指さした。
「あらいいご趣味。実用品ですからちょっとお値段します、六千円ね」
女が微笑んで差し出した手に、僕はやっとのことで千円札を六枚乗せると、逃げるように外へ出た。外は先程よりも賑わっている。
行きかう男たちを相手に、売り子の女が袖を引いて見世へ誘う。「骨董」と書かれた看板の下で男が眺めているのは、陶製の裸婦像だった。
「戦後、進駐軍向けに作られたものですの。日本女性がモデルですけど、色はヨーロッパ風で淡いでしょう?」
女が細い指で裸婦像をなでる。それが妙に官能的で、僕は生唾を飲んだ。
「ねえ」
突っ立っている僕の袖を引いたのは、ドールのような顔立ちの少女だった。年のころは、十三、四ほどだろうか。
「お兄さま、どれに賭けますか?」
少女が小首をかしげると、あごの下で切り揃えられた黒髪が束になって揺れる。思わずふらりと近づくと、首筋から水蜜桃のような香りが立ち上った。
うっとりしながら彼女が指す見世の看板を見れば、
『【一攫千金】アヒルハーレム』
とある。
「一羽の雄アヒルを、六羽の雌アヒルの中に入れます。雄アヒルが、どの雌アヒルのところに行くか賭けていただいて、見事当たれば賭金が十倍に!」
「十倍」のところで腕を大きく振り上げ、少女は満面の笑みを浮かべた。くらくらするような桃の香り、さながら桃源郷のようにかすんだ世界で、一握ほどの理性が僕をなんとか退かせた。
「花電車はいかが?」
後ずさりする僕の袖を強引に引いたのは、少しばかり年かさの女だった。中華風の煌びやかな化粧の下に、紫の痣が透けている。
「女の秘所に筆を刺して、文字を書かせますのよ。お兄さまも好きな言葉をおっしゃってね」
見世の中をのぞくと、テントの奥の薄暗いところで、日本髪に結った女が簪で頭を掻いている。
思わず見入っていると、不意に女がこちらを見た。
恨めしそうな青い光を湛えた双眼がじっとりとこちらに向けられている。僕は慄然として、急いで踵を返した。
「お兄さま、こちらでお茶をしませんこと? 良いキノコが入ったの」
「お兄さま、一本ムチの試し打ちはやっていかなきゃ。練習台も選べるわ」
「お兄さま、もう私と座敷に行きましょう」
「お兄さま、東欧のタバコです。奥に行くならこれを吸ってからよ」
不意に、ある女が足を出す。
気付けば僕は、地面に倒れ伏していた。土の匂いが口中に広がって、びりびりと体に痛みが走る。
僕に足を引っかけた女は、もう次の客を見つけたようで、甲高い笑い声に交じって金属音が鳴る。
僕はこの上もなく惨めな気持ちになって、地面に口づけた。その時だった。
「お兄さま」
鈴のなるような声と共に、爛熟した果実のように甘い香りが僕を包んだ。あの子だ。僕は大急ぎで顔を上げ、擦りむいた手足の痛みを堪えて立ち上がった。
そうしてゆっくりと目を開けると、あの赤い衣の少女がこちらを見上げて笑っていた。
少女の長い髪は墨を吸ったように黒く、重たげに揺れる大きな瞳がネオンを映して煌めいている。赤い衣につつまれた肌は指先まで淡いバラ色に染まり、さもおかしそうに歪む口元さえ、少女の美貌を際立てていた。
僕は歓喜というより驚嘆して、ただ少女を見つめていた。
「お兄さま」
少女がまた囁く。しかし僕の喉は返答を許さない。僕はもはや許しを乞うような心地で少女を見つめた。
「お兄さま、こんなものお持ちなのね」
少女は、僕の懐から例の人形を取り上げた。生々しく血の気を孕んだ人形を、少女は指先でもてあそぶ。
それは君のために買ったものなんだよ、と僕が口の動きだけで告げるのを冷ややかな目で見たかと思うと、少女は憑かれたようにキャッキャと笑い始めた。
何が起こったのかと狼狽える僕に、少女は人形を横に寝かせ、衣を剥ぎ、裸になったそれを放るようにしてよこしてきた。
そしておもむろに、人形の衣をクルクルと丸めて、テントの前に下がった提灯の中に突っ込んだ。
呆気にとられる僕を前に、ジュ、という軽快な音がして、布切れに火が付いた。
「お兄さま、この人形の足を開いて」
僕は急いで人形の足を開く。
人形の小さな足の間には、その体に見合わないほど大きな穴が開いていた。穴の中は、どこまでも続いているかのように暗い。
闇を前に佇む僕をちらと見て、少女は、燃えつづける布切れをその穴の中に突っ込んだ。
僕は思わず、人形を取り落とした。
人形の肌の下でちらちらと赤い炎が燃え広がり、土の上で強い光を放っている。
少女はまたキャッキャと笑い出し、僕が落とした人形をむんずと掴んで走り出した。
待ってくれよ、そう叫ぶも少女には届かない。長い髪を揺らして、くるぶしまである衣を裂きながら、少女は夜市を走る。
甘い匂い、鈴のような笑い声、駆ける僕の影が金に、銀に、ネオンに、光そのものになっていくその懐かしさをかき抱くように、僕は全身で走った。
このままどこまでも走ってゆけたらと思うほどの高い熱にかきたてられて、大地をすべる白い足を追っていく。
不意に、どこかで爆発音がした。
それが、火を放たれた人形の死、そのものだということに、僕はまた熱を上げる。
炎が華やかに宵の空を裂き、降り注ぐ火の粉に人々が逃げまどっても、少女は走ることを止めない。
やがて光の中に溶けていく僕たちの影が、濃く瑞瑞しいうちに、僕は少女の手を取るのだろう。
その予感だけが、僕たちのすべてだった。
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