見出し画像

「なぜ、生きるのか?」を部屋にみる

先日、インスタでのライブ配信で話していて思い出したのだが、私は一時期、人の部屋を見るのに夢中になっていたことがある。雑誌などで「読者のお部屋訪問」的なインテリア特集を読み漁っていたのだ。そういった特集を目にすると片っ端から雑誌を買って読んだ。あまりにも夢中になりすぎて、半年もしたら「あれ?この人、マガジンハウスの雑誌で取材されてたけど、模様替えして講談社の雑誌に取材されてる」的なことすらわかるようになったほどだった。
 まぁね、ヘアスタイルの企画でサロンモデルがいろんな雑誌に出てくるのと同じようなもので、センスがあってスタイルのある部屋作りができる人もそうそうは多くない。そういう条件を満たせる人があっちこっちの雑誌に引っ張りだこになるのは納得だ。

閑話休題。話を戻そう。
そのくらい人の部屋に夢中になってわーわー騒いでいたら「じゃ、読者の部屋取材してきてよ」と言われるようになり、お部屋取材をしていた時期もある。
フリーランスの仕事というのはおもしろくて、インテリア系のページにクレジットされると「うちでインテリアショップの特集があるのでやりませんか?」という声をかけていただけるようにもなる。

当時、しがないライターだった身としては、とてもありがたい話だったけど、
そういった仕事はお断りさせていただいていた。(諸先輩方には「なまいきな」とお叱りを受けた・笑)
私の興味はインテリアではなく「暮らし」にあったからだ。

動線と価値観



 私が人の部屋探検にワクワクしたのは、部屋作りのもととなっている動線の作り方だった。テーブルの位置、収納の方法、食器の数、あるいは趣味のものの飾り方などは、すべてその人がその部屋でどう暮らすか?どんな時間を過ごしているのか?と関係している。時間とお金の使い方は、その人の価値観が最も顕になるものだ。部屋というのはその究極的な集大成。がらんと物のない部屋であっても、部屋には寝に帰るだけとか実用的であることが最優先とか、その人の価値観が表れている。それを知るのが好きだった。そういう意味で有名人の豪邸も楽しかったが、それと同じくらい市井の人の部屋の取材が好きだった。

例えば、服飾系の専門学校の生の部屋。学費以外はバイトで働いて賄う女の子。その子が住む部屋のカーテンは、今はなき渋谷の布屋さんのメーター300円の生成の柔らかな生地を、上下をミシンでダダダァーと直線縫いしただけのものだった。それをアンピンでレールに吊していて、おもしろいアイディアだなぁと思ったのを覚えている。彼女の部屋の冷蔵庫の上には憧れのデザイナーの写真集が積み重ねられていた。冷蔵庫の前にユニットバスのドアがあり、お風呂に入る時に冷蔵庫の上から写真集を持って入ると言っていた。そして、ベットの足元にはピンクのロディが鎮座していた。そういう夢と現実と効率とかわいらしさと工夫が混ざり合った空間。そういうのをみるのが好きだ。

取材は遠い昔のことだけど、そういう暮らしを見るのはいまでも好きである。そのせいかいまだに手放せない本がある。

今でも手放せない一冊

私は10年近く前に本を断捨離した。小さい頃から本が好きで一人暮らしを始めてからも読書は自分を支えてくれる大切なものだった。断捨離直前の何年かは、活字中毒が悪化して、純文学、科学、エンタメ、推理小説、宗教学、セブカルチャー、哲学などなど、気になる本はかたっぱしから読んでいた。本棚4つに本をパンパンに詰め込みすぎて、ある日、本棚が真ん中から2つに折れたのをきっかけに(なんせ安い合板)そのほとんどを手放したのだけど、数冊だけ手元に残した本がある。その1冊が「TOKYO STYLE」である

都築響一さんが写真・取材、文章を書いてまとめた写真集。
今手元の本の奥付けを見たら初版は1993年。定価1万2000円
(さっきメルカリで2万円で売られているのを発見した!)
私が持っているのは3刷で1994年の12月。
当時の私にとって1万2000円の写真集を買うというのはちょっと冒険だったのだろうな。買うまでに一年半かかっとる(笑)
うーむ、飲み代なら払うのに写真集で悩むって
私の価値観ってなんだろうなー(笑)

ちなみにその後、この本はちくま文庫で文庫化されていている。文庫本なら場所をとらないなと思って、そちらも買ったのだけれど、結局は文庫の方は手放してしまった。

写真集には汚部屋のような物に溢れた部屋から、フェミニンな部屋、またはコレクションの部屋などなど、さまざまな部屋の写真があるのだけど、共通しているのは部屋の持ち主はいっさい写っていないということだ。脱ぎっぱなしの服や干しっぱなしの服はあっても、それを着る人は写っていない。けれども、そこに人がいるのだ。暮らしがあり、その暮らしを維持する住人の価値観がまごうことなくと息づいている。見えなくてもそこにある。感じ取ることができる

30年たって時代が変化しても息づく「人が生きる」という生々しさが、
時にはどうしようもなく、時には美しくそこにある。

人はなぜ生きるのか?
そんな哲学的な答えは一生かかっても言葉にするのは難しいかもしれない。

でも暮らすという営みの中にそのサインはしっかりと現れているように思うのだ
日常に向ける視線を忘れてはいけないなと思う



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?