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言霊秘書その7カタカナは神代の御文と古事記成立の経緯

水穂伝附言6
皇国(ミクニ)は、原(モト)より文字ちふものなく、言霊(タマはヨに火と書く。これ以降も同じ)の佐国(タスクルクニ)にして、五連(イツラ)十行の形仮名(カタカナ)は神代の御文(ミフミ)なり。

日本には元々文字はなく、神代よりカタカナを使っていた。しかも五十連十行とあるので、現在の48文字ではなく、元は五十文字あったということなのだろうか。

続いて、16代応神天皇の時代に百済より多くの書籍を奉って、漢国の学が代々行われたとある。

ここで40代天武天皇の御代に旧辞(フルコト)が滅びることを深く憂いて、稗田阿礼が28歳の時、天皇自ら口述で教えておかれた。さらに43代元明天皇の御代に、稗田阿礼が覚えたその神代の伝えを太安万侶に筆記をさせて古事記として残されたとある。

太安万侶とほぼ同時代を生きた柿本人麻呂の
敷島の大和国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
は、国を大切に思う人々の思いのリレーによって古事記が形として残されたことを寿ぐ歌だったのかもしれない。

しかし、言霊の学は神の御伝にして、一般人の耳に入ることが難しく、文字の学は一般人の目に入ることは容易い。こうして書物となると人が代々移り変わることで、いつしか文字に目が行って、源を捨て時流に染まり、言霊の学は疎かになったと書いている。

江戸期の国学者荷田春満は稲荷古伝があることを知ったが、その学を継ぐ者も無く、文字の読み解きに頼ってしまったため(文字しか無いわけだから致し方なかったのだが)、他国の文字が我が国の文字のようになり、我が国の詞が他国の詞のようになり、(あわれかけまくもあやにかしこき)神代の御伝えが隠れてしまった。

そんな中、山口志道の家の祠に「布斗麻邇御霊」が祀られていた。志道は30年余の学びにより、遂に布斗麻邇の御霊は水火(イキ)の御伝にして、カタカナは神の御名が現れていることを悟った。

後、文化12年9月、荷田訓之が山口志道を尋ね、稲荷古伝を授けた。これによって、志道の悟りは更に強固となっていき、神代の伝えが彼の元で再び返り咲いたのである。

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古事記伝承の経緯が明確に書かれていた!
文字に頼ると見えるものも見えなくなってしまうのだろうか。
布斗麻邇御霊と稲荷古伝が山口志道によって読み解かれて、言霊の真理が明らかになった。ここにも国を思う人々の想いのリレーがあった。

言霊の漢字も現代の言葉とは異なっていたり、わかりやすく書かれているとは言っても、やはり難解な文字や表現も多い。出来るだけ人々への伝播を目的として、現代の言葉に直して書き記そう。
そして、自分の思いを入れたところや不明な点はそうと判るように書き記そう。

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