見出し画像

和歌について

 戦前までは、十代の若者でさえ死出の旅路に立つときは辞世の句を詠んでいます。和歌というものはもっと身近なものであり、精神の根幹にあって、日本人の大和魂に揺さぶりをかける何かを帯びるものなのでしょう。

 「言霊秘書」P246に和歌についての記述があったので、今回は「水火伝 詞縦緯(コトノハタテヌキ)」をまとめてみたいと思います。

 歌を詠むには、先ず歌詠みという詞の本(もと)から知るべきだ。ウタとは、ウタの反(かえし)アにして、アは五十連(イツラ)の総名を表す。
ヨムとは、くむことであるから、歌詠みとは五十連の音(コエ)を心のままにくむことをいうのである。

 古今和歌集の序にも、花間にさえずる鶯、清流に棲む蛙の声を聴くと、生きとし生けるものは、総てのものが歌を詠む。鶯はホホケキョウ、蛙はクツクツと音をくんで鳴く。ましてや人は見るもの、聴くものに対し、音(コエ)をくんでものを言わないことはない。少しくんだのを詞と言い、その詞をまたくんで思いを伸ばすことを歌という。歌は詞である。故に万葉集と名付けたのも、万の言葉を集めるという意味なのである。

 辞(テニヲハ)という語の根幹は、タテの約(つづめ)「テ」、続いてヌキの反し「ニ」、「ハ」は始まり、「ヲ」は終わりのことで、詞の縦緯始終(タテ、ヌキ、シジュウ)という心である。
 例えば、三十一文字を糸をもって連ねるように詞の節々を綴って始めと終わりを結ぶことをテニヲハというのである。

 これは歌だけに限って働くものではない。国家を治め、身を修めることまでもテニヲハがあって、ほんの少しでもこの法則に違う時は、事の始終も正しくないものだ。これは天地自然の道理である。

 天地の陰陽(イキ)も四季の法則があるが、変化に応じ寒暖はいつも同じではない。人の水火(イキ)もまた同様である。故にテニヲハもその言葉言葉に法則があるが、事に臨み、変化に応じて上の詞に従い、下の詞を発出して自在の活用(ハタラキ)がある。後世に至っては、その活用(ハタラキ)があることを知らない。言語詞辞(コトコトノハコトバテニヲハ)にも差別(けじめ)が無くなって、ただ広く数百の古歌を見合わせて、あて推量に言うこととなってしまう。
(中略)
 花も天地の陰陽(イキ)によって開く。歌も人の氣(イキ)によって読まれる。錦も五色からできる。その五色の色の組み方を知るときは模様柄の匠となる。辞(テニヲハ)も水火(イキ)のくみ方を知るときは、歌も自在に読み出すことができる。五十音の音(コエ)をもって天地の理を知る。ましてやただ辞(テニヲハ)であればなおさら天地の理を知るであろう。

 私山口志道は言う。上代の学びで、十をもって百千を知り、五色をもって錦織の糸をくむ。まずこの法則をもって、古昔の歌の節々を解いて見給え。解かざればまた辞(テニヲハ)を習得していないと知るべきだ。今の人は人の歌を解くことを後回しにし、己の歌を詠み出すことを先とする。我は人の歌を解くことを先とし、自分が詠み出すことは後にする。だから、この一巻は人の歌を解く法則なのである。
 私は歌は解き得たが、詠むことは出来ていない。
 古昔の人は、学を基本として心から入って歌を詠む。今の人は学ばないで詞から入って歌を詠む。だから古昔の歌は、言うならば緑成す春の林を見るようで、今どきの歌は、枯れ木に作った花を付けている陽だ。それは皆な学に疎いためである。

 山口志道は、まず歌の定義を示した後、「テニヲハ」の本義について解説しています。それはまるで絹織物のように、三十一文字(みそひともじ)を
詞で綴って始めと終わりを結ぶことだと言っています。
 テニヲハの働きは、国家を治め、身を修めるのにも必要だということは、日本語の重要性を説いているように思えます。

 今朝の寺子屋で、「日月神示」に書かれている言葉を学びました。

神は九十八(コトバ)ぞ 
九十八(コトバ)とはまことぞ 
ま伊吹ぞ 道ぞ 
まこととはまつりあはした伊吹ぞ 
九十八(コトバ)で天地濁るぞ 
九十八(コトバ)で天地澄むぞ
戦なくなるぞ 神国になるぞ
九十八(コトバ)ほど結構な恐いものはないぞ


 「上代の学びで、十をもって百千を知り、五色をもって錦織の糸をくむ。まずこの法則をもって、古昔の歌の節々を解いて見給え。」という投げかけがありましたが、古歌を言霊で解いて見なさいと山口志道に投げかけられているように感じました。いよいよ、百人一首を言霊で読み解かなければなりません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?