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酒徒の履歴書①~⑯まとめ読み

全16回の連載を1つの記事にまとめました。ずらーっと最後まで読めます。

改めて僕はこういう人間です…という自己紹介を兼ねて、自分の食遍歴を書いてみます。本業は食とは無関係のサラリーマンが、なんで中華料理の本を出したりするようになったのかが分かります(笑)


黎明篇(出生~高校生)

憧憬の脆皮乳猪(豚の丸焼き)

僕は、1970年代後半に埼玉中部の小さな街で生まれた。高度成長期に地方から上京した人々の受け皿となった新興ベッドタウンで、街にはこれといった特産物や名物がなかった。僕が「その土地ならではの旨いもの」に強い憧れを持つのは、自分の故郷にそれがないからかもしれない。

父は、それこそ高校卒業後、青森県八戸から上京して埼玉に居を構えた人間だ。種差海岸の目の前で育ち、子供の頃は、海でウニや魚を獲っては市場で売って家族の生活費の足しにしていたそうだ。何でもよく食べ、大の日本酒好き。僕の食の遺伝子は、父由来のものが多いと思っている。

母は、埼玉出身。父に比べると食の幅は狭く、知らないものは食べない。だが、父が望むものを作る「昭和の主婦」であり、生協に加入して毎食手作りするタイプだったので、僕はある程度幅広い食材を使った家庭料理を食べて育った。(そもそも街に飲食店が少なく、外食は滅多にしなかった)

好き嫌いのない子供だったと母は言う。だが、5~6歳の頃はレンコンが苦手だったはず。なぜなら、母が筑前煮の鶏肉の後ろにレンコンを隠して食べさせようとした記憶が強く残っているからだ。当時の記憶はほぼないのに、何故こんなことを覚えているのやら。尚、今はレンコンは大好物である。

食べることが好きだという自覚は、小さい頃からあった。小四の文集の「将来の夢」コーナーでは「中国で豚の丸焼きを食べてみたい」と書いている。当時は中国に特段の興味はなかったはずであり、なぜ唐突にこんなことを書いたのか、全くの謎。酒徒史におけるミッシングリンクである。

小五の時、父の仕事で熊本へ引っ越した。埼玉の友人とは涙、涙で別れたが、いざ引っ越したら数週間で熊本弁を話すようになり、すぐに馴染んだ。

熊本生活は、大きな転機になった。街のスーパーで、馬の肉が部位ごとに売られていることに大きな衝撃を受けた。並んでいる魚の豊富さも、埼玉とは比べ物にならなかった。ねっとりした馬刺し。ピカピカのきびなご。活きた車海老。食べたことがないものを食べる楽しさをはっきりと自覚した。

外食も少し増えた。母が不在の時、父が「焼肉を喰おう」と僕を連れ出したことがある。サシの入った肉も旨かったが、初めて食べるミノやダイチョウに感動した。その焼肉店の間取りは、今でも思い出せるくらいだ。

熊本生活になかなか馴染めなかった母が、熊本弁をあやつり嬉々として馬刺しを喰らう僕を見て、「なんでこうなったのかしらねえ」と嘆いたことを覚えている。僕にとって、熊本は心のふるさとになった。

尚、このころ横山光輝の三国志にハマり、吉川英治版、人形劇三国志などを一通り履修した。中一の頃には、三国志人物事典に載っていた数百人の概要を全部暗記するという、若い脳みその盛大な無駄遣いを果たした。

また、同じころ銀河英雄伝説にもハマり、中二病らしくヤン・ウェンリーのブランデー入り紅茶に憧れた。紅茶を飲むたび父のボトルからこっそりブランデーを拝借したのが、自発的に酒を飲んだ事始めである。嗚呼、黒歴史

そういえば、中二のとき、アメリカ中西部の一般家庭へ一ヵ月ホームステイしたこともあった。

共働きで忙しいせいか、食への興味が薄く見える家庭だった。冷蔵庫にはちぎったレタスを大量に入れたボウルが常に入っていて、毎食そのしなびたレタスにドレッシングをかけて食べるのが「サラダ」だった。異様に大きいデリバリーピザやハンバーガーが1リットルのコーラと共に出されるランチ。初回は「これぞアメリカ!」と感動したが、頻度が高すぎて感動は潰えた。

元気がない僕を気遣ってくれたのか、ホストファーザーが街にひとつしかない日本料理店へ連れて行ってくれた。やたらとよくしゃべるコックが調理器具を空中に投げ上げながら鉄板焼きを作る店で、ホストファーザーから「どうだい、ここの日本料理は?」と聞かれて返答に窮した記憶がある。

大人になってもアメリカという国にあまり興味が持てないのは、このときの不幸な出会いが原因だ。原体験とは怖い。一方、あの一ヵ月は毎日食事を作ってくれる母にうっすらと感謝の念を抱く切っ掛けにもなった。当時は反抗期真っ最中だったが、食事だけは毎日キレイに平らげていたと思う。

中三で埼玉へ戻り、高校(男子校…)へ進学。日常生活から馬刺しや新鮮な魚介が消えた。一度与えられたものがなくなると、最初からなかったのに比べて、失望はより大きくなる。ここ以外のどこかに住みたいという気持ちは、この頃から次第に大きくなった。

当時所属していた吹奏楽部では演奏会の打ち上げで酒盛りをする不埒な文化があった。ビールも日本酒も焼酎もウイスキーも味に抵抗はなく(もちろん背伸びして飲んでいた部分はあったが)、酔い潰れる友人を見て、自分は飲める方の人間だと知った。

打ち上げの酒盛りが学校にバレて、高三の先輩たちが推薦を取り消される不幸な事件もあったが、翌年はヨソにバレないよう飲食店を営む同級生の親御さんが会場を提供してくれた。今思えば、牧歌的な時代であった。

人生初の酔っ払っての寝過ごしも、高一か高二の頃である。寝過ごした先は、家から車で一時間はかかる山の中。暗い街灯の下、駅前の公園で野犬にからまれつつブランコを漕いでいた。比較的近所に住む叔父が迎えに来てくれて、その車のヘッドライトがやけに眩しかったことを今も覚えている。

高校時代には、中国史への興味は三国時代を飛び出し、春秋・戦国、唐、清と広がっていた。酔いどれ詩人・李白や白居易が好きになったのもこの頃である。そして、よせばいいのに東洋史学科への進学を志すようになった。

その流れで、中華圏の映画や音楽にも興味を持つようになった。男たちの挽歌、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ、恋する惑星、覇王別姫あたりがハマる切っ掛けだったのだが、今思うと、名作が立て続けに公開された時期だったんだなあ。とりあえず、男たちの挽歌のチョウ・ユンファを真似て、ゲーセンのバーチャコップで二丁拳銃を撃っていた過去は消し去りたい(笑)。

小学生の頃あこがれた脆皮乳猪(豚の丸焼き)

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