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息苦しい言葉に向き合って

たぶん、東日本大震災以降からなのだけど、私は絆(きずな)という言葉が苦手になってしまった。そんな気持ちと反比例して、絆という言葉を目にする機会は増えている気がする。

実際、私が暮らす愛媛県の南予地域でも「えひめ南予きずな博」というイベントが開催される。そんな取り組みに反対する訳ではないけれど、今一度、絆という言葉についてちゃんと考えたいという気持ちでいる。

そんなことを考え始めたのは、1冊の本がきっかけだった。

著者曰くこの本は、「言葉の壊れ」について考え、それに抗うための本だ。日々の生活やその生活をつくる政治の場でも、「生きる」ことを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えてきたことに警鐘を鳴らしている。

1つ印象的な部分を引用したい。著者である荒井さんと、脳性マヒ者の横田さんとのやりとりが書かれた場面だ。(横田弘さんは、「日本脳性マヒ者協会青い芝の会 神奈川県連合会」(以下「青い芝の会」)という団体に所属した障害者運動家だ。この会の精神的支柱みたいな人で、レジェンド級の運動家だった。)

“我が家と隣近所、今の福祉用語で言えば「地域」(わたし、この言葉キライなんです。空々ししくて)の人たちとの付き合い、母親が職人のおカミさんで世話好きでしたから人の出入りもけっこう多かったことは確かです。“
『否定されるいのちからの問い脳性マヒ者として生きて』

との文章を読んで、ぼくは生前の横田さんに「『地域』って言葉、そんなにダメですか?」と聞いたみたことがある。そこで返ってきたのが次の一言だった。

“「地域」じゃない「隣近所」だ。“

当時、「地域」という言葉を疑ったこともなかったぼくは、この言葉にガッンと頭を叩かれたような思いがした。

「隣近所」という言葉には、生々しい生活実感がある。「地域」には、その生々しさがない。ほどよく生々しくないから行政文書でも使いやすいのだろう。でも、横田さんたちが求めてきたのは「書類に書きやすい地域」なんかじゃなかった。
横田さんの目には、この言葉のハードルがずいぶんと下がってきているように見えたのかも知れない。でも、このハードルを下げてしまうと、「地域」という言葉が、「実際には住み分けているけど、あたかも共生しているかのような印象を与えるマジックワード」になりかねない。
横田さんが言った「空々しい」というのは、そのあたりを見抜いた感覚だったんじゃないかと思う。

著者が「地域」に対して感じる想いを、私は「絆」という言葉に感じている。消費され過ぎて、意味がすり減っているような気がするのだ。私たちは絆で結ばれているから、共に苦難を乗り越えられるよね?、乗り越えよう!という、圧さえ感じる使い方をされている場面に出会うこともある。

さらに、絆という言葉の裏で傷口に塩を塗るような、苦難をさらに深刻にするような取り組みや態度、声を上げようとする人から、まさにその声を奪うような雰囲気が醸成されている場面も見てきた。

私たちは都合のいいことも悪いことも、ぽいぽいと絆という言葉に放り込んでないだろうか。言葉にはそれに対して向き合ってきた人たちの気持ちや態度が含まれていると思う。

絆とは、次のような意味を持つそうだ。

① 馬、犬、(たか)などの動物をつなぎとめる
② 人と人とを離れがたくしているもの。断つことのできない結びつき。ほだし。

コトバンク

人と人とを離れがたくしているものという意味を考えると、私にはもはや絆が「呪い」のように聞こえてしまう。

私たちには、言葉が足りないのかもしれない。絆に代わる他の言葉があるのかもしれない。そんなことも含めて、もう一度、絆という言葉について考えてみたいと思っている。

\読んでくれてありがとうございます!/ 頂いたサポートは地域の中で使い、ご縁をぐるぐる回していきたいと思います。