犬の牙
先日、愛犬に噛まれて出血した。
自分の血液を見ると、私は必ず自分の父母の存在を感じる。私の原点は彼等だからだ。
再婚して子供ができた両親は、事業に失敗した直後であることや、金銭的にも負担が大きいことを考え、一旦は私を育てることを諦めたようだ。それでも私を産んだのは、新たな生命に対する慈しみの気持ちを忘れなかったからに他ならない。
しかし、
私は長らく望まれない出生の子だと考えていた。ある日、私はふとしたことで頭を大いに切り、流れる血をタオルで巻いたまま、母の背に揺られながら病院へ連れて行かれた。頭部には麻酔は良くないと考えられていた時代なので、看護婦に両腕を抑え込まれ叫びながら、医師に針で縫われたのをはっきりと覚えている。
わずかな血を流して、その時のことを思うのも無理があるが、血は命の雫だと言われた。これが腕いっぱいなくなると命がなくなると言われた。私は子供心にそれが恐ろしく感じられ、その腕いっぱいの血はもともとは父であり、母である。そんな液状の存在であると子供ながらに思っていた。妙な湿気と暑さの中で痛みのある処置後の病室で、私は長らくぼっとしていた。5歳の時だった。
これは私の血であって、私の家ではない。父の血は父の血であって、父の血ではない。母の血は母の血であって、母の血ではない。これが家系と言うものだろうか。血筋と言うものだろうか。そんなことを考えながら、私は破傷風が発生する確率はほとんどないことを分かりつつも、翌日病院に行ったのであった。
血。それは私を生かす液体だ。
やがては蒸発する液体だ。
だからこそ、守らねばならない。受け継いでいかなければならない血のバトンなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?