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幻想の中で

「次の瞬間、私はいきなりとてつもないスピードで引っ張られるのを感じた。どんどん上昇していると思ったらすぐに、きらめく光が視界に入ってきた。この光はすべてを知っているように見え、さらに私もこれらの知識をすべて持っていることを思い出させてくれた。直感的に、私が知るべきすべての情報は、すでに私の中にあったのだということを理解した。その瞬間、私は地球上のすべての人びとと同時に一体であるということを自覚したのを覚えている。私たちはみな、一つにつながっていることを実感したのだ。これをどうやって説明できるだろうか?私は様々な種類の活動にかかわっている異なる国の人々のことを同時に認識できたのだ。結局、すべての人が私で、ただ体が異なるだけなのだとわかったのだ」

上記の文章は、以前読んだジェームズ・ヴァン・プラーグさんの本からの引用で、著者の友人のエリックさんという方が臨死体験をしたときのお話です。


わたし自身は、霊が見えるとか、チャネラーだとか、そういった人ではないのですが、なぜこのタイミングでこれが起きるの?とか、今のは何だったの?という体験が、そんなに多くはないけどあったりします。

例えば、(ほんの一例ですが)

昔、とある職場でのいじめが酷くて思い詰めていたときがあったんです。そしたら「全部大したことない」という言葉が突然、頭に降ってきて。その言葉は普段の自分の思考の傾向とは全く違ったので、本当に誰か別の人がわたしの頭というか心に直接語りかけてきた、としか言いようがなく。死ぬしかないかも…なんて思って心がぎゅーっとなるくらい辛かったのに、思わずキョトンとなりました。。

またこれは別の話で、あるときなぜ生きるのかわからなくなって、突然ホピ族の居留地に行ってホピ族として生きようと試みたことがあったのですが、、(詳細は長くなるので省きます)結局また日本に戻ってくることになり、ほぼお金も使い果たしていたのでランパブで働き出したんです。そしたらある日、不思議なというか一風変わったお客さんの席についたことがあって。彼はその日、新橋からタクシーに乗って帰宅しようとしていたところ、たまたまタバコが切れていることに気付き、それを買うために秋葉原で車を降りたらキャッチに捕まり、たまたま隣にわたしがついて、ランパブに来た初対面のお客さんに話すようなことじゃないと思うんだけど、実は自分探しみたいな感覚でホピの村に行ってこんなことがあって〜、みたいな話を切り出してしまって。そしたら彼の彼女が霊媒体質で不思議なことよくあるからわかるよ〜、みたいに面白がって聞いてくれて『生きがいの創造』という本を勧めてくれたのでした。

今思えばその本が、臨死体験などのお話に興味を持つきっかけになったのだなぁ、という気がします。。

機能不全家族の中で育った影響で、なんでこんな人生を生きなければならないんだろうってずっと悩んでいて、今で言えば親ガチャみたいな、望みもしないのに産み落とされて挙句それが劣悪な環境で、誰に対して怒ればいいのかわからなくて、、とにかく早く死にたいと願っていて。

そしたら「人は、自分の人生のシナリオを自ら選んで生まれてくる」と、その本に書かれていたのです。

ええええ〜、と思ったのと同時に、誰も責めなくて良い、ということにひどく安心したのを思えています。。何故なのかはわからないのですが昔から、何かを悪として憎んだり排斥するっていうことに本能的違和感を感じていたので。だから親や兄弟に対して憤りを感じていたのと同時に、その自分の本能的信条みたいなものに沿っていない自分自身に罪悪感を覚えていました。

冒頭の引用文と関連づけて言うなら、わたしたちは全てであるから、何かを責めるとか切り捨てようという行為がそのまま自分を傷付けることになるのかなと。。


上は、臨死体験者であるアニータ・ムアジャーニさんのインタビュー動画を翻訳してくださっているゆうこさんという方のブログです。

臨死体験や胎内記憶、前世の記憶を持つ子どもたちのお話など、オカルトすぎて引いてしまう、という方もいらっしゃるかもしれませんが、様々な研究がされていて単に脳内物質の影響だとかで片付けられない事例もあるし、事実としてお話を勧めさせていただきますけど、、(もし気になったら調べてみてください、という丸投げ)

死んで肉体を離れても魂は存続し続けるのです。肉体を離れれば当然、身体がないわけだから男でも女でもなくなり、境界もないのだから自分とか他人とかもなく、すべてということになる。


人間は常に、自分たちだけが、唯一意識をもって生きている存在であると思っています。しかし、それは違います。たくさんの世界とたくさんの次元が存在しています…肉体の数よりずっと多くの魂が存在しているのです。また、同時に一つ以上の体験をしたいと思う時には、魂はいくつかに分裂することもあります。しかし、それが可能になるには、まだほとんどの人が到達していない発達段階にあることが必要です。最終的には一つのピラミッドのように、唯一の魂しかないことがわかるのです。そして、すべての体験は、同時にすべての魂が体験しています

(上は『魂の伴侶』から)


と言っても、この世で生きているあいだは自分というキャラ設定で世界を体験すべく、いろいろな個人的好みや傾向があったり、社会的文化的背景とかがあったりして。

すべてであって分離がなければただ「それ」でしかないものに、自分の好みとか、道徳的にこれはよくないと教わったとか、そういうフィルターがかかって、好感をもったり、癒されたり、不快になったり、傷付いたりする。

でもそれを体験するためにわざわざこうして自分という個として生きているのだから、それでいいのだと思います。

問題は、自分らしさを否定することかなと。それぞれの人が、それぞれの体験をするために違ったキャラ設定を持っている。どれが正しいのでも間違いでもなく。

自分を全肯定してあげて、自分として生きることに全力を尽くすこと。アニータさんがよく言うのは「どんなことが自分を元気付けて(uplift)くれるか?」という言葉。それを道標にして少しずつでも歩んでいくこと。

自分とは四六時中一緒ですからね…自分を否定したら辛い。

みんながいろいろなこと言うけど、自分に必要な答えはいつも自分の中にあると思います。。