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嫌われがちな 「自分を責める思考」の 生い立ち。 〜私を守ろうとする健気なエネルギー〜


「自分を責める思考」は苦しみの原因として比較的有名かなと思ってまして、割と嫌われてるんじゃないかと思ってます。
「ジャッジ」「エゴ」「自分を責める思考」は三大嫌われているワードではないでしょうか。
(いや「執着」「承認欲求」「無知」もまだ根強く嫌われているかしら。)
今日はこの「自分を責める思考」の生い立ちを説明してみることで、少しでも、このタイプの思考さんとの付き合い方を省みるきっかけとなればと思っております。

まず、そもそも「思考」という人間の機能は「生存」に必要だから(有利だったから)今も存在すると考えてみます。
したたかな生命は、多くの機能が「生存(生き残る)」のために備わっている(もしくは、そういう機能の持つ種がサバイブしてきた)という見方はご存知の方も多いかと思います。
でも、じゃあ
「自分を責める思考」も
「生存」に「必要」なの!?
というのが今日の問題提起です。
結論から言いますと、
「自分を責める思考」は、
生存に必要だと
「思い込んで」います。
なぜでしょうか。

「思考」という機能は、過去の事を振り返ったり、未来のことを想定したりする特徴を持っています。
これは素晴らしい機能で、
自分に起こった危なかった経験を二度と繰り返さないために、「何がいけなかったのか」を考えたり、
未来に待っている危険を「予測」して、どう対処するかを考える機能です。
つまり、自らの命を、いかに安全に永らえるか、に全力を注いでくれる高性能なガードマン機能なわけです。

今の日本は基本的には、命の危険を感じずに日々を過ごしてる方が多いと思いますが、
それでもこの機能は健在です。
思考というガードマンは何から我々を守ってくれるか、というと、
「精神的に傷く」事からです。
身体的な防御のみならず、
精神的なガードも担当しています。
ここで「自分を責める思考」の登場です。
何か自分に「嫌なこと」(傷つく事)が起きた際、二度と同じ想いをしたくないので、原因・理由を特定したくなります。
「私がいけなかったんじゃないか」
「私のここがダメだったのでは?」
このような、自分の振る舞いに理由を求める。これが「自分を責める思考」です。
「なんて私はダメなんだ」とか
「どうしていつもこうなんだ」という強い形を取ることで、
二度と同じ失敗をしないようにと鼓舞しています。
自分を責めている時って
とても辛くてしんどいです。
自分を責めている事にさえ気が付けないくらいしんどい事もあります。
ただ、もしそれに気がつけた時、
「自分を責めるのはダメな事」と思っていると、さらに自分を責めてしまいます。
でも、
「あ、私を、次傷つかないように、懸命に守ろうとしてくれてるんだ」と、
思考本来の機能を思い出すと、その健気さに少し心も休まるかもしれません。
そして
「守ろうとしてくれてありがとう。でもね、自分を責めてもこの悲しさはいなくならないんだ。だからまずは、この悲しさを大切にしてみるよ」
と、忠実な思考ガードマンに、一旦その仕事の手を休めてもらいます。あなたを守りたくて仕方がないガードマンは、あなたが自分の働きを今は必要としていないと分かると、手を休めてくれる事があります。
そして、
傷ついて痛かった自分自身に寄り添う思考をしてくれるかもしれません。

このように、
「自分を責める思考」は
身を守るために必要だと
「思い込んでいる」システムかもしれません。
なので、その「意図」を汲み取り、
そしてその不必要性も同時に感じることは、
思考を「敵」とみなさずに付き合えるステップと言えるかもしれません。
ちょっと合気道みたいですね。
未来や過去の事を考える事が悪いことのように言われる事もありますが、すでにあるのだから、拒絶せず「ある」と認めた上で、そこにある「愛」と意図を尊重し、そして、自分の望む形にしっかりと向かう。
なぜなら全ては愛なのだから。

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