見出し画像

お地蔵さん作りのお話 延長戦

仏師野田さんとのお話の中で、たまたま吉野の話題から、大峯千日回峰行された塩沼さんのお話を聞いて、興味深々。

本をお借りしました

塩沼 亮潤(しおぬま りょうじゅん、1968年〈昭和43年〉3月15日 - )は、宮城県仙台市出身の日本の金峯山修験本宗の僧侶で、仙台市太白区秋保の福聚山慈眼寺住職を務める大峯千日回峰行者(大行満大阿闍梨)である。

Wikipediaより

「大峯千日回峰行」とは、奈良県吉野山にある金峯山寺蔵王堂から、24キロ先の山上ヶ岳頂上にある大峯山寺本堂までの往復48キロ、標高差1355メートルの山道を1000日間歩き続ける修行です。

「執らわれない心」には、人生のあり方を問う76のメッセージ(一歩一歩、前に進む/あせらなくてもいい/人と人との絆/幸せとは何か)が記されています。

ごく当たり前のことだったりするのに、なぜか「今」とても響いたり、昨日と今日では、気になるメッセージが違ったり、その瞬間に私にとって必要な言葉が届く、そんな感じで受け止めていました。

私は興味がわくととりあえず一通り調べまくってしまう性質があるので、
本を読み、亮潤さんのYouTubeの焚火語りを拝見していくうちに、直接お話を聞いてみたくなったので、仙台に会いに行くことにしました。

毎月第3日曜日に慈眼寺にて行われている護摩修法を拝見できることを知り、仙台へ飛ぶことに。すぐ動くとすぐに飛行機もいい感じでとれるんですね。

せっかくなので、仙台の神社もお参りしながら、温泉に泊まって、楽しみがどんどんと増えております。

旅の予定を決めていく時間が本当、楽しいです。

もうひとつ、おまけ。
野田さんに「仏像彫刻のすすめ」という今や貴重な本をお借りしました。

基本の基本。何においてもそうですが、その対象と向き合う心というものがあって、きっかけは何であれ、自己の内側と一度は向き合う必要があるということ。

仏像を彫るときには、いつしか顔だけではなく、自分そっくりに似てしまうことがあるらしいです。
自分の内面に隠されていることろ、もうひとつの自分が自然と露呈してしまうことがあるらしいです。

自分のために彫る場合はそれでもいいのかもしれませんが、依頼を受けて彫る仏師さんたちはそうはいきません。

よく見せよう、うまく彫ろう、早く仕上げよう、そういった自我は必ず表現されてしまう。隠し通せるものではない。
よく見せようとすると、どこかに不自然さが残り、そこばかりに集中すると、そこだけが目立ってしまう。

カフェで開く本でもなかったが早く読みたくて…

それって、普段の生活にもいえることで、自分をよく見せようとして本当の自分ではなく、もし演じている自分であったとするならば、気づかれていないだろうと思っていても、意外とばれていることが多い。

最近になって私自身もそれに気づいてすごく恥ずかしくなったと同時に、よく見せようとしない生活ができるようになると、とてもすごしやすくなったということを実感しています。

なので、このタイミングで私が仏師の野田さんと知り合うことになったり、そこから亮潤さんを知ることになったり、会いに行こうと思うようになったり、というのは、全部つながっているんだなと感じる。

野田さんのお知り合いのお寺さんのお話も普段なら聞くことが無いようなとても興味深いことも多く、こういったご縁とのつながりが、今の私には必要なのかなと思ったりした時間でした。

仙台旅もまた私にとってどのような変化が表れるのか、つづってみようと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?