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復讐の順序が逆転する・・・!

おおかたのちい民が予想した通り、
「瀕死のともだち(2枚葉っぱ)を救いたい。そのためにはセイレーンから人魚を奪うことも厭わない。」
という一枚葉っぱの決意が犯行動機として明らかになり、島編は復讐の応酬を軸とした物語の様相を呈してきた。

セイレーンからすれば、尾びれが当たったことは不可抗力だった。スポーツに熱中していた際の不慮の事故だし、気付けなかったのであれば対応のしようがないのも頷ける。
一方、1枚葉っぱの立場からすれば、友好的に声をかけた友人を意にも介せず、戯れに強烈な一撃を浴びせたあとも、何食わぬ顔でレクレーションを続けていた、というのが見たままの事実だ。

そして(回送時点の)今、1枚葉っぱの目の前には瀕死になったともだちがいる。
自分が人魚釣りに誘わなければ、こんな目に遭うこともなかったという悔恨もある。だが、悪いのは、許せないのはセイレーン一味だ。そんな状況で、2枚葉っぱを救い、かつセイレーンに復讐を果たす方法があるとしたら、それを選ばない方が不自然だろう。

こう考えてみると葉っぱたちには人魚の肉を口にする十分な理由があった。

では彼らの罪とはなにか。
人魚を食べるなんて考えるだけでバチが当たる、と、ただともだちを喪(うしな)えばよかったのか。
せめてセイレーンの復讐が始まった時点で自ら名乗り出て事情を説明すべきだったのか。そうすれば瞳を緋に染めた神獣が聞く耳を持ったとでも言うのか。
さらわれた無実の島民たちが二度と帰らない今、もはやどのような事情を告白しようと、島民たちは二人を許さないだろう。
それならば、憎まれるべき彼らの罪とは、ただ奪われるだけの命が、奪うものに反逆し、禁忌をおかしても生き延びようとしたことだ。ちいさくて弱いものが運命に逆らって生きようとしたことそれ自体が、罰を受けるべき罪だったと思う他ない。

「わからん・・・尊いのは自分の命だけだ。私は私の命以外を大事に考えたことはない。」
「罪・・・・?それは人間たちが、人間の物差しで勝手に決めればいいことだ。」(ミギー「寄生獣」より)

島民たちはこう考えていた。
神獣は供物を捧げ続ければ制御可能であり、引き換えに安定した暮らしや豊かな実りをもたらしてくれるのだから、ギブアンドテイクが成立する、自分たちと対等な関係だ、と。
そう思い込むことで、遥かに力の及ばない巨大な捕食者への畏怖や無力感を誤魔化してきたのだろう。しかし違ったのだ、生きるスケールが。それは単純な身体のサイズの話でもあり、生物としての在り方の話でもある。
その生物は意思疎通が可能に見えて、その実、意思を交わしながら捕食することも厭わないのだ。「ちいさくてかわいいやつ」は戯れに巻き込まれただけで命を奪われかけ、神獣はひとたびその機嫌を損ねれば言い訳など一切聞き入れない厄災となる。そんなモノは本当は神でも何でもない。
島民たちは、本来は相容れない存在である捕食者を、メリットもあるからと恐怖を押し殺して受け入れていただけだ。セイレーンは、対等でも何でもない気まぐれな上位捕食者に過ぎない。

島民はそれでも畏(おそ)れたのだろう。
「無関係なちいかわ族にセイレーン討伐を果たさせよう。成功したとしても失敗したとしても、神殺しの呪いを引き受けるのは自分たちではない。」
そこに葉っぱたちも同調した。
「この討伐を成功させて島民たちの留飲を下げ、人魚や「永遠」をうやむやにし、自分たちの未来を守る・・・・!」

そして復讐劇の第3幕が幕を開けようとしている。

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