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涙はいつでも、メントスコーラ。

本を読む手が止まった。

「初めて、嬉しくて泣いた日のようなーーー」という文章から、前に進めないでいる。私が「初めて嬉しくて泣いた日」はいつだろう。

そもそも「嬉しくて泣いた」こと自体がそう多くない。まあまあ泣き虫な方だけど、全部が全部「嬉しくて泣いた」訳ではない。かといって、全部が全部「悲しくて泣いた」訳でもない。


「嬉しくて泣いた日」のことは覚えてある。

いつの年だったか忘れたけど誕生日だった。まだ学生だった。仲の良い友人とカラオケに出掛けた。いつも通りの選曲で楽しみ、いつものように自由気ままに歌い、いつものようにくたびれて来た頃だった。

「ちょっとトイレ行ってくるね〜」と、友人は席を外した。

その様子を気にするでもなく一人で歌い続けた。予約リストに並んだ5曲目のイントロで「はて?」と思った。なかなか帰って来ない。ふと隣を見ると、友人の荷物はひとつもない。

荷物を全部持ってトイレに行く?と不思議に思って歌うのをやめ、安否を確認しようとスマホを手にしたところで、勢いよくドアが開いた。


お誕生日おめでとう〜!


掛け声とともに、行方をくらましたはずの友人が、プレゼントを持って現れた。いつの間に来たのか、仲の良い後輩までいた。

状況が掴めない私をよそ目に「いや〜!長いよ!ひとりで歌うの長すぎ!もっと早く気づいて〜!」と愚痴りながらも、私の写真をパシャパシャ撮っている。後輩は「ぞうさん」を流して熱唱中。

受け取ったプレゼントと、みんなからの寄せ書きを眺めているうちに泣いていた。

こそこそと、あくまで自然を装って出て行った友人が愛おしくて。後輩と二人でバレないよう仕組んでいた無邪気さが愛おしくて。知らぬ間に集められた寄せ書きの裏切りが愛おしくて。涙がじゃんじゃん出た。

それが私の「嬉しくて泣いた」日。

だけどたぶん、これは「初めて」嬉しくて泣いた日ではない。




人から心配をされると泣いてしまう子だった。

具合が悪く、机に突っ伏して昼休みを過ごしていたら、クラスメートから
「大丈夫?保健室行く?」と聞かれた。よくわからないけれど、涙を止めることができなかった。

泣いているのがバレたら心配させてしまう。そのまま寝たふりを続けたけれど、涙で机はびしゃびしゃだ。そういうことが、何回もあった。

嬉しくて泣いていたのか、と聞かれると、たぶん違う。嬉しいのか、それとも悲しいのかよく分からない。BUMP OF CHICKENじゃないけど「涙の理由を知ってるか 俺には分からないが」とあるけど、まさにそう。私にも分からないのだ、涙の理由なんて。



泣くという行為は「感極まった結果」に過ぎないと思う。

感情が極限に達した時、人は泣いてしまう。感情のメーターが振り切った時、涙は自然と溢れてしまう。決して中途半端な行為ではない。そこに理由を求めてはいけない。そんなの、センスない。


涙はいつでも、メントスコーラなのだから。


人によってメントスは違う。電話口のちょっと強めな説教。それがメントスだと思う人もいるし、身内が亡くなっても、そんなことはメントスではないと思う人もいる。

暴力的なまでに美しい夕焼けを見た時、私は泣いてしまう。

ゆっくりとした足取りで、手を繋いで歩く老夫婦とすれ違った時も。


そういうとき、私の心に、ぽちゃんと、メントスが落とされる。


涙はいつでも、メントスコーラなのだ。


生まれて来た時、誰しも泣く。声を大にして。生まれて来た喜びを噛み締めているとか、生まれて来たことを嘆いているとか、そんなこと、私にはわからない。

わからないけれど、たぶん、驚いているのだろう。思いがけず外に出てきてしまったことに対して。思いがけず生み出されてしまったことに対して。


涙はいつでも、メントスコーラ。

誰だって不意に泣いてしまう時もある。だからって落ち込まなくていいし、責められる必要もない。


初めて「嬉しくて泣いた日」はやっぱり思い出せないけれど、その時、私の心に何かしらのメントスが落とされたのだろう。

極まる感情が、しゅわしゅわと溢れ出す。きらきらで、ベトベトな、とびきり甘い涙を思いっきり、撒き散らしたに違いない。

涙はいつでも、メントスコーラなのだから。


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ちいかま
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