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心の傷にもちゃんと、かさぶたはやって来るのだろうか?

むかし、今よりずっとおてんばだった私は、身体のあちこちに傷を作っていた。特に多かったのが、ひざこぞうのすり傷。

どんなに転んでも涙は流さない、つよい子だったらしい。唇を噛みしめ、足を引きずって帰り着くと、自分で怪我の手当てをした。

傷口を水で洗い流す。全身を電気がびりびり走る。膝こぞうにペタリと貼った、ばんそうこう。濡らしてたまるものかと、必死にバスロマンの波から守っていた。

そんな「おてんばの勲章」を、ときどき、剥がしたくなった。

ばんそうこうの端をゆっくりと剥がして、おそるおそる覗いてみると、まだ未完成の傷口が見えた。出来たてでも、治りかけでもない。ちょっとだけ、ぐじゅりと湿っている。

うへぇと思いながら、ばんそうこうを元通りに貼り直す。いつになったら、この傷は治るのだろう。



精神的に不安定になりやすい私は、社会人になって二度も休職をした。休職期間中、私にできることは安静にすることだけだった。

「治そうと頑張らなくていいから、ゆっくりしていなさい」と、会社から励ましの声をもらった。お言葉に甘えて、ひたすらゆっくりした。

元から精神的に不安定だったのもあるけれど、どちらかといえば、原因は人間関係だった。

当時好きだった先輩に洗脳された。好きが暴走して、止められなくなった。おもちゃのように扱われていることにも気づかず、結果、けちょんけちょんに傷ついた。

傷ついた心を癒すには、十分すぎる休養時間をもらった。少しずつ、心が健やかさを取り戻している感覚があった。

そんな中、復帰についての面談があった。気持ちはまだ沈みがちだ。それでも、ベッドから起き上がれるまでには回復していた。乗り気じゃなかったけれど、渋々、出かけた。

人事部の人と、喫茶店で待ち合わせた。現れた私を見て、こう言った。


「元気そうで、何よりです。治ってよかったね」


私は、笑ってはいるものの、投げかけれた言葉をうまく飲み込むことができないでいる。治ってよかった?あれ、私、ちゃんと治った?

貴重な時間を割いて、面談をしてくれている。場の空気を壊してはいけない。喉まで出かけた「まだ治ってないです」の言葉を、大きな塊のまま無理やり飲み込んだ。

「はい、元気です。もうすっかり、治りました」

飲み込んだはずの言葉は、魚の骨のように、どこか喉に引っかかっていた。



ひざこぞうに貼ったばんそうこうが、気になって仕方がない。

1時間や2時間で治るようなものではないのに「もう治ったかな」なんて頻繁に剥がしては、ああ、まだだったと後悔して貼り直す日が続いた。

体育の時間だった。相変わらずばんそうこうめくりを続ける私は、膝を抱えて体育座りをしているとき、傷口がかさぶたになり始めていることに気づいた。ちょっと、嬉しくなった。

生傷だった頃に比べると、お風呂で濡れても痛くない。ばんそうこうを貼り替える時も、気持ち悪くない。硬くてつよいバリアを手に入れた傷口は「お待たせしました」と言わんばかり、回復の意志を持ち出したのだった。

けれども私は、かさぶたという天然のばんそうこうに変わってもなお、その下が気になって仕方がなかった。むしろ、かさぶたになってからの方が「この下は今、どうなっているんだろう」と、好奇心を抑えられなかった。

だから、簡単に剥いでしまった。

ゆっくりと慎重に皮膚を引っ張って、破れないように剥いだ。もう少しだ、というところで不意に引っかかる。あ、と思った時にはもう遅く、かさぶたは肌に張り付いたまま、ぴりっと微かな音をたてた。

がさがさした皮膚は小さく裂け、新しい傷口をつくった。一瞬の間を置いて、赤い血がにじみだす。

わかっていた。かさぶたを剥いでも血が出るだけで、良くなることはないと。わかっているのに、それでも剥いでしまう。その後も、剥いでは蓋をする、私とかさぶたの静かな戦いが続いた。

けれども、友達とイオンまで遊びに行ったり、習い事に追われたり、漢字練習帳をいっぱいに埋め尽くしたりする日々が続くと、いつしか頭の中から、かさぶたの存在がすっかり抜け落ちていた。

そしてある日、お風呂にちゃぷちゃぷと浸かりながら気づくのだ。


あれ?かさぶた、いなくなっちゃった。


真っ白なひざこぞうが、ゆらゆら揺れる湯船の水面から、ニョキっと顔を出している。傷なんてどこにもない、つるつるのひざこぞう。

そうか、治ったんだ。やわらかで真っ白なひざを撫でていると、心のすみっこに、寂しさがちょっとだけ広がった。



復職に向けて、人事との面談は回を重ねた。その度に言われる。「よかったですね、治って。元気が一番ですから」と。私はやっぱり、うまく飲み込めない。そうなのだろうか?本当に治ったのだろうか?

ばんそうこうの下が気になる私は、見えないばんそうこうを剥がしたくなった。

こける。擦りむけたひざこぞうから、血が出る。消毒液をかけて、ばんそうこうを貼る。じっと我慢していたら、かさぶたがやって来て、じんわりと治してくれる。しばらくして、かさぶたがいなくなると、そこには元通りのやわらかな肌がある。

じゃあ、心の傷は?

心の傷にもちゃんと、かさぶたはやって来るのだろうか?かさぶたが剥がれていなくなった時、そこには元通りの心があるのだろうか?


私たちは簡単に傷ついてしまう。こけたり、つまずいたり、世の中にはたくさん、傷ついている人がいる。

残念ながら、その人たちの傷を見ることはできない。

見えない傷口から溢れ出すのは、透明な粘液。血のように赤ければわかるのに、透明だから誰も気づかない。もしかしたら、怪我をしている本人ですら、気づかないかもしれない。

だから、わからないのだ。いつ傷ついたのかはもちろん、いつ治ったのかなんて、誰にもわからない。

治ったと思っても、忘れた頃に痛み出すことだって良くある。なんて事のない日々が、突如、傷口に染みる。

湯船のお湯が、悪意なく傷口を濡らすように、穏やかで、ゆるやかな日々でさえ、急に染みてしまうことがある。

それは、とても痛い。「そうだった。私、傷ついていたんだ」と気づかされる暴力的な痛み。

透明な傷口には、透明なかさぶたがやってくるのだろうか。

透明だから、いなくなっちゃった時が、たぶん、わからないかもしれない。用心深く剥いでみても、生傷のままかもしれないし、あるいはとっくの昔にいなくなっているのかもしれない。

「この前まで落ち込んでいたけど、もう大丈夫そうだな」なんて油断が、取り返しのつかない結果を招くことだってあるかもしれない。

じゃあ、どうすればいいのだろう。私たちの心の傷は、どうやって治せばいいのだろう。



あれから私もずっと大人になって、道ばたで転ぶようなことは無くなった。

たまにうっかり傷を作ってしまうが、大抵のものは、ばんそうこうを貼っておけば簡単に治る。水に触れた時、チクリとした痛みが走るだけの、その程度の傷。

しかし、どうして、心についた傷はこうも、身体の真ん中をズンズンと突き刺すのだろう。ピリッとした電流が流れるような、刹那の痛みではない。ずんと深く響く、そこから動けなくなるような、重い痛み。

ひょっとすると、この傷に消毒液をかけるとなると、それはもう、とんでもない痛さなのかもしれない。

思い返せば、あまりにも大きな痛みだったから、自分では手当てができなかった。だからつい、放っておいてしまったのだ。

ひょっとして、消毒液をかけていたら、治りは良かったのだろうか?見えないかさぶたの存在を、感じることができたのだろうか?

そうであるなら、心の傷にかける消毒液は一体、なんだろう。


私はひとつだけ知っている。心の傷にかける消毒液、それは、自分としっかり向き合うことであると。

自分としっかり向き合うということは、自分の「悪かったところ」をちゃんと受け入れるということ。

誰だって、自分の悪い部分を見つめるのは、そしてそれを受け入れるのは、すごくしんどい。考えれば考えるほど、心がどんどんと深いところまで落ちていってしまう。

だけどやっぱり、必要なんだと思う。手当ては早ければ早いほど、傷の治りも早いのだろう。

面談で言われた「よかったですね、治って」に対して、ほんとうのところでは「いいえ、まだ治ってはいません」と言ってしまいたかった。だって、私の真ん中には、心のいちばんやわらかいところには、傷ついた記憶があるから。

好きな人に洗脳され、おもちゃのように扱われ、けちょんけちょんにされたのだ。ひどく傷ついた。治ってなんかいない。簡単に治るものか。でもそれを、自分自身で否定してしまった。



毎晩、眠りにつく瞬間、ふと蘇る。

投げつけられた言葉。踏みつけられた心。好意と好奇心の違いもわからず、向けられているものが、ただひたすら、純粋なものでありますようにと願う記憶。

そんな記憶が蘇ったとき、ざわつく心で思わず剥いでしまう。透明のかさぶたを。

血は透明なので、目で確かめることはできない。見えているけれど、見えていない。けれども、枕は確かに濡れていて、そこに透明の血が流れていることを証明している。

手当てもせずに放っておいたかさぶたは、硬くて、脆い存在として、自分の一部になってしまったらしい。いつか消えるものなのに、いつまでも消えず、ずっとそこに居続けている。

その傷を今から手当てするのだとすれば、当然、想像もつかない痛みが伴うのだろう。

だけど、やるしかない。

消毒液のプールに、飛び込むしかない。過去の痛みも、今の痛みも全部まとめて、未来に持って行くしかない。


本当は私、嫌だったんだな。


自分の本音を噛み殺したことが、嫌だった。治ったフリして、痛みなんて無かったことにしたことが、嫌だった。傷ついたと認めることが、まだ立ち直っていないと知られることが、嫌だった。

自分としっかり向き合うのは怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い。でも、目を逸らしてはいけない。見えない傷口に、消毒液をかけなくてはいけない。

外から見えない傷は、内側から見るしかない。自分と向き合えるのは、自分しかいないのだから。

心の傷にもちゃんと「かさぶた」はやって来て、いつか、痛みもなく消えてゆくことを私は信じている。

そこにはきっと、元通りの真っ白で、やわらかな心があることも。

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