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『だからヤクザを辞められない』 廣末 登

皆さんも耳にしているかもしれないが、数年前にあった王将会長射殺事件の犯人が先日逮捕され、その容疑者は日本で唯一の特定危険指定暴力団系列の幹部だとニュースで報じていた。その『特定危険指定暴力団』といういかめしい言葉に興味を惹かれTVの画面に釘付けになった私は、その暴力団について詳しいという解説者のの書棚に置かれたこの本を見つけ、すぐスマホで検索しポチって手に入れた。
なぜ…かはわからない。
けど、暴力団という日常では身近に関わることのない世界について知りたくなったからかもしれない。実際に読了して、今の世の中は何か手に余るもの、都合の悪いものを排除することで安心、安全を確保しようとしているけど、昔は暴力団というものがあることである意味統制がされていたのかもしれないとの感想を持った。

著者は大学院時代から犯罪社会学を専攻し「どういう人がいかなる社会的諸力を受けてヤクザになるのか」を研究するために元暴力団員や現役の組員らから聞き取りしている。
その中で、暴排条例によりいざ暴力団をやめようと思っても携帯電話の契約や講座開設もままならぬ…ある意味人権保障もされていない状況下で、再犯や再び暴力団に入らないまでも半グレ集団の裏引きなどが懸念される状況の調査、著書に著している。
また、離脱希望の暴力団員や少年矯正施設出所者らの人生の仕切り直しにはかなりのハードルがあり、普通の世の中で生活する私たちには当たり前の社会の仕組みだが、彼らは世間一般ではない世界にいたため、離脱しようにも文化的葛藤に苦しみ、その挙句自らの経験に基づく短絡的行動をとってしまう結果となってしまうので、ひとつひとつ同行するなどの支援をしてきた様子も書かれている。

著書の中で暴排条例によりこれまでのような力を使えず弱まる一方の暴力団の存在を脅かす存在として『半グレ』らの犯罪の悪化について挙げている。
半グレという表現はニュースでもよく聞かれるが、用語の定着自体は2011年頃でしっかりとした定義は定まっていない。

半グレ集団はカタギ(一般の高齢者、女性)への詐欺など暴力団では本来扱わない犯罪に関与することが多く、その背景に元暴や現役組員らの仕切りも見られている。
その半グレと呼ばれる状態から離脱した数人との面談で聞かれた言葉で印象に残ったものある。
「半グレやってる奴らはヤクザが後ろについてくれてると思っているが、実際にヤクザは何もしてくれない。ただの『つまようじ』と思われている。先が折れたら捨てるだけ

なぜ半グレを続けるのかの質問に対して「輝くことができるから」「自由なのに力を持つことが出来る」「バカには最高のチャンス」との答えからも、これまで一人前になるには一定の修行期間が必要という認識が大前提だったが、それさえも忌避するがために不良集団から半グレという犯罪集団への加入のハードルが低くなっている様子が垣間見える。

彼らは「無知ゆえに」「脇が甘かった」プロの犯罪者から利用されたある意味被害者なのかもしれないけど、
「どこにでもいる不良が半グレになる」「半グレは普通の子を巻き込む」
半グレ…言葉はキャッチーだけど危険性の高いカテゴリーだ。
離脱暴力団員や少年犯罪に至った彼らの半数以上が家庭に何らかの見過ごし難い問題があるそうで、最大の問題点はそのような家庭に彼らの居場所が無いことから彼らは当たり前のマナーや守るべきルールの学習、習得が出来なかったと読み取れる。

著者は最後に「現在問題になっている様々な社会病理も社会的孤立や人間関係の希薄化がその一因であり、これらも身近に、気軽に相談できる『駆け込み寺』的な拠点が商店街の一角などにあれば相談の敷居も低く、暴力団・準暴力団加入予備軍や離脱予備軍の対策に加え再犯の抑止効果も期待できる」としており、離脱しようとする彼らを『普通の世界』に馴染めるよう私たちも意識を変える必要があると感じた。

あとがきに以下の文章がある。
今の日本に必要なのは本来日本にあった『共』の復活。

確かにこれまでの日本にはお隣、そのお隣の家庭の様子をなんとなく把握し、困り事があれば地域で支え合ってきた。
児童を含む福祉の分野で仕事をしてきたので、『共』の必要性、アウトリーチ…そういう言葉はよく聞かれる。
けど実際はそういう暮らしの不自由さが窮屈で、高齢で一人住まいの母や義母とは適度に距離を取り、マンション住まいをしている私としてはなかなかなかなか耳が痛い…。