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「差別」について考える~「差別」の種に目を向けて考え続ける~


「差別」のニュースを見るたび、

わたしの中に小さく降りつもる思い。


「差別」

口にすることも、文章に書くことも、

むずかしいことだと思う。


けれど、

今の思いをつづること大切なことでは?


そう考えた結果、今の思いをこのnoteに記そうと思う。



「差別」よくないことだ。

そんなことは誰でも知っている。


けれど、

それでも「差別」はなくならない。


それに、

、問題になっている「差別」が解決しても、

きっと、しい「差別」が浮かび上がってくる。



どうしてだろう?



思うに、


「差別」として浮かび上がる前の、

その「差別」の種が、

わたしたちの日常にはたくさん埋もれているからだと思う。


飲み会は全員参加。

あらゆる人と交流して人脈をつくるべき。

どんなに多い仕事でも、効率よくこなす。


これだけ見れば、

「あぁ、こういう考え方あるよね」、で

終わると思う。


だけど、

この考え方の裏側に「差別」の種

ひそかに埋まっている。


考え方自体が悪いわけじゃない。


それを基準に目の前の人を判断する。

そして、「そうである人」「そうでない人を分ける。


その判断して分ける行為が、「差別」の種だと思う。


いわゆる、人をジャッジする行為だ。


その「そうでない人」を

集団からはじき出せば、それはいじめになる。


そのいじめ「当たり前」になって、

大きくなった状態が「差別」なのだと思う。


生まれ、人種や文化の違いなどの身体的特徴。

性質、性格や考え方の違いなどの心理的特徴。


そのどちらの違いも、

良いものでも、悪いものでもない。


どちらか

優れているわけでも、劣っているわけでもない。


それでも、

人は自分の基準誰かを判断して分ける。

そして、それが正しい思ってしまう。


それが、

たとえ「今の社会の常識」でも、


あと数年、数十年、数百年も経てば、

その考え方は必ず変わっていくものなのに。


歴史的にも、

昔の非常識が今の常識になっていることはある。


女性が働くなんて……と言っていた過去。

今や、女性の社会進出は「当たり前」だ。


きっと、

今の自分の考え方は、

万能なものでもなければ、

永遠に変わらない真理でもなんでもない。



だから、

誰もが誰かをジャッジすることなどできないし、

誰もが誰かにジャッジされることもない。



そう、わたしは思う。



あらゆる「違い」は、

ただの「違い」でしかない。


だから、

その「違い」によって誰かが傷つけられるのはおかしい。


そう言うわたしも、

きっと、日常に「差別」の種を隠し持っているだろう。


だからこそ、

日常の中で「差別」の種が現われたとき、

それにきちんと向き合う必要があると思う。


そして、

自分なりにその「差別」の種について考える。


「差別」一気になくすことも、

「差別」をこれから全く生み出さないことも、

不可能かもしれない。



けれど、

「差別」について、

そして、

「差別」の種について、

誰もが「自分のこと」として考え続けていく。


それが「差別」をなくす一歩になる。



わたしはそう信じて、

日常で出会う「差別」の種について

考え続けて生きてく。


注意書き:

(何回も考え、書き直しのですが、

まとまったものにならなかった……。

読みづらかったら、ごめんなさい。)

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