音楽の話:第1回ベートーヴェンフェストとボンのベートーヴェン像、シューマン作曲≪ファンタジー≫Op.17

6月7日「音楽ニュース」の中で少し触れましたが、ボンの『ベートーヴェンフェスト』第1回は1845年、ベートーヴェン生誕75年を記念して開催されました。
この時、ボン市内にベートーベンの像が建立され、除幕式が1845年8月12日に行われました。除幕式にはプロイセン国王フリートリヒ・ヴィルヘルム4世や英国女王ヴィクトリアも出席したそうです。

この像は現在、ボン市内中央郵便局の前ミュンスタープラッツ(Münsterplatz)に立っています。

さて、像を建立するための資金集めに作曲家リストが中心になり、ロベルト・シューマンもこれに協力、ピアノ曲を作曲してその楽譜の売上金を寄付しました。それが≪ファンタジー≫ハ長調、Op.17です。
≪ファンタジー≫は1836年に作曲着手、38年に完成し、リストに献呈されています。

以前にも触れましたが、ロベルトの妻になったクララの父親フリートリヒ・ヴィークは当時ロベルトとクララの恋に猛反対していました。ちなみにヴィークは高名な音楽教育者・ピアノ教師であり、ロベルトの仲間でもありました。ヴィークは2人を引き裂こうと、クララを連れて演奏旅行に出かけ(クララは19世紀の超一流ピアニストです)、2人は会うこともできず、ロベルトは鬱状態になり精神を病み始めます。≪ファンタジー≫はこの頃に作曲されました。

シューマンは≪ファンタジー≫の中で、ベートーヴェンやバッハの作品を巧みに引用しています。中でもベートーヴェン作曲の連作歌曲≪遥かなる恋人に≫(Op. 98)第6曲は数回にわたり引用されています。なお、この作品のドイツ語原題は『An die ferne Geliebte』(アン・ディー・フェルネ・ゲリープテ)と言います。

≪遥かなる恋人に≫は1816年作曲されました。ベートーヴェンの最初の連作歌曲集です。自筆稿は1907年以来ボンのベートーヴェンハウスに所蔵されています。

作曲を依頼したのはヨーゼフ・フォン・ロボコヴィッツ候です。候は芸術を愛し、支援し、また優秀な歌手でヴァイオリン奏者でした。彼の支援を受けた作曲家はベートーヴェンの他にヨゼフ・ハイドンもいます。

作曲依頼の理由は、彼の夫人であるマリア・カロリーネ・フォン・シュヴァルツェンベルクの思い出のために、ということでした。
彼女は1816年1月、40歳で他界しました。つまりこの曲は『レクイエム』、「遥かなる恋人」がいる場所は天国なのです。
なお、ロボコヴィッツ候は夫人の逝去から11カ月後に亡くなりました。

≪ファンタジー≫にはロベルト・シューマンの「遥かなる恋人」クララへの思いがあふれています。たとえば簡単なことを言うと、第一楽章と第三楽章の調性はC-Dur(ハ長調)ですが、これはクララ(Clara)の頭文字「C」をとっています。

ちなみにシューマンが1845年、唯一完成したピアノ協奏曲、第一楽章の冒頭のテーマは「Clara」、つまりC-(H)-A-A、ドー(シ)ーラーラという音列になっていますが、これもクララ、そしてこの音列は繰り返し現れます。

さて、ベートーヴェン≪遥かなる恋人に≫は≪ファンタジー≫第一楽章をしめくくります。青のカギカッコでくくった部分です。

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ところがシューマンは初稿で、第三楽章の終わりにも≪遥かなる恋人に≫を引用したのですが、その後破棄していました。

私が所持している出版社ヘンレの楽譜は最後に破棄された部分も掲載しています。

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第138小節目以降、代わるものとして初稿が掲載されています。

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シューマンのピアノ曲は傑作ぞろいですが、初めてこの作品を聴いた時の驚きと感動は今も鮮明に残っています。特に第一楽章では、冒頭から感情が迸り、雷に打たれたように言葉も出ませんでした。

シューマンは1838年3月19日付、クララ宛の手紙の中で次のように語っています:
第一楽章はこれまで作曲した中で、最も情熱的ですー君を想う、深い嘆き ー他の楽章は比較すると弱いけれど、恥ずべきほどではありません。

なお、クララはシューマン存命中にはこの曲を公開の場所では演奏しなかったそうです。

さて、この作品、録音はたくさんあるのですが、なぜかリサイタルでのライヴ演奏が少ないように思います。
ですから、良いピアニストが演奏する折には(万難を排して!)聴きにいきます。

下の写真は、いま、ボンのミュンスタープラッツに立つベートーヴェン像です。ボン在住の友人が送ってくれました。ルートヴィヒもコロナ対策でマスクを使用しています。

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