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「コーヒーとコーラ」は、大人の通過儀礼?

「お母さん、コーヒー飲みたい!」

毎朝コーヒーを作る私を見るたび、小学1年生の長男(7歳)がこうせがむようになった。「Kくんにコーヒーはまだ早いでしょ」。そう言っていつも適当にあしらっていたものの、納得いかない顔だった。

しびれを切らした長男は先日、ついに行動をおこした。私が台所から離れたタイミングで、自分でコーヒーを作ったのだ。正確に言うと、色の薄いコーヒー汁。次男(4歳)と一緒に大量のコーヒー粉をフィルターに入れたものの、お湯ではなく水を注いだようだ。細かい粉が飛び散った台所のシンクに放置されたコーヒーポットを見て、私は怒りや呆れの感情よりも「ここまでやるか」という驚きが優った。

そんなことがあって、「一口も飲ませないでダメというのは良くなかった」と思い直した私。長男にもコーヒーを少しだけ飲ませてみることにした。

そこで作ったのは、特製コーヒー牛乳。カフェインをあげすぎないよう、コップにスプーン1杯のコーヒーを入れ、あとはモリモリの牛乳を注ぐ。希釈30倍じゃ足りない、圧倒的なミルク感。それでも長男は「大人の仲間入りができた」とでも言わん顔をして、うれしそうに飲み干した。

思えば、私にとってもコーヒーは大人の象徴だった。小学生(高学年)の頃だろうか。長男と同じように、コーヒーを作る母の真似をして、父にコーヒーをよく淹れてあげた。「C(私)のコーヒーはおいしいね」。遅くまで働き、煙草を吸い、コーヒーをたしなむ”大人な”父に認められ、自分も少しだけ大人になれたと感じた。

その一方、大人から拒まれた記憶もある。昔から両親の朝食はコーヒーとパン。その横で、1歳上の兄と私は野菜ジュースとおにぎりだった。子どもだけパンを食べなかったのは「おにぎりの方がお腹にたまる」という母の持論から。納得できず、でも反論もできず、好きでもない野菜ジュースと一緒に流し込んだ。

「大人になったら、好きにしなさい」。母の言葉通り、大人になった今、朝食の組み合わせは決まってパンとコーヒーだ。当時の気持ちの埋め合わせなのかもしれない。

私にとって、大人の”苦い”象徴はもうひとつある。コカ・コーラだ。マクドナルド好きの父がセットドリンクで必ず頼むコーラ。私も頼みたかったが、「歯が溶けるから」と母がピシャリ。お祝いなど特別な日しか飲めなかった。「大きくなったら、飲みなさい」。コーラを見ると、そう言われたことを思い出す。

だが最近、コーラの苦い思い出を上書きするうれしい出来事があった。同じマンションに住む長男の友達が我が家に遊びにきたときのこと。長男より1つ年上で、しっかり者の小学2年生が家から持ってきたのが、コーラのミニ缶(160ミリリットル)だった。

(友達)「K君(長男)、これ飲める?」
(K)「飲んだことない」
(友達)「ちょっと飲んでみて」

そう言われ、戸惑いながら私の顔をみるK。私はとっさに「歯が溶けるからだめ」という母の言葉が頭に浮かんだ。が、すぐにかき消した。「飲んでみなよ!」。自分が母に言って欲しかった言葉を、自分の子どもに言ってあげることができた。

Kはエイッと一口。その瞬間の顔が忘れられない。顔のパーツを全部くしゃくしゃにした苦い顔。誰が見てもまずいものを口にした表情だったが、コップを置いたKからでた感想は「おいしい!」だった。そのあとも少しずつ、少しずつ、コーラを飲み続けていた。

これ以来、スーパーマーケットでコーラを見つけるたび「これ、僕飲んだよね!」と自慢げに教えてくれるようになった長男。憧れのお兄ちゃんに一歩近づいた、大人へのステップを登った、晴れ晴れとした顔だ。

コーヒーとコーラ。私にとっての大人の象徴に、長男も特別な意味を感じているようだ。コーヒーとコーラを通じて、少しずつ大人へと近づいているうれしさを噛み締めている。

大人へのステップを登る長男に対し、母親としてできることはひとつ。彼の挑戦の邪魔をしないことだ。私の苦い記憶のように、母親はどうしても子どもに干渉しがちだ。だが、何気ない一言で子どもの挑戦する心の芽をつんでしまうこともある。積もり積もれば、挑戦に苦手意識をもつようになってしまうだろう。

「まだ〜歳だから無理だよ」「大きくなったら」「大人になったら」。大人が何気なく発する一言に、子どもの思考はかなり影響される。コーヒーとコーラに思いをはせ、息子たちへの向き合い方を再確認できた。

私が父にコーヒーを淹れたように、いつか長男と次男が私にコーヒーを作ってくれるのかな。そんな日がくるまで、2人とは対等な関係を築いていきたい。


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