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ようこそ、もやもやへ

去年の10月くらいから、ある男性の作家のクラスをとっていた。仕事の都合で行けたり、行けなかったりしても、心を守って生きていくために、書くことが必要だった。クラスの方々の作品に触れて、その思いが切実になった。支えだった。たくさんの学びがあり濃密な時間を過ごさせていただいた。

しかし、ある時から少しずつわだかまりを感じはじめていた。教室にふんわりと漂う違和感が、先日の講義ではっきりした。

”対話とはキャッチボール。あのキャッチボールの感覚、女性はキャッチボールをしたことがないから分からないと思うけど(笑)、対話はキャッチボールなんです。キャッチボールは相手の取れる球を投げることなんだよね” 講師の言葉に胸がざわつく。

豊かな文学の知識や深い考察、講師の感性を拝聴できることに毎回感動した。柔らかに、優しく、ユーモラスに、文壇のゴシップなども講義で語られてきた。意外な裏話は、くすっとした笑いを誘う。

でも気がつくと、文学者や文学作品、作家である講師の声を通して混じる謗り、嘲りにまで、笑い声が続いている。どこかでずっと感じていた辛さが陽性反応を起こす。これには笑えない。笑うべきではない。私は震えて挙手し、発言した。

「あなた、どこにいます?」講師は何度も聞いた。
私は教壇から真っ直ぐ、誰も遮ることのない席に、講師と対面して座っていたのに。広い教室に受講者が23人、バラバラに座っている。私の声が小さかったのかもしれない。

ここにいます、と答えて同じ問いをもう一度すると
「君は頭がいいからわかるでしょう」
質問は頭ごなしに2回遮られた。鬱陶しいとばかりに、講師はこちらを見ることもしなかった。

「頭がいいと仰る意味がわからないのです」と言うと「頭がいいとは聡明だってこと。君は聡明だからわかるでしょう。声が大きいよ」斜めの方向を見て不機嫌に講師は言い放つ。私が「頭がいい」の意味なんて聞いてないのは明らかだ。

講師がなぜ私に向かって「頭が良い」と言うのか、その理由も聞くと、後ろに座っていた男性が「落ち着け」と舌打ちしたので、振り返ると、講師と同じ表情がそこにあった。落ち着く必要があるのはどちらなのだろうか。

結局、私の問いはまともに応えられなかった。「君は頭がいいから分かるだろう」「声が大きすぎる」その2点を繰り返した。スピーカーを鳴らす講師の声は、マスクで覆われた私の声よりずっと大きい。

「頭がいい」は彼らにとって都合よく賢くあれ、ということ。つべこべ言わずに服従しろ圧がすごい。
「喧嘩をふきかけられた」講師は私の質問を笑いとばした。

小さな文学教室にも、社会の毒はしみこんでいる。ようこそ、もやもやへ





























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