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聖徳太子は知っていた? 舟塚古墳の被葬者

 9月9日、奈良県斑鳩町の舟塚古墳で、発掘調査の現地説明会がありました。

 古墳は法隆寺南大門の南約300m、法隆寺観光駐車場の一角にあります。遺跡としての範囲を確かめる学術調査として、町と奈良大学が4回にわたって発掘したのです。

 と言いますが、調査されるまでは、ただの「植え込み」でした。低い石垣で裾部を囲み、上には数種類の庭木が植えられていて、ちょっと見には古代の墓と思えない姿だったのです。

舟塚古墳の元の状態。現地説明会の展示写真から

 調査面積はわずか13平方mですし、今回の調査も当初はさほど注目されていなかったのです。というより、調査チームを率いた奈良大学文化財学科の豊島直博教授(考古学)でさえ「これは本当に古墳なの?」と半信半疑だったくらい、よくわかっていませんでした。

 2019年度に調査地の北側で実施された発掘では、古墳があることを示す痕跡は見つからなかったといいます。

 しかし、2022年3月に本体の発掘にとりかかり、植え込みの土を除いていくと、古墳の石室のものらしい石材や須恵器が姿を現したのです。翌年2~3月には横穴式石室の一部が見つかったそうです。

土器の出土状況。いずれも現地説明会の展示写真から

 それは、関西では一般的な「右片袖式石室」でした。石室の奥(玄室)から出入りする通路(羨道)側を見た時に、玄室出口の右側だけが壁になっているスタイルです。


舟塚古墳の石室。手前が南側の羨道部分

 この8月3日から9月13日にかけての第4次調査で、石室の全容がわかりました。被葬者を安置する玄室は長さ3・8m、幅1・6mでした。天井石は抜き取られていたものの、2振りの大刀や馬具の鉄製部品、玉類、被葬者に捧げられた土器37点などが見つかりました。土器の特徴から、舟塚古墳は6世紀後半の築造であり、600m南西の藤ノ木古墳(6世紀第4四半期)より一世代古いこともわかりました。斑鳩地域では最も古い古墳のひとつと言うことでした。


舟塚古墳の石室で見つかった7世紀の軒丸瓦

 しかも、石室の石を抜き取った後の土の中から7世紀の軒丸瓦が数点見つかりました。そのため、この古墳が壊されたのは7世紀前半ごろのことと、調査チームは判断しています。

 豊島教授は「この時期に、宮か寺を造るために礎石として利用したのではないか」と話してくれました。

現地説明会に臨む豊島直博・奈良大教授(マイクを持つ男性の隣に立つ帽子の男性)


 さて、舟塚古墳の発掘成果を踏まえて、6~7世紀の斑鳩地域の動きをざっと整理してみます。


6世紀後半(第3四半期?) 舟塚古墳が築かれる

6世紀後半(第4四半期)  藤ノ木古墳が築かれる

601年          斑鳩宮の造営始まる

605年          聖徳太子が飛鳥から斑鳩宮に移り住む

643年          山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて自害し、
              斑鳩宮が焼け落ちる


 気になるのは、舟塚古墳と藤ノ木古墳の「格差」です。舟塚は天井石が抜かれ、前に書いたとおり「宮か寺」への転用の可能性が指摘されています。

藤ノ木古墳の全景。奈良県ホームページから
未盗掘だった藤ノ木古墳の石棺
『斑鳩 藤ノ木古墳 第二・三次調査報告書』
(1995年、斑鳩町教育委員会)から

 一方、藤ノ木古墳(国史跡)は、1985年から3次にわたる発掘調査で未盗掘の古墳であることがわかりました。全長13・95mの横穴石室からは、東アジアでも類例のない豪華な金銅製馬具が発見されました。また、蓋を開けられた形跡のない家型石棺からは金銅製の冠や沓(くつ)、1万点を超すガラス玉、男性2人とみられる遺骨などが見つかっています。

 被葬者は特定されていませんが、穴穂部皇子(?~587、聖徳太子の叔父)や宅部皇子(?~587、宣化天皇の子)ら、皇族クラスが候補者に挙げられています。

 一世代くらいしか違わない同じ6世紀後半の古墳なのに、片や築造から数十年で壊され、片や現代まで埋葬当時のまま伝えられてきた。ご近所でありながら、この差はなんでしょうか。

 現地説明会の合間、豊島先生に質問してみました。すると先生は

「舟塚は地域の小豪族の墓だったと見ています。一方で、藤ノ木古墳は皇族などの墓の可能性があります」

 つまり、身分の差があったと? ということは、舟塚古墳から石を抜き取った主は被葬者が誰かを知っていて、古墳を壊してもかまわないと判断したのでしょうか?

「そう思います」

 豊島先生はそうおっしゃいました。ただし、石が転用された可能性がある構造物については「寺か宮殿か」とされるに留め、具体名は挙げられませんでした。


 さて、ここからは私の妄想です。

 聖徳太子が斑鳩宮を築いて移り住んだのが7世紀初頭です。舟塚古墳や藤ノ木古墳が造営されてからまだ数十年でした。宮の側には、法隆寺の前身も造られます。

 ということは、太子やその周辺はその建築資材を必要としたでしょう。近くから資材となる石を求めるとすれば、やはり古墳です。

 しかし、壊していいものと壊してはいけないものがあった。被葬者が誰かを考えれば、答えは明らかだったはずです。

 舟塚古墳を壊したのは聖徳太子だ、などと暴走するつもりはありません。太子のころのことかどうか、時期をピンポイントに特定できるわけでも、古墳と太子の関係をはっきりさせる証拠があるわけでもありませんから。

 ただし、太子に近い時代や立場にいた人たちは舟塚と藤ノ木の「格差」を理解していて、その中に舟塚の石の再利用を決断した人物がいた、とは言えそうです。

 その人物が無慈悲な破壊者かどうかは別の問題です。「古墳を完全に消滅させたわけではなく、土器などには手をつけていませんから」と、豊島教授は言います。

 

舟塚古墳の脇に残る注意書きの立て看板

 確かに、羨道部から出土した土器群は良好な形を保っていました。その点は、藤ノ木古墳の石室が発掘されたとき、同じような土器の群れが壊されることなく、玄室の片隅にまとめて置かれていた様子を思い起こさせました。しかも、現代人は石垣を巡らせて舟塚の墳丘を守り、植え込みとしか見えない外見なのに「注意 古墳につきゴミを捨てないでください」という看板を立てて、人々に訴えてきたのです。

舟塚古墳の石室で見つかった土器類。かなりいい状態で発掘されたことがわかる

 壊された古墳と壊されなかった古墳が、法隆寺のすぐそばにある。どちらも聖徳太子が飛鳥から斑鳩に移る数十年前のもので、間違いがない。とすれば、太子が二つの古墳の被葬者を知っていた可能性は高いでしょう。
 太子にインタビューすることができたなら、
 「あなたは、ふたつの古墳の違いをどう認識されていたのでしょうか?」
 とうかがってみたいものです。


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