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ランタンとインフルエンザ

 二十歳の冬のことだった。短大のクラスメイトたちと卒業前の飲み会を思案橋で開いたあと、二次会として新地中華街まで足をのばし、長崎ランタンフェスティバルの会場へ繰り出した。
二月中旬の寒空の下、コートにヒールの高い厚底ブーツ、ミニスカートのワンピース。防寒対策など考えてもいない普段の通学用のままの服装で、女子短大生の集団は湊公園でテーブル席に陣取り、ビールや肉まん、中華ちまきや揚げ蒲鉾などを買い込み、勢いよく飲食しながら同時におしゃべりもし、ステージ上の催し物に歓声をあげてはしゃいだ。
やがて、私は少しだけ気分が悪くなり、皆に声をかけてから会場の隅にあるトイレに行った。楽しい夜は更けていった。

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 翌朝気づくと私は自分のアパートの、自分の布団の上にいた。
掛け布団はかけておらず、コートを着たままハンドバックを腹の上に置き、パーマをかけたロングヘアのすそには何か白いものがついていて、ブーツを履いていた。
顔のまわりから漂う臭いがなんとも不快で、髪を鼻の前に持ってきて嗅ぐと間違いなく吐瀉物のにおいだった。
その一部には米粒の半分消化したようなものがついていた。
あわてて服を脱ぎ、脱いだものを全て洗濯機に入れると狭いユニットバスでシャワーを浴び、念入りにシャンプーをした。
ようやくひと息ついて時計を確認すると六時だったけれど、外が暗いので朝なのか夜なのか一瞬わからなかった。

温かいコーヒーを淹れて飲みながら昨日の記憶を確かめてみたが、ランタン祭の会場で盛り上がり、トイレに行きたくなったから行った、の続きをどうしても思い出せなかった。
一緒にいた友人に電話をかけるにも時間が早すぎるので、それまでもうひと眠りしようとすると、体のあちこちが痛んで悪寒がした。
本当は目覚めたときから寒さに震え頭痛がしていたのだが、身の始末が先なので我慢していたが、やはり発熱していたのだ。
体温計を取り出して検温してみると38.0℃を記録した。

携帯を持って布団に入り、実家の母に電話をかけた。
朝起きたら発熱していたことを告げると、昨日何をしていたのか聞いてきたので、飲み会に参加していたこと、その後のことを正直に言うといきなり大きな声を出した。

「ハアアアア? あんた確か、明日、短大卒業のための追試だったんじゃないの? 何やってんの、今すぐ行くからそこで寝てなさいっ」

悪寒と痛みでなかなか眠れず、頭から布団を被って震えているうちにそれでも寝入っってしまい数時間経ったらしい。
バタバタと響く人の足音で目を覚ますと、両手に大きな紙袋を下げたコート姿の母が私の横に仁王立ちして、けわしい表情で私を見下ろしていた。
時刻は、もうすぐ正午になるところだった。

七時の高速バスで長崎市までやってきたという母は、そのままテキパキと部屋の片づけをし、洗濯をし、大学に電話をして説明し、診断書があれば提出して明日予定されている追試を延期することができることを確かめた。
 外来受付をしてくれる医療機関を探してタクシーで診察に同行してくれた。熱は朝より上がっていて、インフルエンザの診断が出たので、診断書を持って学生課に行った。
もう一度アパートに戻ると私を置いて買い物に行ってくると言い出した。
母にとってここは知らない街なのに、スーパーの場所を簡単に教えると風のように飛んでいき、坂道を大きなビニール二つを力強く掲げ持って戻ってきた。大量の食材を次々に取り出して冷蔵庫に収めると、台所に立っておかず作りを始めた。
夜になると私の熱は40℃近くに上がったが、隣に布団を敷き、痛みで寝付けない私のそばにいてくれた。

翌朝、来たときと同じせわしなさで元気に帰っていった母。
私はそれから数日間寝込んだあと、延期になった試験を受け、無事に短大を卒業した。

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二十年経った今でも、「ランタンフェスティバル」もしくは「インフルエンザ」のキーワードをきっかけに、この日のことを母が思い出し話題にすることがよくある。
「あんたに呼びつけられた」などと恩着せがましく言うので少々鬱陶しく、あまり覚えていないフリをして話題を打ち切ることもある。

だけど私も本当は覚えている。あの日の本当に心強かった母の姿を。
今の私はインフルエンザの対応はひとりでできるし、たぶん電話はしないと思うから、ああして母に頼った思い出があることは嬉しい。
こうして冬になると心の引き出しからひょいと出てきて懐かしい気持ちにさせてくれる。

※インフルエンザの隔離などについては二十年前のことですので現代の常識とは異なります。




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