見出し画像

泣かないで、といえなくて

「涼子、が、だけが、悪い、わけじゃない、って心から言うこと、かな」

考えながら千紘は、言葉を選び慎重に発言する。
「まだそれは、できない?」
三年生に進級してからクラスが別れた千紘を、私は午後の授業中にこの特別教室に呼び出した。二人でこんなふうに話すのは、久しぶりだった。先に来ていた千紘は暖かい春の風に身をさらすように窓枠に座っていた。気持ちよさそうに伸びをすると、ミチル、とにっこり笑って私を迎えてくれた。

「できない、よ、ミチル。」
「涼子がいなかったら、光介がもうちょっとこっちのことを引きずったかな、なんて意地汚いこと考えるよ。」
照れくさそうに言葉を切り、小さく舌を出してから千紘は続けた。
「あっさり忘れてくれすぎだよね光介。私まだ、こんななのにね」

ひと月以上経つ。千紘が、別れた光介に新しい彼女ができたことを知ったあの日から、私は何も話そうとしない千紘を心配するだけの春休みを過ごした。もう待てないし、我慢できない。チッチ、話を聞かせてよ。昼休みに、勇んで彼女の教室をたずねてみた。彼女は自席にいて、午後の授業をさぼって特別教室で話をしようと提案してみると素直に応じた。

クラスメイトの噂話を耳にした千紘に頼まれて確認し、光介と涼子の交際開始が事実であることを告げる役回りになった私が、あの日に見た、彼女の表情は少女のころから何度か見たことのあるものだった。千紘は受け止めきれない大きなことが起こったときに、言い表せないようなさびしい表情をするのだ。いまの表情は、あの日とまったく同じではないけれど、それでもさびしさは全然、隠せていなかった。

涼子が悪いわけじゃないんだよ。それを心から理解したいの。
ようやく少しだけできてきた、生傷の上の薄皮を破ってしまわないように、つとめて冷静にしているようだった。
「涼子が悪いわけじゃない、かあ」
私は不満げにうなってしまう。
「いや、でもそれはそうだよ。恋を否定しちゃいけない」
「えー私、涼子のせいでチッチは!なんて思っちゃうけどなあ」
あはは、と千紘はとても楽しそうに笑った。

「涼子のことは好きじゃない。ああいう子、苦手なの。でもね、彼女の恋は嫌いじゃない。やっぱり、恋をするのはいいことだよ、私が苦しいのは涼子のせいじゃない」

「涼子の浮かれ顔じゃない。光介だよ。一緒に笑う、光介が私を傷めつけるのよ。あの子の告白を受け入れる選択をした、光介が。そう区別しとかないと、自分がきついから。憎むもの、増やしたくないのよ」

「チッチ。笑顔と傷が合ってないわよ」
傷つき果てているくせに、憎むものを増やしたくないのだと強がる親友の姿を見るのは辛かった。光介と涼子をうらんで泣き叫んでくれるほうがよかった。

その方が、私にも一緒にしてやれることがあると思うのだ。千紘が元気になるためなら、一瞬でも心が楽になれるのなら、二人の悪口など、どれだけでも言えるのに。何を我慢することがあるの、千紘の肩を揺さぶりたいくらいだった。
「強がっちゃって」
ぎくりとしたように目をみはり、千紘は大きくため息をついた。
私は千紘が、こんなに必死に自分の感情を押し殺している顔を見るのが辛かった。
「涼子のバカヤロー、って思う?」思っててもいいんだよ、チッチ。
「教えないよ」
ぷいと横を向いた千紘の唇は震えていた。

もうすぐ授業終わるけど、帰り私と一緒に帰る?と聞くと千紘はとても困った顔をした。いや、悪いけど鞄持ってきてるんだ。そのまま帰ろうと思って。春休みが終り三年生に進級してから彼女は、自分を守るためだと言って登下校の時間をずらすようになった。光介が彼女の涼子と一緒に登下校する姿を見るのが辛いのだということは、言われなくてもわかった。

いつまでそんなことやってるのよ、その分チッチに遅刻や早退の印がつくんでしょ、私たち受験生なんだよ。自分に不利になることしちゃ、だめだよ。責める口調にならないように気を付けながら言ってみたけれど、千紘はますます困った顔になり、今はこうするしかないんだ、と言いおいて出て行った。

私はひとり残された特別教室で、千紘のために涼子を憎んでもいいような気がした。千紘がしないなら私がしてやる、なんて思ったら本当に腹が立ってきて、その辺にある机の天板を両手でバン、と叩いてみた。意外に大きな音がして誰もいない教室に響いた。

失恋して苦しんでいる親友にしてあげられることが何もないことがとてもさびしかった。それでも私は、千紘を傷つけた光介と涼子のことを許さないでおこうとひとりで決心した。こんなことをしても千紘は喜ばないけれど、私だけはあいつらの恋なんか認めるもんか、と涙が出た。千紘が私の前で泣かないから、あれから一番言いたい、チッチ、泣かないでという言葉が言えず、ひとりで泣いている姿を思うことしかできないことがたまらなく悲しかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?