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すべて受け流す世界は、限りなく澄んだ深海のよう

円形脱毛症ができたのは初めてではない。痛みがないことと分かりにくい後頭部の位置から、気づくのに時間がかかる場合もある。今回も偶然娘が見つけた。毛のない部分が冷たい風にチクチク痛むような気がした。

一度目は一年くらい前だったと思う。たしか同じ雪解けの季節だった。年度末で目も眩むほどの忙しさに、張りつめていた気持ちが脆く崩れそうになっていた。猫の手も借りたいと、近所の野良猫に羨望の目を向けた。

僕の精神状態は見えないものに監視されているような、得体の知れない恐怖と想像に押し潰されそうになっていた。世界中がパンデミックになり、本当に見えない恐怖と戦うことになるとは、まだ誰も知る由もなかった。

美容師の妻がいつものように玄関先で僕の髪をカットしていた時だった。

「ん… ちょっと… 抜けてる、ね」

歯切れの悪い不快さを残しながら、お茶を濁すようにハサミが止まる。僕は鏡に目を向けたまま首を左側に傾けた。右耳のキワの部分に半円の禿げがあるのを確認した。事実を受け入れるのにちょっと時間はかかったが、「はぁっ」と鏡の前で落胆するように項垂れた。誰が悪いわけでもないのに、僕は理不尽な怒りをどこにぶつけていいのか分からなかった。

病院は昔から苦手だった。時間がかかるのと病名を知らされるのが怖い、そう、正真正銘のビビりだ。だから体調不良になると医学的根拠に基づいた情報をインターネットで探す癖がある。スマホで「円形脱毛症 原因」と検索すると、ストレスの他にアレルギーや膠原病など自己免疫の低下が原因である場合が多いことを知る。終いには脳腫瘍じゃないかと、頭のなかの思考回路がビリビリと音を立ててショートしそうになった。

「大丈夫、また生えてくるよ」

妻は僕を気遣いながら軽い口調で呟いた。禿げている部分をうまく見えないように、自然な感じで髪をカットしてくれた。美容師ってただスタイルを求めるだけではなく、髪や頭皮の悩みを解決してくれる有難い存在なんだと妻が誇らしく見えた。

二度目は娘が肩揉みをしていた時だった。

「パパ、髪の毛ないよ」
「ないってどういうこと?」
「ちょっと見せて」

そう言いながら毛繕いする猿のように、後頭部の髪の毛を両手で掻きわけた。娘の容赦ない言葉に地獄へ突き落とされた気分になり、温泉に浸かる極楽の猿とはほど遠い鬼のようなやつだど呆れた。

禿げた部分を手鏡で眺めながら、ふと、三十年以上も前の記憶が蘇った。

小学生のとき、同じクラスにジャイアンのようなガキ大将がいた。厳つい体に腕っ節も強い。ちょっと近寄り難い存在の彼は、野球部でドカベンのようにセンス抜群なやつだ。

そんな彼が、いつしかクラスで仲間外れされることがあった。原因は忘れてしまったけど、自己中心的な言動でトラブルばかり起こしてきたからではないかと思う。だけど、どれだけ強がっても所詮子ども。繊細で硝子細工のように傷ついた心を取り戻すのには時間がかかった。

野球部のチームメイトだった僕は、彼の哀しげな顔を見て憐れんだ。なんか声をかけてやりたい。でもそのとき彼を救う言葉は見つからず喉がつまった。なにも言えない自分に腹が立った。見て見ぬ振りをする傍観者と一緒じゃないか、そう思った。

そのときから彼の頭には10円ほどの大きさの禿げができた。ストレスからくるものだとすぐに分かった。いたたまれない気持ちになった僕は勇気を振り絞って彼に声をかけた。

「大丈夫……」

すると彼は思いもよらぬ言葉で返してきた。

「大丈夫だよ、受け流すことにする。」

うつむき加減で哀しげな表情だけは分かったけど、“受け流す”という言葉に「はっ」とした。

彼は、いま起こっているすべてを受け入れたのだ。そして良くも悪くも“流す”ことにした。僕には到底できないと思った。まだ小学生だというのに、無視されている状況をすんなりと受け入れることができるだろうか?僕だったら悩んで鬱屈して学校に行きたくなくなるのではないかと思った。

それから僕たちは周りを気にせず、いつものように接した。放課後のグラウンドでは暗くなるまで白球を追いかけ汗を流した。

いま思えば、彼がすべて受け入れた世界は、深海のような暗闇で圧迫された息苦しさと失望を感じていたと思う。けれども、受け流すことによって、限りなく広い海の澄んだ世界と、自由を享受した希望の光だ。

目に見えるものと見えないものが混在した世界では、見えるものにフォーカスしがちだけど、潜在意識の領域で心のノイズを解き放てば、禿げも愛おしく思える。


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