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Starve(餓死する)についての疑問と仮説part1

「Starve」がたどった特殊化


現代で"飢えている""餓死する"を意味する「starve」は、かつては「steorfan」として"死ぬ"を表していたという。それが途中からdeyja "die(=死ぬ)"を使用し始めたことで特定の死を表すようになった。

もともと「steorfan」も死ぬと直接表す言葉ではなく"硬くなる"という意味だったようだ。つまり、古英語時代に生物の死を端的に示す動詞はなかったのだ。形容詞・名詞ではすでに死を示す言葉があったのにも関わらず、だ。

これらを知った時、
①なぜ様々な死因の中から"餓死"が選ばれたのか。
②「死ぬ」を婉曲的に表す真意はなにか。
と言った疑問が生まれるのは自然なことだろう。

このところ、この疑問が私の頭に居座っている。
①に関しては、特殊化された当時の人々にとって餓死が溺死や圧死よりも身近だったから?と一旦はそれらしい結論を出したが、それも直感であるため疑問が止むことはない。


「尊死」が持つ前提条件とは

そんな時、幼なじみからあるLINEがきた。
「さすがに尊死😇」と。
アイドル好きの彼女はよくかっこいい男性の写真やら動画やらを私に送ってくれる。今回もそうらしい。いつもだったらすぐ画像を確認するのに、今は「尊死」のワードがどうしても気になる。
とりあえずスタンプを送信して、さっそく調べた。

尊死(とおとし)とは、
「あまりの素晴らしさによって天にも昇りそうになること」を意味し、推しや好きな作品に対して使うネットスラングのことである。
素晴らしさの度合いが死ぬほど最上級であること、と言っても差し支えないはずだ。

同様の意味で「キュン死」「爆死」さらに"やばい"を表すために「死ぬ」とだけ言うパターンもある。

慣れてしまっては特に何も思わないが、
よく考えるとこれらの言葉は、そこそこ不謹慎でまぁまぁ縁起が悪い。間違ってもお見舞いの場では口にすべきでない。
しかし、それは逆に言うと今の彼女の世界が平和であることの証明にもなるだろう。
病院では使用がはばかられるように、彼女の世界に死が溢れていたら、喜びを表すために死を用いるのは非常識である。おそらく死と対義語を表す「生」を強調して尊さのおかげで「生き返る」的なワードの方を積極的に選ぶのではないだろうか。また死を最上級の意味に抽象化するには、まだまだ生々しすぎるという問題もある。
ある意味平和の象徴とでも言うべきだろうか。

私はこれを「尊死」が持つ前提条件:
A)言葉の使用が許容される程度に死と距離がある

と置いてみる。

距離など幅のあるものを与えられると、人はボリュームをいじってみたくなるものである。
私は極端に死のと距離を縮めてみることにした。

例えがあまり思い浮かばないが、スーパーで並んでいる豚肉や切り身魚にあえて死んだ生物と言わないこととかだろうか。(※罪悪感を助長し食べづらいからという理由もある)

言いたいのは、あまりに距離が近く、自明なことは意識されないから言葉にもされにくいのでは?ということだ。

「逆説の日本史」にて井沢元彦氏が文献だけを根拠にすると、文字にする必要のないとされていたその時代の人々にとって自明の生活観・宗教観が失われる的なことを言ってたような気がする。

それはいいとして、
これは他の言葉の成り立ちにも言えるはずだ。

そして私はこれを「尊死」が持つ前提条件:
B)存在を認識できる程度には死と距離が遠い
と置くことにした。

というか、前提条件Aが持つさらなる前提といってもいいが今回はあえて明示しておく。

じゃあstarveは?


ここまで「尊死」から死にまつわる前提条件
A)言葉の使用が許容される程度に死と距離がある
B)存在を認識できる程度には死と距離が遠い

を作ってみたが、これからstarveの特殊化について何か予想できることはないだろうか?


次の記事に続く。
※これ以降の内容について、まだ自分の頭の中で文章化するほど整理出来ていないため。
※ここまで一気に書き上げたので、分かりずらい場合はご指摘ください。
※この疑問がすでに解決済みだったらそちらも教えていただきたいです。



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