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ペリーにディスられ混浴を禁止〜明治時代の銭湯〜

これまでは、江戸時代までの銭湯の歴史を見てきましたが、ここからは明治以降の銭湯の歴史を紐解いていきます。

外国人から見た日本の銭湯

明治になり多くの外国人が来訪するようになりました。日本の銭湯文化を見た外国人は誰もが驚いたそうです。
オランダ人医師のポムペは、「日本に於ける5年間」で銭湯文化に対し好意的な記述をしてます。ただ、湯の温度が高すぎることと入浴時間が長すぎることについては、体に悪いと述べており、風呂から上がった日本人を「ゆでた海老」と表現しました。
幕府の海軍教官として来日したオランダ人カッテンダイクは、「長崎海軍伝習所の日々」にて、入浴を楽しむ日本人の姿を記録しています。

アメリカ文化人類学者こルース・ベネディクトも「菊と刀」で、銭湯文化を世界でも類例のない「芸術」として賞賛しています。
一方、未だに混浴が残っているのを見たペリーは、「日本遠征記」で道徳心を疑うと記しています。
幕府はこうした批判を重く受け止め、本格的に混浴廃止に乗り出しました。
まずは、外国人居留地に指定された築地明石町あたりで、混浴禁止し、浴室と二階に暖簾、すだれ、目隠し板などを取り付けるよう命じました。
1869年、東京府は「東京府内男女入れ込み湯厳禁」を命じますが、一度では改まらず、繰り返し禁令を出しました。

改良風呂の登場

明治10年(1877年)、鶴沢紋左衛門が東京の神田区連雀町(現在の神田淡路町あたり)に、新しい形式の銭湯を作りました。
現代の銭湯に近いもので、石榴口が取り払われ、湯船と洗い場が同じ空間になり、明るく開放的になりました。石榴口の代わりに、湯気抜きの天井窓がつけられました。この形式を、「改良風呂」「温泉式風呂」と呼びます。

明治の女湯(「銭湯」五姓田義松)

現在の銭湯との違いは、脱衣所と洗い場に仕切りがなかったことと、タイルではなく全て木張りだったことです。
よく温泉で手ぬぐいを頭に載せる光景が見られますよね?これは、改良風呂がきっかけだそうです。石榴口の中では湯気が充満して頭まで暖かかったのですが、改良風呂で頭が寒いと感じた、特に髪のうすい老人が手ぬぐいを頭に載せました。これがその後も、湯船での決まりごととなり、宣伝ポスターにもよく使われるようになったそうです。
東京府は、混浴を禁止し、改良風呂を全面的に広げる動きを行い、明治12年(1879年)には「湯屋取締規制」で再度混浴を禁止、明治18年(1885年)には期限付きで石榴口の廃止と改造を明治ました。銭湯の取り締まりは、昭和20年(1945年)まで、警察によって行われました。

福沢諭吉が経営した銭湯

福沢諭吉は、慶應義塾の向かいに銭湯を経営していました。直接の営業ではなく、銭湯を営業する人に家屋を貸していた、銭湯の大家さんでした。
福沢諭吉は、銭湯経営を学生の進路として勧めることも会ったそうです。
自著「私権論」では、「銭湯では上下関係がなく皆平等だ」と述べています。

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