地球のチャクラを開ける
地球のハイハートチャクラ
【地球の胸腺を解放する】
アポロのレイラインと呼ばれるレイラインは、イスラエルのカルメル山からキプロス島、ギリシャ、イタリア、フランスを通って、フランスのモンサンミッシェルとイギリスのセント・マイケルズ・マウントを通り、アイルランドまで続いている。このレイラインを遠隔で開けてみようと思ったのは、これがヨーロッパの征服支配のカギになっているんじゃないかと思ったからだった。
今、世界の支配の中心といったら、何と言ってもシティ・オブ・ロンドンだ。これはロンドンの旧市街で、ハザール・ユダヤ系の金融資本家たちの拠点になっている。ここを支配しているのはごく少数の血族で、大英帝国の時代と同じように、ここから世界中を支配しようとしているのだという話がある。
ところで、このロンドンの旧市街というのは、もともとローマ帝国の都市だった場所だった。それ以前に先住民の都市のようなものがあったわけでもない。当時イギリスにはケルト民族が住んでいたのだけれど、ローマ帝国はこのケルト民族を支配しようとして、その場所に軍の駐屯地を築いたのだ。それがロンドンという街の起源だった。
してみると、ロンドンという街は、もともと支配のために作られた街なのだ。ロンドンを拠点にして、ローマ軍はイギリスのケルト民族を征服していった。ケルトの森や聖地を破壊して、そこにキリスト教の教会を建て、人々を改宗させて支配したのだ。大天使ミカエルは、悪魔である龍を退治したいうことになっているのだけれど、それで、ケルトの聖地のあとには聖ミカエルを祀る教会がよく作られることになった。ケルトの龍を抑える力としてだ。
アポロのレイラインは、陽のエネルギー、男性性のエネルギーを繋いでいるレイラインで、これがギリシャ・ローマではアポロ、キリスト教では大天使ミカエルと呼ばれたのだ。若い男性的な力で、地上で何かを実現していく力、世界を作り出していく力だと言える。こうした力を封じ込めてしまえば、人々は支配権力から自由を守る力、支配を覆す力が持てなくなる。それで、アポロのレイライン上には、そういう封じ込めがしてある場所がいくつも並んでいるということになる。
ローマ帝国がこうした一極化支配の始まりだった。キリスト教を政治支配の道具に作り変え、民族のもともとの聖地を破壊して、彼らのキリスト教につけ替えることで、精神的にも隷属させるということを始めたのは、ローマ帝国だったのだ。
でも、何故ローマ帝国はあれほどに支配欲に取り憑かれていたのだろう? 調べてみると、ローマ帝国の首都であったローマは、建国当初から権謀術数や残虐さに満ちていたことがわかる。そもそもローマを建国したというロムスとレムスは、暗殺を逃れて森に捨てられ、狼に育てられたという兄弟だった。そこにはすでに、外敵から命を守るために、極度のことをしなければならないという感覚がある。
そのことを考えると、ローマが何故、まわりの土地、まわりの民族をすべて完全に支配してしまわなければならなかったのかも、見えてくる。彼らには、まわりの人間が油断も隙もない恐ろしい敵に思えるわけなのだ。一体いつ逆襲されて、残虐な殺され方をしないともかぎらないという恐れにつねにつきまとわれている。だから、相手から抵抗する力を永続的に奪ってしまうまで支配しないと、安心できなかったのではないかという気がする。
しかし、自分が相手にすることは、結局のところ自分が受け取るものなのだ。私たちの意識が世界を作っているのだから、敵にやられることを恐れて絶えず戦っていたら、敵が襲ってくるという現実をつねに引き寄せることになる。実際、残虐な支配のし方をしたりしたら、いつか逆襲されることになるわけだ。それで、ローマはいつ誰に陥れられるかわからないような状態で、暗殺やら虐殺やらが絶えることがなかった。
ローマは石灰岩でできている土地だけれど、実は石灰というのは、この外敵の脅威にさらされるとか、外敵から身を守るというテーマを持っている。石灰岩は、もともと海底だったところで、海の魚の骨や甲殻類、貝類の殻が蓄積して、カルシウム分の多い地層になっていたところが、岩になり、隆起したのが石灰岩層だ。だから、岩といっても、動物からできている岩だ。そして、骨や甲殻、貝殻といったものは、生き物を外敵から守るためにある。傷つきやすい身を石灰の層で覆って、外敵から守るというのが甲殻であり骨なのだ。そして、石灰岩層でできている土地には、どこかしらこうした外敵から身を守るというテーマがある。
それで、このローマの封印を解くカギになるものとして、イタリアを通るレイラインを探していたときに、アポロのレイラインというのがあるのを発見した。そして、その起点になっているイスラエルのカルメル山を見ると、これが石灰岩だ。ここは洞窟がたくさんあって、犯罪者の巣窟みたいになっていたこともあるというのだけれど、ユダヤ神秘主義のエッセネ派が拠点にしていた場所だったのだそうだ。
エッセネ派といったら、ナザレのイエスの教えはエッセネ派から来ているという説もある。ナザレのイエスは神秘主義的な力、あるいはシャーマニックな力を使うことを知っていたらしいことは、福音書からも読み取ることができる。ハワイのホオポノポノやチベット密教なども、実は世界に散っていったエッセネ派が教えを守るために、隔絶された場所へ行ったのではないかという説もある。そして、ナザレのイエスが教えていたことこそは、甲羅で身を包まなくても、内なる神としっかり繋がってさえいれば、絶対に守られ導かれる、ということだった。
カルメル山のエネルギーを感じ取ってみると、まさしくそのナザレのイエスの教えた力がそこにあるように思えた。それはまるで、貝類や甲殻類のように、硬い殻で身を包んでいなければ安心して生きられないと思い込んでいたのが、自分は脊椎動物なのだということを思い出したといった風だった。私たち脊椎動物は、殻で身を守るのではない。骨が私たちを守ってくれるのだ。脊椎がしっかりと伸びて、上は天と、下は大地と繋がっていたら、私たちは何が起こっても守られ導かれていく。ナザレのイエスが教えたことは、まさしくそのことだった。私たちは、本当は鎧兜や剣で身を守らなくても、戦う必要さえなく、守られていくのだ。
この力を解放すれば、ローマ帝国の呪いは解けるのかもしれない。陥れ合い、殺し合うような世の中でも、この力を思い出しさえすれば、私たちは戦いや支配のない世界に移行していけるのかもしれない。
それで、カルメル山のエネルギーを皆で受け取って解放し、その力をレイラインに沿って、イタリア、フランス、イギリス、アイルランドまで送るつもりだった。すると、アポロのレイラインの図を見たMattaka Bon さんが、これはひょっとして等角航路のように地球全体を螺旋状に流れているラインの一部ではないのかと言い出した。
螺旋状といったら、レイラインというのは、実はつねに螺旋状だ。それはエネルギーの流れるラインなのだけれど、エネルギーというものは電流と同じように、陰陽の極があって、それがぐるぐる螺旋状に回転するように流れている。だから、直線のようでも、厳密には螺旋状の流れが2本交差し合いながら続いている。もし、地球の南北の軸上をエネルギーのラインが流れているとしたら、表面から見たら、螺旋状のラインになっているはずだ。
もしそうだとすると、アポロのレイラインは、地球の南北の軸をなすエネルギーのラインの一部だということになる。すべての生命体には、トーラス状のエネルギーの磁場があり、私たち人類の場合は、トーラスの真ん中の軸の部分が、脊椎が通るところだということになる。7つのチャクラが並んでいるのも、そのトーラスの中心のところだ。地球もまた、同じようなトーラス状の磁場があるのだと言われている。それならば、この地球の南北の軸は、私たちの脊椎同様に、地球のエネルギーのセンターが並んでいる軸なのかもしれない。
そう考えると、イスラエルのカルメル山のエネルギーが脊椎のエネルギーだというのが納得できる。これは地球の脊椎なのだ。その力が封じ込められてしまったとき、人は自分を守る力を忘れてしまい、外敵を恐れて、戦うモードになってしまうのかもしれない。
それで、カルメル山のエネルギーを使って、この地球の南北軸を繋ぐ螺旋状のラインを解放することにした。それは、地球に巻きついている金色の龍のように思えた。それで、その龍を解き放つことにしたのだ。
ところで、やってみると、どうもヨーロッパがある北半球のあたりが封じ込められているようで、重い感じがする。流れていかないで、詰まっている感じなのだ。それが、胸のあたりから頭の真ん中の辺が重い感覚で感じられる。それで、ヨーロッパのカトリック教会の十字架を引っこ抜いてみたり、チベットのカイラス山を開けてみたり、それぞれにいろいろやっていたのだけれど、ハートと喉の間のあたりが詰まっているようだという。
ハートと喉の間あたりには、胸腺があって、これは免疫力の重要なポイントだ。そして、胸腺というのは、自分を愛する力と関係がある場所なのだそうだ。免疫力と自分を愛すること。まさにこれこそは、封印されていたものだ。ローマ・カトリックは、十字架によって愛を自己犠牲につけ替えて、自分を愛する力を封じ込めてしまったのだとも言える。
それで、まずはそれぞれに自分の胸腺を緩めて解放してみることにした。そして、どんなエネルギーなのかを感じ取ってもらい、その力を地球に巻きついている金の龍に送って、龍の胸腺を解放しようということになった。
胸腺というのは盲点だった。頭とハートの間にあってそれを繋いでいるものとしては、喉のチャクラのことばかり考えていた。しかし、封じ込められていたのはまさしく胸腺だ。自分を愛することができなくなり、自分を守ることができなくなるのは、頭と心が切り離されているときなのだ。それで調べてみたら、胸腺のところには8つ目のチャクラがあるという。英語でhigher heart chakra、ハイハートだ。
それぞれに胸腺を解放してエネルギーを感じてもらうと、皆の顔が落ち着いて、自分としっかり繋がれているモードになった。そして、そのエネルギーを地球の金の龍に送ってみると、それまで封印でガチガチになっていたのが、一気に力を取り戻して、刺さっていた棘がいっぺんに吹っ飛んでしまうかのようだった。それで地球の龍は、エネルギーが全体に流れ始めて、生き生きとしてきたようだ。
免疫力さえちゃんとしていれば、何があっても私たちの身体は修復して、元に戻してしまう力がある。たとえ異物が刺さっても、それを押し出してしまう力がある。その力のポイントこそが、胸腺のチャクラだったのだ。それが封じ込められていたのが、西ヨーロッパだった。自己免疫力を信じて身体を治す術を真っ先に抑圧したのも、西ヨーロッパだ。薬草を使う人たちを魔女だといって、火あぶりにしてしまった。そして今も、製薬会社が利益を上げるために、人が免疫力を信じないように情報を操作している。
これは、もはや個々人の問題というより、この世界全体の問題だ。だから、この状態から世界を解放するには、地球全体の胸腺を解放してしまうしかないのだろう。どうやら胸腺のチャクラが封じ込めの要だったようだ。そこを開いたら、あとは自然にエネルギーが通っていくように思えた。世界も、今ようやく古い殻を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わるときが来たのかもしれない。硬くなった殻を脱ぎ捨てたら、その下には命の力に満ちた柔軟な皮膚がもうできていて、どんな封じ込めももう跳ね飛ばしてしまえる力があるのかもしれない。
***
2022年12月29日
【金の龍は解き放たれた ー 音楽と詩の朗読】
アポロのレイラインを解放する封印解きセッションのときに解放されたハイハートのエネルギーを、おさむさんが即興演奏で表現してくれました。そこから出てきた言葉を、あいこさんが朗読してくれました。
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【金の龍は解き放たれた】
自分を愛するのは、こんなに簡単なことだった。
それが何故あんなにも、難しかったのか?
いつも自分には何かが足りないと思い、
何かを変えなければいけないと思い、
単純に自分を認めることなど、許してはこなかった
傷ついた心。愛されない寂しさ。
すべてを押し隠して、幸せそうに見せていた。
胸の真ん中のハイハートが熱い
どれだけ我慢してきたのか
どれだけの思いを隠してきたのか
そのすべてが今、解き放たれる
このままでありのままで、それでよかった
私もあなたも 誰もかも
何故あんなに型にはめようとしていたのか
そのことが今わかる
すべては必要のないことだったことが
地球の巨大なドラゴン
金色に輝く龍が
封印を解かれて大きく伸びをする
しなやかな身体が、刺さっていたトゲを吹き飛ばす
本当は、誰もがこの力を持っていた
心に刺さるトゲを跳ね飛ばす力
何故刺されたままになっていたのだろう?
本当はこの力があったのに
金色に輝くドラゴン
地球の巨大な龍が
解き放たれて大きくなる
こんなにもしなやかな強靭な皮膚を持っていた
地球のドラゴンのハイハートが熱い
大きな杭が打ち込まれていた胸は、解き放たれ
ドラゴンは大きく伸びをする
自分を愛するのは、こんなにも簡単だった
本当は誰もが簡単にできることだった
呼吸をするのがこんなにも楽だったなんて
この大気が、私を生かしてくれる
その気を胸いっぱいに吸う
私の中の金色のドラゴンが、大きく伸びをする
自分を愛するのは、こんなにも簡単だった
誰もが当たり前にできるようなことだった
(詩 佐藤シューちひろ)
【ハイハートの封印が解けるとき】
胸腺のところにあるチャクラ、ハイハート・チャクラと呼ばれるチャクラは、まさに盲点だったと思う。頭と心を切り離すことで、人は自分を守ることができなくなり、容易に支配されてしまう状態になる。頭と心の間といったら、喉のチャクラだとばかり思っていた。ところで、ハイハート・チャクラこそが、頭と心を繋いでいる重要なセンターだったのだ。
虐待されたり、愛されない経験をしたりして、トラウマを抱えている人は、生き延びるために誰かの視線に合わせて生きるモードになってしまっていることが多い。そういう人たちは、もちろん他のチャクラ、ハートチャクラやルートチャクラ、第二チャクラ、喉のチャクラなども開いていなかったりするのだけれど、何よりもハイハート・チャクラが閉じている。というより、そこに杭でも入っていて、心と頭が繋がらないようになっているかのように思える。
その場合、トラウマを受けた幼児期の記憶に戻って、過去の記憶を癒し、過去を書き換えるとか、インナーチャイルドを癒すとか、過去生に戻っていって、過去生の傷を癒してくるとか、いろいろなメソッドを使うことが考えられる。だけど、それほどに深いトラウマを抱えている人でも、ハイハートを開けただけで、問題が解決してしまったりするのだ。
ハイハートのところには、胸腺という、免疫システムにとって重要な分泌腺がある。免疫システムとは、自分を守る力であり、たとえ障害を得ても、自分で修復してしまう力のことだ。私たち人間は、身体的にであれ精神的にであれ、害から自分を守る力があり、自分で元の状態に戻す力がある。その力のセンターこそが、胸腺であり、ハイハート・チャクラだったわけなのだ。
だから、ハイハート・チャクラさえ開けば、深いトラウマも自ずと解けていくというのも、ある意味、当然だったのだろう。私たち人間は、それだけの力を実は持っていた。そして、その力こそが、長い間まるで存在していないかのように封じ込められてきたのだ。
現代医学は、免疫システムというものを最も軽視してきた。それまでの医学は、メソッドはさまざまであるにしても、免疫システムこそが最も重要なものだった。つまるところは、どれも自己治癒力を活性化することによって癒すメソッドだった。ところが現代医学は、免疫システムを使わないで、医薬品によって、人工的に健康な状態を作り出そうという、まったくこれまでになかったメソッドだった。それで、胸腺などは、あるにはあるけれど、あまり重要ではないもののように扱われていた。現代医学は、私たち人間には誰でも、自分で自分を健康にする力があるということを、封じ込めてきたのだ。もともと製薬コンツェルンが作り出した医学なので、製薬を売り上げることを何よりの目的にして発展してきていたから、人が薬なしに自力で癒えるなどということは、一番隠しておきたいことだったのだと思う。
実際、自分を守るためには、ハイハートの感覚に従えばいい。何が自分にとっていいのか、何が自分にとって危険なのかを、私たちはハイハートのあたりでかなり確実に感じ取っている。どうも信頼できないようなものがあると、ハイハートのあたりがモヤモヤと嫌な感じがする。これは信頼できるというものだと、ハイハートのあたりがワクワクしている。そして、こういう感覚というのは、たいていの場合、かなり確実に当たっている。
だから、もし私たちが自分のハイハートの感覚を信頼することができ、それに従うことができていたら、私たちはまず危険に遭うこともなく、病気になることもないのかもしれない。だけど、私たちは多くの場合、自分のハイハートではなく、世間に言われるようなことの方を信じてしまい、それに従ってしまうのだ。頭と心が繋がっていない状態とは、そうしたことだ。自分の感覚を信じることができず、言われたこと、頭で考えたことの方に従ってしまう。
これは、世界全体の問題の根幹とも言えるものだと思う。それで、皆でハイハートを開けるセッションを公開でやることにしたのだ。これは、ただ呼吸法で身体の力を抜いて、ハイハートのところに小さく固まっているようなものが大きくふくれていくようなイメージを作るというだけの、実に簡単なやり方だったのだけれど、効果はすばらしいものだった。こういうワークは、オンラインであっても大勢で一緒にやると、パワフルなエネルギーのフィールドができるので、一人ではあまり深く入れない人でも、楽にできてしまうという利点がある。
それでほとんどの人は、全身が心地よく暖かくなったり、上半身が軽くなって呼吸が楽になったりといった感覚を経験した。とにかく、こんないい気分は初めてだと言っていた人もいた。腰とか足の付け根とか顎など、ぜんぜん関係ないように思えるところの痛みが消えたという人もいた。
私たちの身体も、テンセグリティの構造のように、一つ一つの部分が自律的に動きながら、全体として網の目のようなネットワークを作り、全体としてショックを吸収して、バランスを取っていくようにできているのだと思う。そして、まさにこのテンセグリティ的な力を解放するカギが、ハイハート・チャクラにあったようなのだ。
ハイハートが開くと、頭と心が切り離されていたのが繋がって、自分の芯がしっかりするというか、自分が一つになるというか、そもそも自分というのが何なのかを思い出すというか、そんな感じになる。私たちは、頭で考えているとかハートで感じているとか思っていたけれど、実はハイハートにこそ、自分の中心があって、そこで感じ、考えていたのだと思う。とにかく、ハイハートに自分の中心があると感じられると、本当の自分に出会えるような感覚がある。自分というものが、理屈抜きで納得できるものになる感覚がある。
何人かは、どうもうまく開いたような感じがしないと言っていたので、皆でその人たちにハイハートを開くエネルギーを送ることにした。子供の時に深いトラウマを受けていたりすると、自分を守る力、自分を愛する力を使うことが恐くなってしまうことがある。そうすると、ハイハートを開けようとしても、開くことができなくなってしまうのだ。あるいは、まわりの視線に合わせて生きることがあまりに当たり前になってしまうと、そもそも自分が何を望んでいるのかもわからなくなってしまうこともある。
それで、皆でその人たちのハイハートが開くイメージを作ることにしたのだけれど、そのときに、テンセグリティの玉のイメージをハイハートのところに入れて、そこから身体全体を包むエネルギー・フィールドが出ていて、その全体がまたテンセグリティのように網の目のような構造になっているというのをイメージすることにした。
自分を守る力、自分を愛する力というと、私たちはそんなものを受け取っていいのかとつい遠慮してしまうわけなのだけれど、他人に送るとなると、遠慮も何もなく、じゃんじゃん送れてしまう。意識エネルギーの世界では、与えたものは自分が受け取るもので、これは同時に起こる。だから、誰かにエネルギーを送るといっても、送った人たちもしっかりと満たされることになる。自分では恐くて開けられなかった人たちも、皆が遠慮もなしにじゃんじゃん送ってくるとなると、受け取ってもいいのだと思うことができる。
それで、最初、自分では開けなかった人たちも、今度はハイハートがしっかり開いて、頭と心が繋がり、まったく違うオーラを放ち始めているのを、皆で確認した。それは、送った方にとっても送られた方にとっても、感動的な場面だった。
それから最後に、地球全体のハイハートを開けようということになった。北極から南極へ、螺旋を描いている地球のレイラインを、地球に巻きついている金色の龍のようにイメージして、その龍のハイハートを開けるイメージを皆で作ることにした。そうすると、ヨーロッパのあたりに龍のハイハートがあって、そのあたりのレイラインが封じ込められているのが、まるで杭でも打ち込まれているように見える。それを引き抜くなり、跳ね飛ばすなりしてもらった。
すると、地球全体が光の網の目でおおわれたようなイメージが見えてきた。それは地球を包むトーラス状のエネルギー・フィールドなのだと思う。まさにこれこそは、テンセグリティ構造のように、世界に加えられた歪みを全体として吸収して、バランスを回復していく力、つまり地球の免疫システムなのだと思った。その力が解放されたということなのだろうと。すると、一匹の巨大な龍の姿は消えていて、その代わりに無数の小さな虹色の龍たちが、繋がりあって、地球全体の網の目をなしているようなイメージが見えた。
これは、世界には、たった一つの中心があるわけではないということなのだろう。すべてのものが網の目のように繋がりあって、全体として巨大なテンセグリティのような構造を作っている。世界も宇宙も生き物も、すべてはこうした構造でできていて、それこそが最強の調和を作り出すものなのだ。地球のハイハートを開けたことで、あるいはこの循環する調和の世界を、ついに開くことができたのかもしれないと思った。
2023年1月27日
【テンセグリティの宇宙 ー 音楽と詩の朗読
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM2609-tensegrity-aiko-osamu-chihiro.mp3
https://podcasters.spotify.com/pod/show/aikotoosamu/episodes/ep-e24tb06/a-a9ttab2
音楽 Osamu Fujikawa
詩 佐藤シューちひろ
朗読 Aiko Maru
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【テンセグリティの宇宙】
命とは、振動
揺れ動き、共振する
その共振が、網の目のように伝わっていく
ひとところに加えられた衝撃が
全体に伝わって、散っていく
さざなみのような動きが、広がっていく
そして、元の形を取り戻す
命とは、この振動
この細かなさざなみ
この波がすべてを繋いでいく
強さとは、こんなにも柔らかなものだった
揺れ動く私 揺れ動く細胞
骨が、筋が、すべてが揺れ動く
強さとは この揺れ動く繊細さだった
ひとところに加えられた衝撃は
次第に伝わって、散っていく
さざなみのような動きが、広がっていく
そして、元の形を取り戻す
すべては繋がっている 誰もが繋がっている
押されたら揺れ動く、その繊細さで
すべてがこの大きな全体の一部
網の目のように繋がって、揺れ動く
この揺れ動く力こそが、強さだったなんて
どんな刺激にも揺れ動く
この繊細さこそが、強さだったなんて
命とは、振動
揺れ動き、共振する
その共振が、網の目のように伝わっていく
胸と背中の真ん中にあるハイハートで
私たちは世界の振動を感じ取る
頭でもなく、心臓でもなく
私の中心はここにある
この私の中心が
世界の振動に反応する
その振動が伝わっていく 人から人へ
動物も植物も
生き物も生き物でないものも
すべてに伝わり すべてが反応する
その全体こそは、私たちのこの世界
だから、感じることを恐れないで
恐れることを恐れないで
それはただ、伝わっていくだけだから
この共振が、私たちを繋ぐ
その循環こそが、永遠のバランス
だから、感じることを恐れないで
恐れることを恐れないで
それは伝わって、繋がるだけだから
強さとは、この繊細さ
どんな刺激にも揺れ動く この繊細さ
ゆらゆら揺れて、元の形を取り戻す
強さとは、この柔らかさ
押されたら引っ込む、その弱さ
押されて引っ込んで、元の形に戻っていく
中心なんかなく
ただこの無限に続く繋がりの網の目があるだけ
それが作り出す巨大な全体
それこそが私たちが生きるこの世界
誰も一人じゃない すべて繋がっている
身体のどの部分も すべて繋がっている
巨大な一匹の龍のように、
地球は宇宙を進んでいく
私たちが乗っているのではなく
私たちが操縦しているのでもなく
私たちはその一部
世界は中心のない 命の網の目
そして私たちは見る
銀河の星がきらめくのを
その巨大な輪の中に
私たちの地球があることを
すべては繋がっている
この振動で繋がっている
ハイハートで感じれば
すべてを感じ取る
命とは、この振動
宇宙とは、この振動
地球のハートチャクラ
【聖ミカエルのレイラインとグラストンベリー】
イギリス南部を東西に一直線に通っている聖ミカエルのレイラインと呼ばれるレイラインがある。そこは、コーンウォールのセント・マイケルズ・マウントやグラストンベリー、エイブベリーのストーンサークルなどを通って、ロンドンの北へ抜けていく。
このレイラインの封印を解こうと思ったのは、今、西側諸国による支配の中心になっているのが、ロンドンの旧市街であるシティ・オブ・ロンドンで、ここを解放するには、ローマ帝国以前にこの地に生きていたケルトのエネルギーを解放するしかないんじゃないかと思ったからだった。
ニューヨークの封印は、マンハッタンの岩盤層をなすマンハッタン雲母片岩のエネルギーを解放することで解くことができたので、ロンドンも何かしらもともとあったエネルギーを解放すればいいのではないかと思った。しかし、いくら探しても、ロンドンにはこれといったものが見つからない。そもそもロンドンは、ローマ帝国の都市として作られたもので、それ以前に集落があったわけではなかった。ローマ帝国の都市というのは、つまり外の国を属国支配するためのローマ軍の駐屯地だ。だから、ロンドンという街は、もともと征服支配の拠点としてできた街だったのだ。
ローマ帝国の都市であるロンドンができた頃には、イギリスにはケルト民族が住んでいた。それで、ローマ帝国はケルト民族を征服しようと、ロンドンに街を築いたのだ。ローマ軍にとって、ケルト民族は手強い敵であったらしい。ケルト民族の力を奪おうとして、ケルトの聖地を破壊したり、神聖な森を焼き払ったりしていた。ケルトの聖地にキリスト教会を建てて、その力をローマ帝国の支配権力につけ替えたりもした。
その歴史は、日本で起こった縄文民族と大和朝廷のすさまじい戦いと征服の歴史ととてもよく似ている。ケルトも縄文も母系制社会で、霊的な力を持つ女性が治めているところが多かった。縄文民族が、北海道から九州、さらには太平洋全域にまでおよぶ広大な交流範囲を持っていたのと同様に、ケルト民族の交流圏はヨーロッパ全域におよび、中央集権的ではない、広大なネットワーク社会を持っていたのだ。このケルト民族の力を奪うために、ローマ帝国は聖地をつけ替え、レイラインを封じ込めていた。そのようにして、日本では縄文民族が、ヨーロッパではケルト民族が征服されていき、長い平和の時代は終わることになる。
ところで、聖ミカエルのレイラインは、西へ向かってさらに伸ばしていくと、大西洋の真ん中にあるアゾレス諸島に繋がっている。ここにも聖ミカエルを表すサンミゲル島という島があり、ここは火山とカルデラ湖がたくさんある、パワフルなエネルギーがある島だ。このあたりは、アトランティス大陸があった場所ではないかと言われていて、海底にはアトランティスの遺跡が見つかるという話もある。アゾレス諸島は、あるいはアトランティス大陸の沈まないで残った場所なのかもしれないし、あるいはそのあとに起こった火山活動でできた島なのかもしれない。いずれにしても、聖ミカエルのレイラインは、アゾレス諸島からアトランティスのエネルギーをイギリスに繋いでいるのではないかと言われている。実際、イギリス南部のレイライン上の聖地は、アトランティスのエネルギーを感じさせる場所が多い。
イギリス本土では、このレイラインはかなりきつく封じ込めてあるのだけれど、アゾレス諸島はほとんど封じ込めがないようだ。それで、アゾレス諸島のエネルギーにアクセスして、それを使ってイギリスを通るレイラインを活性化することにした。
サンミゲル島の西部にあるセテ・シタデス山のカルデラ湖の画像から、そのエネルギーにアクセスしてみると、やはりアトランティスのイメージが出てきた。アトランティスの人らしい人物が出てきたり、アトランティスの美しい都市のイメージが出てきたりした。湖の下の方に意識を向けると、過去の人々、祖霊、封じ込められた存在たちなどが見えてくるのだ。アジアには、シャンバラという地下世界の伝説があるのだけれど、このアゾレス諸島にもシャンバラの入り口があるようだと言った人もいた。そこから出てきたアトランティスの人は、どうもシャンバラの人であり、チベットの方の地下とも繋がっているようだと言うのだ。
地下世界があるという神話は、世界のいろいろなところにある。縄文民族は、根の国というものがあって、亡くなった人はそこへ行くのだと言っていた。シャンバラというのも、そういったもののようで、実際に地下に王国があるというような物質的な次元の話ではなくて、意識の世界に存在しているものであるらしい。ケルト民族も縄文民族もそうだけれど、多くの民族は祖霊を信じていて、亡くなった人の魂は消えてなくなってしまうわけではないと考えていた。亡くなった人の魂は、親が子供に対して持つような深い愛情を、地上に生きる人々に対して持っていて、守っているというのだ。沖縄の久高島などでは、今でも祖霊を信じて、その力で人々を守っている神女たちがいるけれど、実際にその力で、戦争に行った家族が奇跡的に生きて帰ってきたりということもあった。縄文人もケルト民族も、そうした力に守られていたから、強かったのだろう。だからこそ、その聖地を破壊することで、何とかその力を奪おうとしたのだと思う。
アトランティスが沈んだときに、大陸とともに沈んだ人たちがたくさんいるけれど、その魂は、その経験から学んだことを、私たちに伝えようとしているのだと思う。文明を自ら破壊し、大陸を沈めてしまうようなことになって、この人たちは、こんなことにならないようにするにはどうすればよかったのかの答えを知っているのかも知れない。過去の地球の魂のすべてが生きていて、その記憶と体験のすべてがある地下世界というものがあるとするならば、そこにはその答えもまたあるのかもしれない。
それで、アゾレス諸島のエネルギーを使って、聖ミカエルのレイラインの真ん中辺にあるグラストンベリーの丘を開けてみることにした。ここはこのレイラインの中心とも言えるパワフルな場所で、地球のハートチャクラだとされている。しかし、ここはとりわけ封じ込めが深くて、何重にも封印されているようだった。ここで多くの人が犠牲になっているし、封じ込めるために残虐なことをあえてしたりもしていたようだ。アゾレス諸島のエネルギーを使っても、簡単には解けないようだったので、地下世界のすべての力、宇宙のすべての力を繋ぐべきだということになった。ここには、地下世界の力が来ないように封じ込めてあるばかりではなく、宇宙からの力も封じ込められているようだった。
この聖ミカエルのレイラインに沿ったあたりには、クロップサークルが多発することでも知られている。クロップサークルというのは、ある日とつぜんに麦畑の中に幾何学模様などができる現象で、宇宙人が作っているのではないかと言われている。実際、そうとでも考えなければ説明できない現象なのだ。クロップサークルの中には、とてもパワフルなエネルギーのフィールドができていて、それはまるで、地球の外の友人たちからの、非常に熱い愛のメッセージのようだ。
ロズウェルで墜落した宇宙船の破片を見たという人は、「私たち(地球人)は孤独ではないんです」と夢見るような目つきで言っていた。宇宙船を目撃したり、宇宙人に遭遇したことが最も多いのは、アメリカ空軍のパイロットなのだそうだけれど、この人たちは、口外しないように言われ、精神病棟に監禁された経験を持つ人も多い。こうした人たちも、やはり同じ目つきで、同じことを言うのだ。「私たちは孤独ではない」と。
これが本当に他の星に住む宇宙人なのか、あるいは何か別なものなのかはわからない。しかし、とにかく私たち地球に生きる人間は、地球の外の存在たちからものすごくパワフルな愛のエネルギーを受け取っているのだ。そして、世界を支配していたい人々は、私たちがこの愛のエネルギーを受け取らないように封じ込めておきたいらしい。
それで、グラストンベリーの丘の上で、自分の心臓を通して、地下世界と宇宙とが繋がって循環しているというイメージを作ってみることにした。心臓とは、生命の脈動を作り出す器官で、その脈動が身体のすみずみまで循環を作り出す。そしてそれこそが、生命活動というものなのだ。レイラインの力が封じ込められた状態とは、血栓ができたり動脈硬化が起きたりして、循環が妨げられているような状態だと言える。だから、地下世界と宇宙をも含めた大きな循環を取り戻し、地下世界と宇宙からの愛を受け取ることを許すことで、このグラストンベリーの地球のハートチャクラを活性化することができるのではないかと思った。
ハートチャクラを活性化するといったら、愛をもっと与えなければいけないのではないかと思うのだけれど、実際には、愛はまず受け取らなければ、与えることができない。愛とは、心臓が作り出す循環と同じなのだ。与えることと受け取ることは、同時に起こるし、同時にしか起きない。愛は受け取らずに与えるべきだという人がよくいるけれど、あれはやろうとすると貧血状態になる。しかし、愛を制限なく受け取ってみると、制限なく与えることも難なくできることがわかる。それは、与えたり受け取ったりするものでさえなく、本来はただ循環することによって世界を満たしているものなのだと思う。
それで、自分の心臓を通して、地下世界のすべての愛を受け取り、宇宙のすべての愛を受け取り、それを循環させていった。血管を通る血液になったつもりで、地下世界のずっと下まで降りていき、それからまた心臓のところまで上がっていって、今度は宇宙のずっと上の方まで行く。そうやって、心臓を通して、地下世界と宇宙を繋いで循環させていったのだ。
これはすばらしい気分だった。皆の顔が、ハートが開いて愛に満ちているような表情になっていた。肌が、血が通っているというか、じわっと汁気があるような感じに変わっていた。これは、循環がよくなると、血色がよくなるのとも似ている。
地球のハートが、まるで生き返ったように大きく脈動し始めているのを感じた。私たちはこれまで、地上のごく狭いところだけで息をして暮らしていたらしい。それが、肺がずっと大きく開いて、大きく呼吸ができるようになったみたいに、地下にも宇宙にも、世界が広がったかのようだ。私たちは長いこと、地下も宇宙も恐ろしいところだと思い込まされて、息を潜めて生きてきたのだ。ところが、地下も宇宙も恐ろしいところではなく、私たち地上に生きている人間を支えて守ってくれる大きな愛があった。これを封じ込められることで、私たちは支配されてしまったのだ。
だけど、この循環を取り戻すことで、息も絶え絶えになっているこの地球は再び息を吹き返すのかもしれない。まだ息を吹き返し始めたばかりで、流れの悪いところもあるようなのだけれど、この循環は徐々に大きくなり、流れは強くなり、安定してくるのだと思う。封印を解いたときは、そのあと何もしなくても、時間が経つごとにエネルギーが強くなり、さらに明るくなっていく。それがもう起こり始めているのを感じた。
2023年1月11日
【アヴァロンの上で ー 音楽と詩の朗読】
聖ミカエルのレイラインの封印解きセッションで解放したグラストンベリーのエネルギーから生まれた音楽&詩の朗読です。
詩の朗読 Aiko Maru
音楽 Osamu Fujikawa
詩 佐藤シューちひろ
【アヴァロンの上で】
この土の下には、地球の記憶が埋まっている
かつて生きていた人々の記憶
この土地がかつて海の底だったとき
今の海底が大きな大陸だったときの記憶が
地球は何度こんなことを繰り返してきたのだろう?
目の前の恐れに駆り立てられて
破壊の力をかき集め
ついに大陸を滅ぼしてしまうようなことを
だけどこの人たちの目の何と美しいことだろう?
この人たちは、ただその土地を愛して、
毎日を生きていただけだった
恐れと欲望にとりつかれた人々を
止めることができなかっただけだった
この人たちは、何を伝えてくれるのだろう?
かつてと同じような危機に瀕しているこの世界に
でも私には見える あの人たちが笑っているのが
「同じことはもう繰り返さないことを
私たちは決めてきた
だから、もう大丈夫
私たちが守っているのだから
地球はその危機を乗り越える」
人間の知恵はかぎられている
だけど私たちには、この過去の記憶がある
何万年何億年の地球の歴史が
地面の下には、地獄なんかない
悪魔も亡者もいない
そこにあるのは、すべての人類の経験と
そこから生まれた叡智
過去のすべての魂たちが
私たちに送る愛
刻印を押すように
麦畑の中に現れる幾何学模様
それは地球の外の友人たちの
愛のメッセージだ
私たちは孤独じゃない
宇宙は愛に満ちている
よその星のことなのに
どうしてこんなに気にかけてくれるの?
「当たり前じゃないの!」と彼らは叫ぶ
「困っている人がいたら、どうして助けないの?
僕たちみんな一緒に生きているんだから
どんな体験も、わけあっているんだから」
地球の外には、悪い宇宙人なんかいない
いろんな姿かたちの人がいるけれど
みんな同じ人間だよ
それぞれの星を愛して
毎日を生きている人間だよ
心を閉ざしている私たちに
あふれるばかりの愛を送っている
どうか気づいて欲しいと
彼らが訴えかけている
「ハートだよ 愛だよ
愛を受け取ることだよ
それが答えだよ」
地面を閉ざし、空を閉ざして
孤独のあまり私たちは死ぬところだった
ハートは再び愛に満ちる
それが地球を循環していく
地球は再び息を吹き返す
ハートだよ 愛だよ
愛を受け取ることだよ
それが答えだよ
沈んだ大陸のあの人たちが
笑いかけている
大丈夫 今度は乗り越える
私たちがそう決めたんだから
あなたたちは孤独じゃない
時空を超えて
私たちがともにいる
地球の鼓動が聞こえる
地球の心臓が再び愛に満ちて
この世界を息づかせる
地球の中も地球の外も
すべては私たちの生きる世界の一部
地球が脈動して
そのすべてが循環する
***
これまでの音楽&詩の朗読シリーズは、こちらですべて視聴できます。
https://studiospoonbali.seesaa.net/article/496874850.html?fbclid=IwAR3Xu9ctdnGG1-3-sCFhZoNsewRUoX6ttKH1DfLnob37-M6th2v7Johoy8k
地球の第2チャクラ
【チチカカ湖 ー 悪が悪でなくなる地点】
グラストンベリーの封じ込めを解いたあとで、地球の第二チャクラであるというボリビアのチチカカ湖のエネルギーを解放しようということになった。チチカカ湖は、アンデス山脈にある湖で、標高が3810メートルというから、富士山よりも高いところに水面があるということになる。シャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」にもチチカカ湖のことが出てきて、湖の中に宇宙船が入っていくのを見たと地元の人々が言っている場面がある。そのあたりは宇宙船のようなものがよく飛んでいるのだそうで、土地の人はそれを当たり前のように見ているのだという。
グラストンベリーのあたりもUFOがよく現れるけれど、チチカカ湖は大西洋をはさんでその反対側にある。チチカカ湖は、太陽神インティが最初に子供を地球に降ろした場所だと言われていて、つまりアダムとイブの話のような、人類創生の場所なのだ。最初の人類が降りてきたという神話は世界のあちこちにあるけれど、それは、アトランティスが沈んだあとで、新しい大陸に降ろされた人たちのことを思わせる。アトランティスが沈んだとき、何人かが宇宙船にすくい上げられて、新しくできた大陸に降ろされたというのだ。こうした記憶を持っている人はけっこういて、封印解きセッションに参加していた人の中にも、アトランティスが沈んだあとで、南米大陸に降ろされた記憶があると言っていた人がいた。
それまで築き上げてきた文明を大陸ごと沈めてしまうという事態になって、生き残って、何もない土地に降ろされた人たちがいたのだ。そういう記憶を持つ人たちは、何故あの事態を防ぐことができなかったのかと強い自責の念を持ち、こんなことはもうやめようと思ったとだいたい同じことを言う。
最初に人類が降ろされた場所だというのが、チチカカ湖の真ん中辺にある太陽の島という島で、この島は地元の言葉ででチチカカ島と呼ばれている。チチカカというのは、ピューマの岩というような意味なのだそうで、実際、その島には聖なる岩がいくつもある。それで、太陽の島の岩の画像から、チチカカ湖のエネルギーにアクセスしてみることにした。
画像からはあまり封じ込めがないように思えたのだけれど、アクセスしてみると、残虐行為が行われた記憶がやっぱり出てきた。中南米は、500年くらい前にスペイン人たちがやってきて、土地の人々を支配し、金を集めさせ、残虐に殺した。それによって、マヤもインカ帝国も滅びていったのだ。ところで、中南米に送られたスペイン人たちは、スペイン国王にとって都合の悪い人たちだったりして、実は厄介払いするために送られていたりもしたのだそうだ。つまり、彼らもまた犠牲者だったのだ。スペイン人に殺されたインカの人たちの魂よりも、殺した方のスペイン人の魂の方が、ずっと重いドロドロした念を持っていた。当時のスペインは、カトリックの封じ込めが強くて、征服戦争を命じたスペイン王家は、第二チャクラだけでなく、ハイハートも頭もすべてガチガチに封じ込められて、大きな十字架が頭に刺さっているように見えた。
スペイン人たちの魂を解放するのは、容易にはできないように思えたので、スペイン人たちに征服される前のチチカカ湖のエネルギーにアクセスして、それを解放することにした。すると今度は、ガイヤのような原初的な女神のイメージが現れた。遮光器土偶にも似た、幅広い体型をした女性で、すべてのものを生み出す母親を思わせる。彼女は異なるものをすべて受け入れて、その子宮の中でハイブリッドを生み出していくような存在で、そのとてつもない受容性こそは、彼女の力なのだ。「みんな私の子供なのよ」と彼女は言っていた。そうやって、地上のすべての人間を母親として愛し守るために、彼女はどんな異なる存在も彼女の子宮の中に受け入れるのだという。
チチカカとはピューマの岩という意味だということだったけれど、マヤではジャガーは女性性の力を表す。マヤ暦の太陽の紋章14番目のイーシュ(白い魔法使い)は、ジャガーの女性性の力であり、それはすべてを受け入れる受容性によって、現実を変えてしまう力なのだ。どんなに受け入れがたいようなことでも、自分の中の抵抗を解いて受け入れたとき、それは攻撃的な力を失ってしまう。そうやって現実を変えるのが、イーシュの魔法だ。
アメリカ大陸は、つねに2つの対極的な文明が出会う場所だった。太平洋にあったレムリアが沈み、大西洋にあったアトランティスが沈んだとき、アメリカ大陸には、その両方の文明から逃れてやってきた人たちがいた。そのときすでに、まったく相容れないほどに異なる2つの文明が出会い統合するということが起こっていた。そして近代になってからは、今度はヨーロッパというまったく異なる方向に発展を遂げていた文明から人がやってきて、悲劇的な出会い方をした。インカ/マヤは、精神的に高度な文明を作り上げてきたけれど、ヨーロッパは高度に物質的な文明を作り上げてきた。それで、まるきり理解し合うことができなかったのだ。どちらも自分たちの文明に誇りを持っていて、相手の文明を低いと思っていた。スペイン人たちは、それでどうしていいかわからなくなり、皆殺しにしてしまったものらしい。
そんな残虐、そんな悲劇も、チチカカ湖のこの巨大な女神はすべて彼女の子宮の中に受け入れて混ぜ合わせてしまうのだ。それは、人間の意識ではとても理解できないような、とてつもないプロセスだ。いったい何のためにこんな犠牲を人類は経験しなければならなかったのだろうか? それは、人間の知覚を超えた次元の、宇宙規模の大きなプロセスなのだ。
そこに、大陸ほどの大きさのある白い人と黒い人が裸で抱き合っているイメージが現れた。どちらが女でどちらが男なのかわからないのだけれど、それは2つの対極的に異なる文明のまぐわいであり婚姻であるらしい。銀河のようなものが回転するイメージも出てきた。2つのエネルギーの流れの交差地点には、こういう風にうずまき状の運動が起こる。うずしおは、2つの海流が出会うところにできるし、レイラインが交差する地点にも、うずしおのような流れができる。2つの対極的なものの出会いは、どちらかがどちらかを消滅させるようなものであるとはかぎらない。うずまき状の運動が作り出されるとき、それは銀河のような、新たな生命、新たな存在の誕生だ。
チチカカ湖は、雌のドラゴンと雄のドラゴンの2つのレイラインが交差する地点でもある。それで、二匹の巨大な龍が絡み合いながら、地球の赤道線上にぐるっとまわっていくイメージを作って、その龍の身体を通して、チチカカ湖の第二チャクラのエネルギーが世界中に通っていくイメージを作ってみることにした。雄の龍は男性性、火の要素、地球の火山の力で、雌の龍は女性性、水の要素で、地球の水の循環の力だ。その2つがたがいに消し合うことなく、絶妙なバランスで循環しているのが、生命というものなのだ。血液が酸素を運び、糖分を燃やして熱に変える。その熱が組織を燃やしてしまうことがないように、水が絶えず循環していく。そうやって、心臓が動いているかぎり、体温が保たれるのが、生命というものだ。
錬金術では、火と水が統合したときに、金ができるというけれど、それは生命そのものだ。スペイン人たちは、金を物質として欲しがって、そのためにとめどのない殺戮を行なったのだけれど、金の本当の価値とは物質的な価値ではなく、この生命の豊かさのエネルギーだったのだと思う。
二匹の龍のイメージを作って、火と水のエネルギーを流してみたら、まるで世界中が熱い血流に潤い、暖められたかのようだった。参加者の顔が、じわっとジューシーな感じになっていて、ぽっと赤くなっていた。何だかトマトみたいだと誰かが言ったのだけれど、チチカカ湖のあたりはまさにトマトの原産地だったのだそうだ。トマトは、熱い地域で太陽の陽を浴びて、ジューシーな実を作る。それはまさに火と水のエネルギーの実だ。
スペイン人による征服の過去のトラウマも、それでどういうわけだか癒やされて消えてしまったようだった。ずっと大きな地球全体のプロセスが見えてくる次元までいったところで、戦い争い合う人間的な次元を超えてしまったようなのだ。そうした犠牲は決してどうでもいいようなことではないのだけれど、でも、地球全体の中でそれを見たとき、そうしたものもまた受け入れている大きな力がある。そのとてつもない受容性の力によって、戦い争う現実も変わってしまうのかもしれない。
当時スペイン人として、王の命令でインディオを殺さなければならなかった記憶を持っている人も、これで何だかさっぱりしたと言っていた。ガイヤのような大きな女神が現れて、「いくらでもまた生んであげるわよ」と言っていたそうだ。地球は何度も文明を自ら破壊してしまうようなことを繰り返してきたのかも知れない。それですべてを失ったあとでも、また新しく生命を生み出し、文明を作り出していくとてつもない力があるのだ。地球の第二チャクラとしてのチチカカ湖のエネルギーは、まさにそれだった。何度でも生み直し、何度でも新しく始めていく、とてつもない生殖力だった。すべての戦いの痛みもその犠牲も、そのすべてを含み込む巨大な愛のエネルギーが存在していることを知ったとき、癒やされて、消えていき、調和と愛のエネルギーに変わっていく。これこそは、マヤの白い魔法使いの魔法の力、ジャガーの女神の、現実を変える魔法の力だ。
***
2023年1月18日
【僕たちが欲しかったのは、金ではなかった ー 音楽と詩の朗読】
地球の第二チャクラであるというチチカカ湖の封印解きをやったときに解放したエネルギーで、Osamu Fujikawa さんが演奏してくれた音楽に、私が詩「僕たちが欲しかったのは、金ではなかった」を書き、それをAiko Maruさんが朗読してくれました。
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM0006-titicaca-take2.mp3
【僕たちが欲しかったのは、金ではなかった】
この島に、最初の人が降りてきたとき
ここにはまだ何もなかった
沈んだ大陸からやってきたあの人たちが、
空からこの島に降りてきたとき
天空の高さのこの湖と
天に届くこの山脈があるだけだった
何度でも、新しく始められる
何度でも、新しく生み直せる
この豊かな水と大地があれば
私たちは再び美しい文明を作り出す
地球は私たちのプレイグラウンド
すべては始めから許されていた
地球はあなたたちのプレイグラウンド
どんなゲームも許されている
水と太陽が作り出す黄金の輝き
ここには平和と愛に生きる人々がいる
何も持たないあの人たちは
何故あんなに賢く、満ち足りているのか
すべてを持っている僕たちは
何故こんなに飢え渇いているのか
僕たちが欲しかったのは、金ではなかった
僕たちが求めていたのは、愛の豊かさ
僕たちが求めていたのは、金ではなかった
女神が差し出していたこの愛を
僕たちは受け取ることができなかった
愛の豊かさが欲しかったのに
僕たちは愛をはねのけて、
金を奪った
この幸せな人たちから
奪った金など、呪いでしかなかったのに
この金はすべてお返しします
私たちの罪をお許し下さい
愛を受け取れなかった私たちを
どうか許して下さい
チチカカの水の女神は
笑っている
最初から許すことなど何もなかったように
「あなたたちは皆、私の子供
あなたたちは皆、愛されている」
黄金色に輝くこの大地
地球はあなたたちのプレイグラウンド
どんなゲームも許されている
すべては許されていた
それなのに私たちは
あの平和な人たちから
金を奪って、何もかも破壊した
奪った金など、呪いでしかなかったのに
奪ったもの何もかもお返しします
どうか私たちの罪をお許し下さい
掘り出した金はすべて
この大地に戻します
この地が再び愛と幸せに満ちるよう
何度でも、新しく始められる
何度でも、新しく生み直せる
この豊かな水と大地があれば
私たちは再び美しい文明を作り出す
-------------------
●今までの全作品はここで聴けます。
https://studiospoonbali.seesaa.net/article/496874850.html
●ポッドキャスト(Anchor, Spotify, Google Podcasts, Amazon Musicなど)をご利用の方は、こちらでも聴けます。
https://anchor.fm/aikotoosamu/
地球のルートチャクラ
【シャスタ山 ー ルートチャクラとシャンバラ世界】
カリフォルニアのシャスタ山は、地球のルートチャクラと言われているのだそうだ。地球の第二チャクラであるというアンデスのチチカカ湖のエネルギーを解放したあとで、今度はシャスタ山の封印を解いてエネルギーを解放しようということになった。
シャスタ山は、富士山と奇妙にも似ているのだという。どちらも火山で形が似ているばかりでなく、UFO雲と呼ばれる独特の形のレンズ雲は、富士山とシャスタ山だけなのだそうだ。シャスタと富士山は両方とも母岩が同じだという話もあり、どちらもレムリアの一部だったのではないかというような説もある。
レムリアといえば、一年前にニュージーランドのタウポ湖のエネルギーを解放したときも、やはりレムリアに繋がる環太平洋のエネルギーと繋がっているというイメージが出てきていた。タウポ湖の水の女神は、瀬織津姫と同じようでもあり、違うようでもあり、いずれにしても同じ源を持つ力なのだろう。タウポ湖は、何かしら太平洋全体に共通する力が存在することを示しているようだった。
セミナーで久高島のクボー御嶽のエネルギーにアクセスしてみたときには、太平洋の下に、シャンバラ世界みたいな地下世界が存在していて、クボー御嶽はそこに繋がっているというイメージが出てきていた。クボー御嶽だけではなく、環太平洋の聖地は皆そこに繋がっていて、大きなネットワークをなしているように思えた。クボー御嶽は、久高島の女性たちが、神女(かみんちゅ)になる儀式を行なう場所だけれど、そこで彼女たちは、この地下世界と自分のルートチャクラを繋ぐのじゃないかという気がした。それによって、彼女たちは人々を守る力を得るのじゃないかと。
沖縄の人たちが言っているニライカナイという神の国は、あるいはこの地下世界なのかもしれない。熊野の花の窟と呼ばれる巨大な磐座は、イザナミがカグツチを生んで黄泉の国に行った場所だとされていて、だから黄泉の入り口だと言われているけれど、この黄泉というのも、実はシャンバラやニライカナイと同じ地下世界のことなのかもしれない。日本で黄泉の国とか根の国とか呼ばれていたものは、もともとは、太平洋の下にあるシャンバラ世界のようなものなのかもしれない。その繋がりが、火の神にホトを焼かれるという残虐なイメージで封じ込められたのが、このイザナミの物語なのかもしれない。
ルートチャクラは、背骨の一番下のところ、尾てい骨の下あたりにあると言われているけれど、中心は実は下丹田にあり、第二チャクラと同じあたりだという説があるのだそうだ。これは、頭頂チャクラとサードアイの関係とも似ている。どちらも松果体のあたりに中心があり、それが上へ開いているのが頭頂チャクラで、前に開いているのがサードアイだ。それについてはいろいろ説があるようだけれど、少なくともそう考えた方が、開きやすい。だとすれば、ルートチャクラも実は第二チャクラのあたりに中心があり、下へ向かっているのがルートチャクラで、横に全方向に広がっているのが第二チャクラだということになるのかもしれない。だから、第二チャクラを封じ込めるとルートチャクラも封じ込められるのだ。性愛や黄金といった、人間関係による循環は、第二チャクラのテーマなのだけれど、そうしたものを封じ込めて、歪んだイメージを作り出すことにより、ルートチャクラもまた封じ込められてしまうのだ。
シャスタ山のあるカリフォルニアという土地は、もともとゴールドラッシュのときに西洋人が押し寄せてきた場所で、金と大いに関係がある。ネイティブ・アメリカンたちと金をめぐっての激しい争いもあったのだろう。そしてまた、性が風俗的なものとして、お金で取引されたり、快楽としてだけ考えられて、あらゆる倒錯を生み出している土地でもある。損得や快楽といった物質的な価値観によって、シャンバラ世界の入り口としてのルートチャクラは、ガチガチに封じ込められてしまっているようだった。
それで、まずはシャスタ山の画像から、シャスタ山のエネルギーにアクセスしてみたのだけれど、山がまるで水源から切り離されてしまっていて、カラカラに乾いているように思えた。シャスタ山は水が豊富な山で、湖や滝がたくさんあるし、ミネラル水の産地でもある。水ならたくさんあるはずなのだけれど、もっと根源的な古代の水源のようなものがあり、その繋がりが断たれているようなのだ。
その水源との繋がりを作ろうとして、あれこれやってみたのだけれど、どうも今ひとつ開いてこない。まるでシャスタ山の下に固い地層があって、それが頑強に遮断しているようだった。それは聖地や金をめぐる戦いや残虐な記憶なのかもしれないし、すべてがお金で取引される物質的な価値観なのかもしれない。
それで、まずはシャンバラ世界に直接アクセスしてみて、そのエネルギーをシャスタ山に繋ごうということになった。シャンバラ世界といったら、チベットの時輪(カラチャクラ)マンダラというものがある。これは、地下にある理想郷を都市のように現した図で、その中央では女神と男神がまぐわっているのだという。時輪マンダラは、チベットのラマ僧たちが砂絵で作るマンダラでもある。何日もかけて砂絵を作り、できたところでそれを壊して、その砂を川に撒くのが、チベット仏教でもっとも重要だと言われるカラチャクラの儀式だ。それは、シャンバラ世界との繋がりを作るためのもので、最後に砂絵を壊すことによって、しかしその理想郷は物質的に存在しているものではなく、意識の世界につねに存在しているということを示すものなのだと思う。
時輪マンダラの画像を使って、シャンバラ世界にアクセスしてみると、シャスタ山からは、なかなか繋がれなかったのに、地下の古代の水源のようなところとまっすぐに繋がることができた。それは、性愛と黄金の豊かさが一つになっているような世界で、絶えず生み出される命の循環が、世界全体の脈動となり呼吸になっているような、大きな繋がりを感じさせる境地だった。面白いことに、第二チャクラにかなり強いブロックを感じていた人たちも、時輪マンダラからはすんなりとその境地に繋がることができた。
それから、その時輪マンダラのイメージをシャスタ山の下のところに重ねる感じで、シャスタ山に送ってみた。すると、このシャスタ山の峰こそは、時輪マンダラの中央にある女神と男神のまぐわいだということに気がついたのだ。シャスタ山は、シャスティーナという側峰があり、見る方角によっては、2つの峰が並んでいるように見える。これは、熊野の神倉山もそうだし、筑波山もそうだ。どれも封じ込められているけれど、女神と男神のまぐわいにより世界を生み出すというエネルギーがもともとはある。こうした聖地が環太平洋のあちこちにあるというのは、実に興味深い。
シャスタ山に時輪マンダラのイメージを重ねてみると、山のところに二匹の白蛇が絡み合うように交わっているイメージが現れ、それが地下世界から天まで伸びていった。シャスタ山は、頭頂チャクラのさらに上にある第8チャクラだと書いてあったサイトもあったのだけれど、これはルートチャクラが開けば、地下世界から背骨を通って宇宙まで繋がるルートが開けるということなのかもしれない。二匹の白蛇が交わるイメージとは、陰陽が作り出す現象世界の根源たる運動だとも言える。
このエネルギーを、世界の集合意識に繋げるために、世界的な市場を持つシャスタのミネラル水、クリスタルガイザーの波動を使うことにした。商売で歪められているとはいえ、この聖なるシャスタ山の波動が入った水を、世界中の人が飲んでいるのだ。その水を飲んだ人たちが、シャスタ山の本来のエネルギー、シャンバラ世界まで繋がるルートチャクラのエネルギーと繋がってしまうというイメージをこしらえて、その際に、おさむさんがテンセグリティのエネルギーをイメージして演奏してくれた音楽を使うことにした。テンセグリティのエネルギーは、まるで般若心経の世界のように、すべての存在、すべての現象を空(くう)に戻してしまうような力があるのだ。そのイメージを使うと、容易に変わらないと思えるものも、サラサラと砂が崩れていくように解けてしまったりするようだ。
すると、シャスタの水に対する感謝の念が出てきて、シャスタの水を飲んだ人たちが、世界中からシャスタ山にありがとうと言っているイメージが出てきたりした。繋がりができたときには、感謝の念は自ずと湧いてくる。エネルギー的にきれいに開いている御嶽(うたき)などでは、人はお願いなどをする気にはなれず、ただありがたいという念だけを感じるものだ。それは、すでにすべてを与えられていることに気づくからなのだと思う。どうも、シャスタ山についてもそうしたことが起こったようだった。そして、ただ感謝の念が湧いてきたときに、循環が起こり、シャスタ山の女神は再び無限の流れで生命の源たる水を湧き出させているようだった。
その地下世界からの流れが大きくなり、シャスタ山の中心に下から吹き上げる滝のような流れができ、天へ上がっていくように思えた。すると、8つの部族がシャスタ山の麓を取り囲むように現れ、「もうやられないぞ」と言っているイメージが現れた。
それから、シャスタ山の画像をもう一度見てみると、わずかではあるけれど、画像が明るくなって、山が穏やかに見えているのがわかった。聖地の封印は、一度解けると、時間とともに流れが大きくなっていくように、あとは何もしなくてもどんどん開いてくる。それが起こったのがわかった。
マヤ暦では、2月2日にマヤ暦の一年である260日のツォルキンが終わる。その最後の封印解きセッションで、地球のルートチャクラを開けることができたということが、どれだけのことだったのかが、あとになって見えてきた。難なく開きそうに見えていたシャスタ山が、これほど固く封じ込められていたのは、アメリカという物質主義の権化のような国だったからだ。それをついに開けてしまったのだと思った。
***
テンセグリティの音楽は、このリンクで聞けます。即興演奏:Osamu Fujikawa
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM0005-tensegrity-higher-heart.mp3?fbclid=IwAR1Y7JbcV9FPo1_ri5X5zNk64L1yUMwuw3S0oT-2BHj4NORz4C8p3RCBxNk
2023年1月31日
【地球の根っこを思い出せ ー 音楽と詩の朗読】
【地球の根っこを思い出せ】
シャスタ山に春が来る
雪解け水が流れていく
この水は、一体どこから来るのだろう?
岩の間から染み出してくるこの水は
それはシャスタの神々が贈る水
私たちの身体は水でできている
そのことを思い出す
この山のはるか下に
山の豊かな地下水よりも、さらに下
古代からの命の水がある
それは、世界を生み出す力
私たちを生み出し
すべての植物 すべての動物を生み出し
この世界を生み出した命の力
私たちはみな地球の子供
この大地に根を下ろして、
養われている
深く深く、地球の中心まで
私たちの根は繋がっている
生きているかぎり
この根は決して切れはしない
ただ私たちが忘れているだけ
大地のはるか下、地球の真ん中に
古代からの命の力がある
私たちはそこから切り離されることはない
ただ私たちが忘れているだけ
それは、黄金色(こがねいろ)に光る愛と豊かさ
それは、誰も所有することができないもの
それは、ただ世界を巡っていくもの
私たちはみな、その世界と繋がっている
そこから力をもらって生きている
ただ私たちが忘れているだけ
お金にまみれたアメリカン・ライフ
何をすべてお金にできるのか、やってみたかっただけなのか?
神々が贈るこの水も、この美しい風景も
何もかも切り取って、お金に変えた
すると、あの命の輝きは
もうどこにもなくなってしまった
人の笑顔もきらめく水も
木々の梢を吹く風さえも
作られた嘘のように平べったくなって
命の輝きは、もうどこにもない
ダークスーツのビジネスマンも
真面目くさったグルーたちも
神々の贈り物を切り刻んで、売ってしまったね
山が渇き切るまで、売ってしまったね
お金で買ったものなど
お金の価値しかない
お金で売ったものには
もう命の力はない
自然から受け取ったものには
無限の価値があるのに
あの根っこを思い出せ
地球に下ろした根っこを思い出せ
生きているかぎり、誰もが持っている
この根っこを思い出せ
どんなに渇き切っても
誰もがこの根っこを持っている
地球に深く下ろして
古代からの命を感じているこの根っこを
すべての人類の記憶
すべての地球の記憶が入っているこの水を
その水を吸い上げている
この根っこを思い出せ
私たちの内なる根っこを思い出せ
渇き切った山が、また蘇る
何もかも売られてしまって
カラカラに渇いていたこの山が
根っこはまだ生きていた
地球の真ん中まで降りていたこの深い根は
ただ私たちが忘れていただけだった
シャスタ山に春が来る
雪解け水が流れていく
この水は、一体どこから来るのだろう?
岩の間から染み出してくるこの水は
それはシャスタの神々が贈る水
私たちの身体は水でできている
そのことを思い出す
この山のはるか下に
山の豊かな地下水よりも、さらに下
古代からの命の水がある
それは、世界を生み出す力
私たちを生み出し
すべての植物 すべての動物を生み出し
この世界を生み出した命の力
私たちはみな地球の子供
この大地に根を下ろして、
養われている
深く深く、地球の中心まで
私たちの根は繋がっている
生きているかぎり
この根は決して切れはしない
ただ私たちが忘れているだけ
大地のはるか下、地球の真ん中に
古代からの命の力がある
私たちはそこから切り離されることはない
ただ私たちが忘れているだけ
私たちはみな、その世界と繋がっている
そこから力をもらって生きている
ただ私たちが忘れているだけ
***
詩 佐藤シューちひろ
音楽 藤川おさむ
朗読 あいこ
******
【楽園は地底にあった】
地球にグラウンディングするということはよく言うけれど、実は私たち人間はみな、木のように根っこがあって、地球に繋がっているのだと思う。物質的な身体には根っこはないけれど、エネルギー体としての生物は、身体よりもずっと大きくて、実は下は地下まで繋がっているし、上は宇宙まで届いているのかもしれない。
地底には、極楽世界があるのだという話があって、チベット仏教が言っているシャンバラ世界というのは、そうしたものであるらしい。それは、黄金に光り輝く理想郷で、神々に出会える場所だ。その中央では、女神と男神がまぐわっていて、絶えず新しい生命を産み出している。
亡くなった人は地に還るとか天に上がるとか言うけれど、日本では亡くなった魂が行くところは黄泉の国、あるいは根の国で、それは地下にある。ギリシャでも冥界は地下にあって、そこは亡くなった人が還っていくところであり、新しい命が生まれてくる場所でもある。冥界としての地下世界は、もともとは地獄のようなものではなく、命が循環していく場所だった。
地獄という概念が生まれたのは、宗教が政治支配に利用され始めてからのことなのだと思う。亡くなった人たちは、天国と地獄とに振り分けられ、宗教の教えに従わなかった人たちは、地獄に堕ちるという話になった。そして、地下にある地獄では、亡者たちが苦しめられるのだという話が語られ、人々に恐怖を与えることになった。
地下には恐ろしい地獄があるというイメージが、人々を冥界から切り離すことになってしまったのだ。しかし、根の国、黄泉の国と言っているものは、実はシャンバラと同じで、命が循環し、黄金に満たされている理想郷だ。そこは地上に生きている私たちが還っていくところであり、私たちが来たところであり、すべての祖霊たち、すべての神々に出会える場所だ。
沖縄の神女(かみんちゅ)たちは、祖霊と繋がって、人々の健康と安全を祈り、守ってもらうのだけれど、そうやって守られた人々は、戦場で弾の飛び交う中をくぐっていっても、生きて帰ってきたりする。祖霊に守られるということは、単なる概念ではなくて、そういう現実的な効果があるようなことなのだ。唯物的な世界に生きている私たち現代人は、物質的なものだけに守られると思っているけれど、実は貯金や保険や医療システムや安全装置やらよりも、私たちは祖霊や大地の力によって守られているのだと思う。
沖縄では、それをニライカナイと呼んでいるのだと思うけれど、ルートチャクラから出ているエネルギー的な根っことでもいうもので、私たちは祖霊たちのいる地底世界と繋がっている。それは、木が根っこを下ろすことで守られているのと同じようなことだ。植物は根っこで水分養分を得て生きているし、倒されないで枝葉を伸ばしていくことができる。それと同じように私たちも、ルートチャクラから地下世界に根を下ろすことで、命の力をもらい、守られて成長していく。
チベットの時輪(カラチャクラ)マンダラというものが、地下のシャンバラ世界を表しているというので、その画像を使って、シャンバラ世界あるいは根の国に意識上でアクセスしてみることにした。前回、クローズドの封印解きセッションでアクセスしたのだけれど、今度は公開のセッションで100人以上が参加していた。封印は一度解けると、時間が経つうちに何もしなくてもどんどん開いてくる。それは、一度開いた水路は、流れていく間に大きくなっていくのと似ている。そこに今度は100人以上でアクセスしたわけなので、パワフルな意識エネルギーのフィールドができ、ほとんどの人が容易に繋がれていたようだ。
ルートチャクラからかなり太い根っこが出て、地下に繋がっているのがはっきり感じられたと言っていた人も多かったし、身体の下の方から温泉につかっているみたいに暖かくなったとか、亡くなった家族やペットの愛を感じて涙が出たと言っていた人もいた。亡くなった人たちの世界が地獄のようなものだと思っていると、実際にアクセスしてみたときに、そのギャップに驚かされる。そこには苦しみの記憶も怨念も何もなく、ただとてつもなく大きな愛と豊かさがあるだけなのだ。一体どれだけ私たちは守られていたのか、どれだけ愛され、どれだけ与えられていたのか。それを頭で理解する以前に意識で感じ取り、暖かさに包まれて、ただ涙が出る。ルートチャクラを開いて、根の国と繋がるとは、そうした体験だ。
富士山が水に映っているように下に逆さになったイメージが見え、その先に根の国があるのだという。日本には黄泉の国の入り口があると言われているところがいくつかあり、熊野の花の窟(いわや)などもそうだと言われているけれど、富士山もあるいはそうなのかもしれない。環太平洋の聖地はそういう根の国と繋がっているところがたくさんあって、古代の人たちはそこで祖霊や神々と繋がって、守ってもらったり、いろいろなことを教えてもらったりしていたのだろう。祖霊と繋がるとは、人類のすべての記憶や叡智と繋がるようなことでもある。
ケルトの世界樹ユグドラシルのような巨大な木のイメージを見た人もいた。世界最初の木であり、世界の中心になっているという木だ。根っこが無数に枝分かれして、いたるところに伸びていて、ものすごい力で上と下の両方に伸びている。ルートチャクラの繋がりのエネルギーを世界の集合意識に送ったときは、世界中にありとある植物がものすごい勢いで伸び始めて、まるでジャングルのようになっていくイメージが出てきたりしていた。植物だけでなく、人間もたくさんいて、ありとある動物もいて、生命力がムンムンしているような風景が現れた。
命の成長の力だ。私たちがルートチャクラで地球にしっかり根を下ろして、根の国が封じ込められず健全な状態だったら、生き物はこれほどの力で成長するものなのかもしれない。「スライヴ!」というドキュメンタリー映画のタイトルは、Thrive 成長し繁栄せよ、という意味で、私たち人間は、生き物本来の成長の力を取り戻すべきだということを言っている。そのことを思い出した。あの映画が伝えようとしていたのは、私たち人間が今、生活に追われるだけのような生き方を送っているのは本来のあり方ではないということだ。そうした生き方が世の中のつねなのだと私たちは思い込んできたのだけれど、それは作られた状態にすぎない。本当はもっと大きく自由に成長していけるのが、人間本来のあり方なのだと。
縄文の時代、人々は一万年もの間、平和に生きてきたのだと言われている。その時代には、人が人を支配するということがなかったのだ。だから、人々は皆それぞれに根の国と繋がって、守られ、大きな生命力をもらって成長していったのだと思う。数千年前に支配の時代が始まったとき、征服者たちはまず、人々の根の国との繋がりを切り離すことから始めた。その繋がりがあるかぎり、人を支配することなどできないからだ。そして、地下には恐ろしい地獄があるとか、亡くなった人たちは幽霊になってたたるとか、あるいは地下は悪魔の領域だとか、恐怖や罪の意識のイメージを植えつけ始めたのだ。
文明が発達したはずの現代社会で、私たちはつねに危険にさらされているというイメージに取り囲まれて生きている。メディアは犯罪や戦争や事故や病の恐怖のイメージでいっぱいだ。ところで、こうしたものもまた、私たちを根の国から切り離すための手段だったのだ。
私たちは、意識で現実を作り出しながら生きている。根の国の祖霊たちに守られて生きているのだという意識で生きている人々は、実際に不思議な力に守られていて、どんな危険にさらされても、無事に帰ってきたりする。一方、根の国との繋がりなど存在しないと思って、保険や貯金や医療で身を守るしかないと思って生きている人たちは、まるで自分から命を危険にさらすような生き方をしていたりする。
危険なウィルスが命を脅かしているという宣伝を3年前から世界中でしていたのだけれど、そのウィルスが世界中の人々をパニックに陥らせたのは、あのイメージの中にサブリミナルなメッセージが入れ込んであったからでもある。あのイメージは現実のものではなく、コンピュータグラフィックで作られたものだ。地球の上に木が生えているようにも見える図だけれど、見ていると足元がゾワゾワするような落ち着かなさを感じるのは、その木のように見えるものが、下が繋がっていなくて、根が切れているからなのだ。根が切れた植物は、死んだも同じだ。同様に、ルートチャクラが根の国から切り離された人間は、切り花のようにもう人工的な手段でしか生きていくことができない。そうしたメッセージを潜在的に受け取ってしまった人たちは、自分が何に反応しているのかもわからないまま、まさにそのとおりの現実を作り出し始めてしまったのだ。
しかし、ものは受け取りようだということがある。そんな心理操作をやられたせいで、私たちは根の国との繋がりが切れていることに気づくことができ、それを繋ぎ直さなければならないと真剣に思うにいたったのだ。そこまでやられたからこそ、地球のルートチャクラであるというシャスタ山の封印を解いて、シャンバラ世界まで繋がることになった。私たちの意識が現実を作り出していくのだから、そう考えて、そこに意識を向けていたら、私たちはこの惨劇を舞台にして、世界を新しく再生させる物語を生きることになるだろう。
今の世界は、もはや一人一人が覚悟を決めて、自分の根っこを繋いでそれに守られて生きていくしかないといった状況だ。自分の根っこには、つまるところ自分で繋がるしかない。ここまで追い詰められたからこそ、私たちはそこまで肚を決めることになった。これはある意味、これ以上ないような恩恵だとも言える。
そうやってルートチャクラを根の国と繋いでみると、守られているという暖かさがあるだけではなく、あの祖霊たちや神々、精霊のいる世界が、実は地底まで降りる必要もなく、ここにすでに重なっているのだという感覚がわかってくる。古代の人たちは、そんな風に精霊や祖霊や神々とともに生きていた。根の国とは地底でもあり宇宙でもあり、私たちが生きている地上世界そのものでもある。アボリジニたちがドリームタイムと呼ぶ世界。それがもうそこまで現実的になってきているのを感じる。
2023年2月7日
地球の第3チャクラ
【ウルル ー ドリームタイムの封印を解く】
オーストラリアのアボリジニたちが「ドリームタイム」と呼んでいる世界は、自然の精霊や神々が人間と共生しているような意識上の空間なのだと思う。アボリジニたちは、その意識空間で、動物たちとも話すし、神々や先祖たちとも話すのだと思う。
アボリジニたちの聖地とは、そうしたドリームタイムと繋がる場所であり、オーストラリアの真ん中にあるウルルと呼ばれる赤い砂岩の巨大な一枚岩は、彼らの最大の聖地なのだそうだ。そこは地球の第3チャクラだとも言われている。それで、そのウルルに画像から遠隔アクセスして、そのエネルギーを解放し、地球の第三チャクラを開くセッションを、マヤ暦で魔術的な日と言われる音11の青い猿の日に行なうことになった。
これまでも、アクセスしてみたらチャクラの位置が微妙に違っていたということがあったのだけれど、ウルルもそうだった。ウルルのエネルギーは、第三チャクラよりも少し下のおへそのあるあたりが要のようだった。というか、そのあたりにブロックがある感じなのだ。チャクラそのものというより、封印がかかっているのが、その間のあたりだということなのかもしれない。
おへそといったら、私たちが生まれる前にへその緒で胎盤に繋がっていた部分だ。そこから私たちは養分をもらい、養われて生きていた。へその緒と胎盤とは、まるで木の根のように細かな筋膜で繋がっていて、その胎盤に包まれる形で、胎児は育っていくのだそうだ。生まれたときに、私たちは胎盤から切り離されて、自分で呼吸をし、食物を消化して生きていく。しかし、私たちは本当には、エネルギー体としてのへその緒で、地球とつねに繋がって養い守られているのだと思う。そのことを忘れさせられていることこそが、第三チャクラの封印なのかもしれない。そして、ウルルはそれを私たちに思い出させてくれる場所なのかもしれない。
それで、それぞれ意識上の長いへその緒で、ウルルと繋がっているイメージを作ってみることにした。そういうイメージで、ウルルのエネルギーをお腹のところに受け入れてみることにしたのだ。すると、意外なことが起こった。
第三チャクラだから、自我意識とか自己実現と関係があるんだろうと思っていた。内なるパワーを感じて、いろいろ実現していけるようなエネルギーを感じるのではないかと。ところが、そこでほとんどの人が感じたのは、世界と自分とが同じだとか、地球と宇宙も同じだとかいった風な、不思議な一体感だった。感じることと表現することは同じだとか、主体と客体の間に境がない、と言っていた人もいた。
それこそはまさに、アボリジニたちがドリームタイムと呼んでいるものなのだろう。へその緒で地球と繋がって養われているということを思い出したとき、私たちは何のために地上に生まれてきたのかを思い出すのだ。それは、身体を持つことで、いろいろな意味で、この精霊や神々の世界を形にし、表現することができるようになるためなのだと思う。そこでは、感じることは同時に表現することだといったような、言葉にし難い一体感の世界があった。
しかし私たちは、生まれてきてへその緒を切り離されたとたんに、人の顔色を見ながら生きるようなことを強いられていく。感じたいように感じ、感じたように表現するのではなく、許されたことだけを感じたり表現したりするようになっていく。そうでなければ愛されず、受け入れられず、生きていけなくなるという恐怖につねにさらされることになる。他の子と比べられたり、叱られたりほめられたりということを繰り返しながら、条件づけられていくのだ。
生まれたときには、私たち誰でも天才レベルの創造力を持っているそうなのだけれど、そうやって比べられたり、何かを強制されたりしていくうちに、創造力がどんどん落ちていき、義務教育が終わる頃には、天才レベルの創造力を持っている子は、ゼロに近くなるのだという。それはまさに、へその緒を切られたあとで、大人たちが望むように行動していなければ、受け入れられないという封じ込めをかけられるからだ。だけど私たちは、本当は地球と繋がっていて、ずっと胎盤に守られながら生きている。この大地こそは、私たちの胎盤なのだ。
意識上のへその緒でウルルと繋がってみると、お腹が暖かくなって、お腹からしっかり息が吸えるのを感じた。ちょうどおへそのラインのところが大きく動いて、息がお腹に入り、また出ていく。そうやって、お腹が心地よくリラックスして、活性化してくる感覚がある。それと同時に、自分がいかに見かけを気にして、感じるままに表現することを抑えてきたのかということが、泣きたくなるほどに意識に浮かび上がってきた。
ドリームタイム。その精霊や神々や先祖たちと境なく繋がれる意識空間こそは、私たちの創造力の源だったのだ。私たちは、生まれたときにはその世界と境なく繋がっている。だけど、現代に生きる私たちは、生まれてすぐに、その世界と切り離されていく。そんな世界は存在しないと言われ、繋がることを禁じられて育っていく。
音楽や美術は、現代で唯一そうした世界と繋がることを許される領域かもしれない。だから、感性の豊かな子たちは、芸術表現へと向かっていく。だけどそこでも、大人たちに何を表現するべきなのかを強制され、自分の感覚を持てなくされてしまっていることが多い。
このところクラシック音楽のことを書いていたら、クラシック音楽好きの人たちがいろいろなことを書き込んでくれるのだけれど、奇妙なことに、音楽を習ってきたような人ほど、自分で感じることが難しいように思えた。クラシック音楽とはこれまで無縁だったという人たちは、ストレートに聞いて、ストレートに反応するのに、何らかの形で音楽をやってきた人たちは、自分で感じているというよりも、頭で語っているように思える。しかしこれは、クラシック音楽の教育がどのようなものかを知っていると、納得できる。ほとんどの場合、先生や有名な演奏家のコピーをするようなことばかりで、音楽そのものを感じ、表現するようなことは、習ってきていないのだ。それで、何を感じ、何を表現するかも、すっかり支配されたようになっていることが多い。
まさにそれこそが、ドリームタイムとの繋がりを封じていたのかもしれない。本当のベートーヴェンやバッハがどういうものなのかという話をすると、楽譜に正確なだけでは表現にならないのではないかとか、何が本当かなど決められないのではないかと言ってくる人たちがたくさんいる。本当のバッハの表現は、楽譜だけでもないけれど、しかし楽譜だけ見ればすべては自ずと見えてくるようなものでもある。これは理屈で語れるようなものでもなく、自分で感じて体験するしかないようなことかもしれない。本来、音楽のレッスンとは、そうした感性を養うものであるべきなのだけれど、逆にそうした感性を封じてしまっていることが多いのが現実だ。
それで言葉に困っていると、チューニングのようなものですね、と書き込んでくれた人がいた。チューニングとは、ピタッと合ったときに、心地よく共振し始める。作品の解釈というのも、まさにそういうところがある。どの作品のどの部分にも、そうした共振点のようなものがあるのだ。そこへいたるカギは、楽譜に記されているけれど、しかし演奏者が自分でその共振を感じ取らなければならない。たとえば、アダージョといっても、どういうテンポなのかには、いくらかの幅がある。だけど、それぞれの作品には、ピタッと合う共振点のようなものがあるのだ。それをつかんだときに、曲の全体がとつぜんに意味を持ち始め、物語り始める。共振し始めるのだ。作曲家が作り出した世界と演奏者が共振し、もはやどっちが指示してどっちが従うといった区別さえもなくなる。そして、その共振が聞く人にも伝わっていき、共振が広がっていく。それは、演奏者が聴衆をドリームタイムに引きずり込む瞬間だ。そして、それこそは音楽の魔術的な体験なのだ。
クラシック音楽は、西洋のドリームタイムと言えるかもしれない。人々は音楽を通してドリームタイムを体験する。そして、その体験を作り出す人こそが、作曲者であり演奏者だった。ところが、20世紀に入ってから、それが意図的に封じ込められてきたようなのだ。このところ、そういう共振が起こるような演奏をあれこれと探していたのだけれど、そのカギはテンポにあるようだった。一般に知られている演奏のテンポが、いつも微妙にずれているのだ。まさにそのために、西洋音楽に特有の妖精や天使たちと共生しているかのような意識空間に繋がっていかない。すると、天上的な華麗な世界が、苦悩する人間の感情のような世界に変わってしまう。それもまた美しいといったら美しいのだけれど、しかし本当の西洋音楽はこんなものではないし、そんなことのために作られたものでもない。人々を妖精や天使たちに出会わせ、本当は私たちはそうした世界に生きているのだということを思い出させる力を持ったようなものなのだ。
それが開くためには、チューニングのような精妙さが必要なのだけれど、それは、演奏者が自ら共振を自分の身体で感じてこそ、ピタッと決まる点を見つけることができる。そして、一度共振し始めたら、あとは自動的に起こっていくようなところがある。教え方のうまい先生のレッスンを見ていると、起こっていることはまさにそれだ。先生は、どこをどう合わせたら共振し始めるかを見て、それを学生に体験させる。それは、ちょっとしたテンポの違いだったり、ちょっとした強弱の違いだったりする。そして、それによって音楽が共振し始め、魔術的な扉が開くのを体験させるのだ。音楽の勉強というものは、本来はそれを習得することだったはずだ。
地球のヘソと言われるウルルのエネルギーを解放して、集合意識に繋いだら、ドリームタイムの入り口としてのクラシック音楽が扉を開いてしまったような気がする。ある意味もっとも封印がきつかったバッハのゴールドベルグ変奏曲のすばらしい演奏を見つけてしまったのだ。グレン・グールド風の演奏が一般的になっていて、あのテンポがバッハだと思っている人が圧倒的に多い。バッハの曲は非常に強い構造を持っているので、あそこまでテンポを引き伸ばしても、まだ曲としての美しさを持っていることもたしかだけれど、あのテンポでは、ドリームタイムの扉は開かない。しかし、共振するテンポで演奏されたとき、バッハのゴールドベルグ変奏曲こそは、天使や精霊が生きている天上的な世界が、実は私たちが今生きているこの地上と重なって存在していることを、体験させてくれるような曲なのだ。
この作品集こそは西洋の世界樹だ、と思った。ウルルのエネルギーを集合意識に繋いだときに、地下に根を張り、天に枝を伸ばす巨大な世界樹のようなイメージが見えたのだ。それは、胎盤のように私たちを守っている大地と宇宙と私たちの繋がりそのもののイメージだった。私たち人間は、大地と天と繋がり、その間で、表現することで生きる。つまり、あのドリームタイムを感じ、それを表現し、共有することでだ。だから、あの世界樹のイメージこそは、ドリームタイムの入り口なのだ。それが開いたのかもしれないと思った。
そのゴールドベルグ変奏曲の演奏を聞きながら、涙が止まらないのだ。私たちがもともといた、あの懐かしい世界が戻ってきたというような感覚がして、おへそのラインのあたりが硬くなったり、緩んで暖かくなったりしている。それは、ブロックが解けていくときに、よく起こるあの感覚だ。
バッハのゴールドベルグ変奏曲 演奏 ジャン・ロンドー(ハープシコード)
2023年2月13日
【創造は勇気だ ー 音楽と詩の朗読】
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM2579-creative-Buckminster-Fuller.mp3?fbclid=IwAR3FDs2Z0AcnJNzxy016eVg2M3oGvW968uMULsVIx-FaeyNwuFtWq1F-beI
朗読 Naoko Fujikawa
音楽 Osamu Fujikawa
詩 佐藤シューちひろ
【創造は勇気だ】
創造は勇気
本当は誰にもある力
手じゃない 頭でもない
身体の真ん中の太陽プレクサスのあるところ
誰でもそこに太陽の力を持っている
暖かい喜びのエネルギーを放射する その中心を
世界は発見に満ちている
何でも目に入るもので
何でも試してみたらいいよ
思いつくままに
何でもやってみたらいいよ
創造は勇気
ただそれだけのこと
目についたもので
何でも試したらいいよ
思いつくままに
作ってみたらいいよ
人間は戦うために生まれてきたわけじゃない
従ったり従わせたりするために生まれてきたわけじゃない
怒るのも 戦うのも
ただこの内なる太陽を守るため
内なる太陽が光を放射する空間を作るため
君の中の太陽が
光を外に放てるように
さえぎられるものもなく
光が放射できるよう
その光があたりを照らしたら
世界が違って見えるから
君はついに、この創造の世界にやってきた
あらゆる戦いを乗り越えて
この創造の世界にやってきた
戦うのは、勝つためじゃない
戦うのは、負けないためでもない
ただこの内なる太陽を守るため
この光を輝かせるため
その空間を作るため
近づかないで 手を出さないで
僕は僕 これは僕が作る世界
だから、近づかないで 手を出さないで
できたら、わかるから
できるまでは、わからないから
君は叫んで、歯をむいて、戦ったね
真っ赤になって怒ったね
その勇気を讃えよう
よく守り抜いたね 君の内なるこの太陽を
戦うのは、勝つためじゃない
戦うのは、負けないためでもない
ただこの内なる太陽を守るため
この光を輝かせて
世界を照らすため
君の中の太陽が
光を外に放てるように
さえぎられるものもなく
光が放射できるよう
その光があたりを照らしたら
世界が違って見えるから
地球の喉のチャクラ
【喉が開いていれば、守られる】
エジプトの有名なギザのピラミッドは、地球の喉のチャクラなのだそうだ。このピラミッドには、いろいろと不思議なことがあり、どう考えても、無重力状態にして運んだとしか思えないようなところがあったり、一度、非物質化してから、再び物質化したのでなかったら、絶対できないような構造になっていたりするらしい。それで、これはアトランティスが沈んだあとに、宇宙人が建てたものではないかとか、あるいはこれはアトランティスの時に作られたもので、アトランティスが沈んだあとにも残った建造物なのではないかとか、いろいろな説がある。
このピラミッドのエネルギーを解放するために、まずは意識上で王室の中に入ってみようということになった。ピラミッドのエネルギーを受け取るには、中心のところに行くべきだと思うのだけれど、エジプトのピラミッドは、マヤのピラミッドのように、上に上れるようにはなっていない。その代わりに、下から3分の1の高さのところに、王室と呼ばれる部屋があり、そこに通路を通って入っていくことができる。そこのところが、ピラミッドのエネルギーのもっとも集中する場所だと言われている。
それで、王室のエネルギーをそれぞれに受け取ってみると、ここは宇宙との繋がりを強烈に感じる場所だった。宇宙から光の筋のようなものが、頭頂から入ってきて、松果体を通り、喉を通り、心臓まで降りていく。そんな風に、私たち誰もが、実は宇宙としっかりと繋がって、守られているのだというのを感じた。
これまでは、大地に根を張るように繋がっていて、大地に守られているのを感じるポイントをずっと解放してきたのだけれど、エジプトのピラミッドは、大地ではなくて、宇宙だった。そして、私たちは大地に守られているのと同様に、宇宙とも繋がって守られているということを、とてもリアルに感じたのだ。
それは、シンプルに地上に生きる喜びのようなものだ。たとえアトランティスのように文明を滅ぼすようなことが起きてしまったとしても、私たち人間は、またこの地上で生きていき、新しい世界を作り出していくことができる。それはまったくシンプルに、何があろうと地上で生きていくのは楽しいと思えるような、無垢の子供のような感情なのだ。私たちは、この地上で何度生を重ねてきても、再び新しく生まれてくるときには、シンプルにここで生きていくのがうれしいという感情を持つことができる。そして、まさにその感情によって、私たちは何度でも生を繰り返していくことができる。
ピラミッドは、王たちが永遠の生を望んで、死後ミイラにして納めさせた場所でもあるけれど、それは、この何度でも生まれ変わっていくようなエネルギーが、ここにあるのを知っていたからなのだろう。しかし、私たち人間は、ミイラになってピラミッドの中に入らなくても、何度でもこの地上に生まれ変わっていく永遠の生を持つ存在なのだ。そして、頭頂から入ってきて、心臓のあたりまで繋がっている宇宙との光の筋の繋がりこそは、その永遠の生を保っている繋がりなのかもしれない。
ところで、喉のチャクラにブロックがある人は、ピラミッドのエネルギーとアクセスしたときに、喉の奥の方、喉仏の裏のあたりが痛くなるのを感じたと言っていた。松果体と喉のチャクラがある喉頭の間くらいのところに、もう一つあまり知られていないチャクラがあるというのだけれど、どうもそこにブロックがあるようだと言うのだ。
そう言われてみれば、喉が締まる感じになるときに、その部分が中心になって締まってくるようだ。首の後ろの頭蓋骨の下のくぼみのところと喉仏のところのちょうど間のあたりだ。仏教では、喉仏の骨が重要だと言われていて、亡くなったあとにその骨を大事にするけれど、この喉仏の骨と言われるものは、実は第二頚椎の骨なのだそうだ。つまり、頭蓋骨と繋がっている骨の下にある骨だ。どうもその骨のあたりが、喉のチャクラが開くのに、重要なポイントらしいのだ。
それで、もう一度ピラミッドの王室の中に意識上で入ってみて、今度はピラミッドの頂点を通って宇宙と繋がっている光の筋が、頭頂から松果体、喉のところに繋がっているのをイメージしてみることにした。そして、宇宙からその通路を通ってエネルギーが入ってくるときに、第二頚椎と喉仏の間のあたりが、蓮の花が開くように開くのをイメージすることにした。
そのあたりを緩めるには、両手をクロスさせて、右手で左耳たぶ、左手で右耳たぶをつかんでひっぱるといいのだそうだ。それを皆でやってみると、耳からあご、舌、のどまで力が抜けて緩むのがわかる。というか、実はその部分にいつも力が入っていたことに気がついた。この部分に力が入っていると、喉が開かなくなる。歌の発声法を習うとき、口の中にゆで卵一個が入っているような感じに口の中に空間を作れと言うのだけれど、第二頚椎のあたりの力が抜けると、自然に口の中に空間ができて、喉が開いた状態になる。オームチャンティングも、喉を緩めて開くのに役に立つ。この2つをやったら、とたんに喉が開いて、声の出方が変わってきた。それで喉を開いておいてから、ピラミッドのエネルギーとまたアクセスしてみたのだ。
それは、自分が実はずっと大きな存在、世界樹のような存在なのだというような感覚だった。蓮の花というのは、長い茎の上に咲くのだけれど、そんな風に私たちも、地上高くに伸びていて、宇宙と繋がって、それに支えられている。喉のチャクラは表現の力の中心だけれど、多くの人は、真実を言ったら迫害された過去生の記憶を持っていて、それが喉のチャクラが締まる大きな原因になっている。だけど、ちゃんと第二頚椎のところが開いて、喉が宇宙と繋がっていたら、真実を言っても守られるのだと、何の根拠もなくそう確信した。何を言っても、この宇宙の繋がりさえちゃんとしていれば、宇宙に守られるはずだと思えた。
もし何の恐れも罪の意識もなく、堂々と話すことができたら、何を言っても誰も手出しすることなどできないのかもしれない。本当に喉のチャクラがしっかりと開いていて、宇宙と繋がっていたら、その力に守られるのかもしれない。
この第二頚椎のところは、魔が入ってくる場所でもあるそうなのだけれど、私たちはまさに、魔に冒されるような恐怖のイメージをメディアで絶えず与えられて、第二頚椎のところが封じ込められているのだ。魔が入ってくるのじゃないかと恐くなり、そこのところが締まってしまう。そうすると、声がちゃんと出なくなり、宇宙との繋がりも切れて、守られなくなってしまう。
最後に、世界中の人々の喉のチャクラを開けて、宇宙と光の筋で繋ぐイメージを作ることで、地球の喉のチャクラを開けた。だけど、喉のチャクラこそは、真実が言えるということと関わっていたのだ。そのことが、とてもよくわかった。喉のチャクラが閉じて真実が言えない状態になっていると、真実を認識することもできなくなってしまう。今、世界中で多くの人が、メディアが言うままに、どんな嘘でも信じてしまう状態になっているのは、喉のチャクラが封じ込められていたからだったのだろう。恐れのために真実が言えないと、私たちは嘘の方を信じてしまうようになるのだ。だから、真実に生きるとは、実は喉のチャクラがしっかりと開いていて、宇宙と繋がっていることだったのだ。
このところ私は、クラシック音楽の話を毎日書いていて、カウンターテノールのアンドレアス・ショルにすっかり夢中になっていたのだけれど、彼が歌うオンブラ・マイ・フを聞いていると、まるで世界樹になったような気分になる。それが何故なのか、そのことでわかった。大男のアンドレアス・ショルが、堂々と頭から声を出して歌っているのを聞くと、お腹から喉から頭頂まで、すっかり開いて、宇宙と繋がっているように思えるのだ。それを聞いているだけで、自分もそんな風に身体が宇宙に開いていくような感じになる。
それを思えば、キリスト教の人たちが、歌を歌うことが神と繋がるのに大事なことだと言っているのも、なるほどそういうことだったのかと納得できる。西洋音楽の発声法で、頭から声を出して歌っていると、胸から喉、頭までが繋がって、宇宙と繋がるのだ。そして、その繋がりに守られる。それをキリスト教の人たちは神と言っているわけなのだ。
してみれば、音楽を演奏するのに、独自の表現をするべきだというようなことが言われるようになったのも、実はこの繋がりを断ち切るためだったのかもしれない。ただ自分を器のように開いて頭頂から宇宙のエネルギーを受け取るモードになっていたら、この繋がりができるのだけれど、独自の表現をしなければ、などと思うと、とたんに喉が締まって、この繋がりが断ち切れてしまう。本当は、独自の表現をしなければなどと思わずに、ただ自分を完全に開く姿勢になっていたとき、本当にすばらしい声が出て、人を感動させることもできるのだ。
そして、演奏が共振していると感じるのは、まさにこの宇宙との繋がりができているときだと言える。喉のチャクラというものは、前に向かって開いているのかと思っていたけれど、実はそうではなかったらしい。喉のチャクラとは松果体の下にあって、松果体を仏さまのように、蓮の花の上に乗せているようなチャクラだったのだ。つまり、ただ上に向かって開いていれば、宇宙と繋がり、宇宙に守られて、この地上で表現していける力を受け取ることができたのだ。
***
喉のチャクラが開く音楽
アンドレアス・ショルのオンブラ・マイ・フ
オランダバッハ協会のバッハのカンタータ「心と口と行いと生活」
2023年2月22日
【破壊の神 ー アヌビスの封印を解く】
地球の喉のチャクラだというギザのピラミッドのエネルギーを解放するセッションで、犬の頭をした人のイメージを見た人が何人かいた。犬の頭といったら、エジプトの神アヌビスだ。そのイメージとともに、文明が滅びて大勢の人が犠牲になったイメージが出てきていて、それはアトランティスが沈んだ記憶から来ているらしい。
それで、エジプトの犬の神アヌビスについて調べてみたのだけれど、これはもともと地下世界の神、それも地下世界の最高神だったらしい。犬というのは、よく冥界の番人としていろいろな神話に出てきていて、冥界の入り口で冥界を守っている存在ということになっている。ところがエジプトの神アヌビスは、番人ではなく冥界の最高神だというのだ。
日本語版のヴィキペディアには、アヌビスはオシリスの子で、不倫と近親相姦で生まれたということが書いてあるけれど、英語版のヴィキペディアを見ると、もともと冥界の最高神で、それがのちの時代になって、オシリスと入れ替わっていったとある。そこからすると、どうもアヌビスの方がもともとの冥界の神で、王家が権威を持たせるためにオシリスに入れ換えたとか何とかそんなことなんじゃないかという気がする。
ところで、アヌビスの頭は犬ではなくジャッカルなのだそうで、エジプトのあたりに棲息している狼の一種、キンイロジャッカルであるらしい。いろいろな神話で犬が冥界の番人になっているのは、狼が死んだ動物の肉を喰って片づけるからだという話がある。不要になった肉体は、さまざまな動物が喰って、分解して、養分に戻すことで循環していく。そのプロセスがあるからこそ、地上はつねに新しい生命に満ちていて、生き生きとしているのだ。古くなって不要になったものは、狼や鳥が喰い、蛆虫や蟻が来て、微生物も繁殖して、すべてきれいに分解され、循環していく。
アトランティスが沈んだときには、何人かの人間が宇宙船に救い上げられて、新しくできた大陸に戻されたという話がある。ノアの方舟の話のようにだ。方舟といったら船だと思うけれど、これはアークarkだから箱のようなものであり、船だとはかぎらない。とにかく、ある箱のようなものに入って、洪水の犠牲から守られたというのだ。そして、再び繁殖するようにと、新しい大陸に戻されたのだと。
ギザのピラミッドは、アトランティスが沈んだときに残った建造物なのだという説があるけれど、もしそうなのだとしたら、このピラミッドは、アトランティスが沈んだときの記憶を持っているということになる。
ギザのピラミッドの王室の中に意識上で入って、エネルギーを感じ取ってみたとき、喉の奥の第二頚椎のあたりから、光の筋が出ていて、それで宇宙と繋がって守られているというイメージが出てきていた。第二頚椎は、いわゆる喉仏の骨として、死後の生命に重要な骨とされているものだ。その骨が蓮の種のようになって、破壊の時期を生き延びて、新しい世界にやってきて、再生していく。エジプトが、アークに乗ってアトランティスの滅亡を生き残った人々によって作られた文明なのだとすると、その記憶がそこでアヌビスのイメージとともに現れてくるのは、納得できるような気がする。
アヌビスは、死んだ人を冥界に導いていく神なのだそうだけれど、人は死んだら、魂が冥界に行き、そこで再び転生するために、浄化されるのだという話がある。つまり、地上に生きていたときに受けたトラウマだとか、悲しみや苦しみの記憶を浄化して、再びまっさらな意識になって、新たに生まれてくるということ。そのプロセスが、多くの神話で、犬の神が腐肉を喰ってくれるのだという風に言っていることらしい。狼が死んだ獣の肉を喰って、きれいに骨だけにしてくれるように、不要なもの、腐ったものをすべて分解して、まっさらな魂に戻してくれる。その循環の力こそが、アヌビスなのだろう。
今、世界は再びアトランティスの歴史を繰り返すつもりなのかと思うような危うさなのだけれど、まさにそのときに、アヌビスがイメージに現れてくるとは、どういう意味なのだろう? どうしようもなく腐敗してしまった世界など、あるいは滅びてしまってもかまわないのかもしれない。おそらく人類は、こんなことはすでに何度も繰り返してきたのだ。それもまた、人が寿命が来ては死んでいき、再び転生するようなものなのかもしれない。しかし何が起きたとしても、ちゃんと種は生き延びていって、再び再生する。そのことをアヌビスは言おうとしているのだろうか?
しかし私には、アヌビスはそれとは別なことを伝えようとしているように思えるのだ。破壊の力を排除しようとすることこそが、文明を滅亡に導いていってしまうのだと、彼はそのことを伝えようとしているのじゃないかと、私には思える。私たちは、病を恐れ、老化を恐れ、細胞が死滅していくことを恐れるけれど、現実には、毎日たくさんの細胞が身体の中で死んでいっては、新しい細胞に入れ換えられている。古い細胞が死んでいくからこそ、私たちはつねに新しい身体で生きていけるのだ。病とは、細胞を新しくするために起こる現象だとも言える。組織に炎症が起きて、細胞が死に、白血球が古い細胞を片づけて、新しい細胞ができていく。だから本当は、病にそのプロセスをまかせておけばいいのかもしれない。そして、そのすべてのプロセスは、アヌビスの力なのだと、このジャッカルの神は言っているように思えた。
今、西側世界は生き残ろうとするあまりに自滅していっているように見えるし、そこで世界中を巻き添えにしようとしているようにも見える。しかし、このプロセスを通じて、消えていくべきものは消えていき、生き残るべきものは生き残って、再生していくのだろう。アヌビスは、そのプロセスを司っている神なのだ。何が生き残って、何が破壊されるべきなのかを。病が癒えていくプロセスは、その点では私たち人間には何もする必要がないほどに完璧だ。どの細胞が破壊され、どの細胞が生き残るべきなのか、すべては完璧になされていく。そしてそのすべては、世界に新しい生を与えるためなのだ。
アヌビスは、俺を信頼しろと言いに来たのだろうか? 地球のチャクラを解放することで、人類を滅亡から救い出そうとしている私たちに? あるいは、そうなのかもしれない。この冥界の神、破壊の神は、腐敗していく世界から私たちを守るために、破壊の力を使っているのだから。
2023年2月23日
【真実に生きる力】
3年前から、嘘と真実ということが大きなテーマになっていると思う。政府やメディアが一緒になって同じ嘘をつき続け、それを批判する人を弾圧しているというような状況が続いていて、嘘を信じて生きるのか、それとも弾圧を受ける危険を冒しても真実に生きるのかということが、一人一人に問われるようなことになっている。
しかし、多かれ少なかれ嘘を信じさせられて生きていたのは、考えてみればそれよりも前からのことだった。だからある意味、突きつけられた分、はっきりしてよかったとは言える。それまでは、嘘はあって当たり前みたいになっていて、見て見ぬふりをしていたり、あるいは気がつきもしないようになっていた。911のときに、旅客機がまるまる建物の中に吸い込まれるように消えていき、建物がダイナマイトによる解体作業そのままの崩れ方で崩れていく映像を何度も見ていながら、あれが自爆テロだというメディアの報道を、ほとんど誰も疑ってはいなかったのだ。いや、疑うというセンサーがそもそもなかった。メディアが嘘を言うということは、ないことになっていた。真相を知ってしまったら、当時どうしてあんな映像を信じることができたのかと驚いてしまうくらいだけれど。
占星術にくわしい人が、3月23日から冥王星が水瓶座に入るのが、大きな転換をもたらすのだということを教えてくれた。それについてマドモワゼル愛さんが語っている動画を見ると、これは嘘でできていた構造が壊れていくというようなことを意味するらしい。2000年くらい続いたうお座の時代から水瓶座の時代に移ったのだと言われているけれど、それはI believe の時代からI knowの時代に移行していくということなのだと愛さんは言っていた。
この2000年ほどは、世界のいたるところで、もともと縄文的な循環型の世界があったところに、征服支配が行われていって、一極支配のシステムに切り換えられていった時代だったと言える。縄文的な循環型世界では、それぞれの人々、それぞれの民族が、現実的な手応えを頼りにして世界を知り、生きてきたわけだ。それが、征服支配を受けて、一極支配の元に生きるとなると、自分が現実的に目にする真実ではなくて、支配者の言う正義とか真実とかいうことを信じて生きるということになる。人が何を信じるべきかを決めるのが、支配というものだったのだ。それで、宗教がずっと支配に使われてきたけれど、科学とか民主主義とかの時代になったら、今度は科学や民主主義ということが支配者が決める信仰と同じようなことになっていた。だからやはり、「何を信じるか」ということでしかなかったのだ。
だから、この3年ほどは、メディアと政府が嘘しか言わなくなった嘘の時代だとも言えるけれど、そのおかげで嘘がバレるようになった時代だとも言える。実際、おかげでいかにすべてが作られた嘘だったかが見えてきて、真実というものがあるのだということを知った3年間だったとも言える。本当に、それまではあまりにも嘘ばかりだったので、私たちは真実の感触というものさえわからなくなっていて、何を信じるかの問題でしかないのじゃないかと思っていたのだ。どういう主義でものを考えるのかによって、真実の見え方も違うとか、人それぞれに真実は違うとか、そういう風なことを信じていた。その結果、私たちは真実をしっかり追究するということをしないようになっていたのだと思う。それは信条の自由に関わることであって、追究するべきことではないみたいに思わされていたような気がする。
3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、事実とは、視点によって違うといったようなそんなものではなく、まったくはっきりと存在していたことがわかってきた。メディアや政府が真実に従ってではなく、お金で動いていたことがわかったら、すべては視点の違いとかいう問題ではなく、まったくの作られた嘘だったことが次々とわかっていったのだ。そして、嘘がはがれたその下には、しっかりとリアルな手応えのある真実というものが現れてきた。メディアからいかさま師だとか危険人物だのと攻撃されまくっている学者やジャーナリストたちが語るこうした真実を、私たちはこの3年間、むさぼるように吸収してきた。そして、真実と嘘との違いが少しずつ、しかしはっきりと見分けられるようになっていった。
2月22日と28日に、地球の喉のチャクラであるというギザのピラミッドの封印解きセッションをやったのだけれど、驚いたことに、そこで喉のチャクラは実は真実のセンサーだったということがわかってきた。ギザのピラミッドは、喉のチャクラというよりも、第二頚椎を解放するエネルギーだった。第二頚椎というのは、頭の後ろの頭骨のすぐ下のところにある骨だけれど、これが、真実に生きる力と深く関わっていたのだ。
一回目のセッションで、この第二頚椎をピラミッドのエネルギーで開いたときは、喉の上のあたりが宇宙からの光の筋のようなもので繋がっている感覚がして、それが繋がってさえいれば、真実を言ったりしても守られるのだという気がした。地上は嘘だらけで、真実を言ったりしたら攻撃されそうで恐ろしいのだけれど、でも、この第二頚椎と宇宙との繋がりさえあれば、守られるはずだと思えたのだ。
実際、ありとある妨害を受けながらも真実の情報を伝えている人たちは、独特のオーラを発していて、それに守られて生きていっているように思える。自分の魂が命じる通りに生きてさえいれば、不思議な力に守られていくということが実際にあり、波乱な人生を歩んできた人は、それを身体で知っている。だからある意味、世間的にいったら最も危険な生き方に思えるものが、実は最も安全な生き方であったりもする。
一回目のセッションのあとでは、しかしその宇宙との繋がりの筋に必死でつかまることで身を守っていたような感覚だったのだけれど、これが二回目のセッションでずっと安定した感覚になった。
二回目のセッションでは、エジプトの犬の神、冥界の神であるというアヌビスのエネルギーを解放した。冥界の神なのだから、永遠の循環のカギがあるのだろうと思ったのだけれど、皆でアクセスしてみると、それはむしろ真実に生きるカギのようなものだった。アヌビスは死者の魂の不要になった思い込みや闇を喰って浄化し、再生のために準備する神なのだけれど、生きている私たちの嘘を喰ってくれる神でもあったのだ。私たちは、まともな生き方とはこうしたものだといった思い込みをたくさん持っていて、その通りに生きようとして、自分を追い詰めたり、卑下したり、嘘の生き方を自分に許したりしている。それを私たちは「自分の思うように生きる」ことだと思い込んできたところさえあるのだけれど、それもまた、人生のある時点で思い込まされた嘘にすぎなかったことが、アヌビスとアクセスしているうちに、少しずつ見えてきた。
第二頚椎というのは、脳と脊髄のつなぎ目になっているところの骨で、輪っかになっていて、その中を中枢神経の束が通っている。そこのところが、現代人のほとんどの人は、多かれ少なかれ封じ込められているらしい。それで、真実のセンサーが働かなくなっていて、上から言われたことを信じて、それに従って生きていくことになる。映画「マトリックス」で接続コードを繋ぐところも、この第二頚椎のあたりだけれど、そこを封じ込めることで、人をどうにでも操ることができてしまうということなのかもしれない。
自分の魂に従って生きられない人は、第二頚椎がずれていて、そのために慢性的な頭痛や肩こりに悩まされているという話を、ある整体師が書いていた。そういう人の第二頚椎を治すと、まるで水道の栓を開けたように、頭と身体との繋がりができて、頭痛が消える代わりに、人生も変わってしまうのだそうだ。「こういう生き方をするべきだ」というのを刷り込まれている人は、頭と身体が分離しているような状態になっていて、だから第二頚椎のあたりがガチガチになって、骨がずれたりもするのだろう。本当はこんな生き方をしたくないという思いを、自分で押さえ込もうとしてしまうからなのだ。そこが繋がってしまうと、世間に抗ってでも、もう魂が求めるような生き方をするしかなくなってしまう。
アヌビスは、生命のシンボルであるアンクを持っているけれど、あの円と十字がくっついたシンボルこそは、第二頚椎を開くカギなのかもしれない。それで、アヌビスにアンクを使って、第二頚椎を開けてもらうことにした。あのアンクの輪っかが、脳と脊髄の繋がりを保つ管なのだ。あれが第二頚椎のところに入ると、まるで水道の栓が開いたように、流れができる。その結果、脳が溶けて流れて、みぞおちの下まで流れていったようだった。私たちは、頭で考えるものだと思っていたけれど、あれも実は思い込みで、本当はみぞおちの下、ソーラープレクサスのある第三チャクラのあたりで考えるものなのかもしれない。少なくとも、肚で考えているときの方が、リアルな真実の感触とともに生きていけるし、まるで不思議な力に守られて生きていくような状態になるのも、そうしたときだ。頭で考えてもしようがないというような、錯綜した事態の中でも、肚のあたりで考えるモードになっていると、だいたいあとになって正しい選択をしていることがわかる。
私たちは、第二頚椎が閉じて、頭と身体が切り離された状態で、考えようとすると、思考を外から乗っ取られるモードに容易になってしまうのかもしれない。それで、頭が考えて決めたことを、身体に従わせるようなことになっている。まさにピラミッド型支配の構造になっているのだ。それが社会全体の支配構造になっていったのが、この2000年の人類の歴史だった。
ところが、ギザのピラミッドに、この「ピラミッド型支配構造」を解体させるカギがあったのだ。ギザのピラミッドは、米ドルにプリントされている支配システムの象徴としてのピラミッドとは角度が違う。あのピラミッドは、鋭角に高くなっていて、しかも上の部分が離れている。まさに第二頚椎のところで繋がっていないのと同じようにだ。だけど、ギザのピラミッドは底辺が広くて安定感があり、力の中心は頂上の部分ではなく、下から三分の一のところ、つまり肚の部分にある。
第二頚椎が開いて、頭から肚までが繋がっているような感覚になっていると、今まで自分が頭の命令に従って生きてきたことが、もう信じられなくなってきている。嘘だらけの世の中で、真実に従って生きることが、危険きわまりないことのように思えていたのに、それがもう逆転している。結局のところは、どんな嘘よりも真実の方が強い。その力が信じられるようになっていることに気がついた。
水瓶座の時代に移行するプロセスは、すでにパワフルに進行しているのだ。世界は嘘から真実へと向かっている。もはや、誰の言うことを信じるのかといったようなことではなくて、一人一人が真実を知ることができることに気づくのだと思う。皆が真実を元にして生きるようになったら、それぞれ見ているものが違っていても、どっちが正しいかで争う代わりに、突き合わせて全体を知るということができるようになるはずだ。コミュニケーションとは、まさにそうしたことのためにあるのだ。「違いを尊重し合う」というようなことで、あいまいにしたまま、軽蔑し合うようなことじゃなくて、どちらも真実をベースにしているなら、本当の意味で統合することが可能になる。
それが見えてきたら、世界は実はとてもシンプルだというのが見えてくる。シンプルでいながら、奥行きが果てしなく深く、多様な創造を可能にする領域が開けている世界が、もう見えてきている。
2023年3月1日
【喉のチャクラの本当の力】
地球の喉のチャクラだというギザのピラミッドのエネルギーを解放するのは、思ったほど簡単ではなかった。他の場所の封印解きは、だいたい一回のセッションで開いたのに、ギザのピラミッドばかりは、3回のセッションでようやく開いた。毎回少しずつ開いていきはしたのだけれど、何かしらすっきりとした感じがなくて、本来はまだまだ開くはずだと言う気がした。そして今日、3月11日に、3回目のセッションを行なって、ようやくきれいに開いた感があった。
ピラミッドの封印解きを始めてみてわかったのだけれど、喉のチャクラは喉仏の骨と言われる第二頚椎のあたりが重要なポイントらしく、そしてその部分は、真実に生きること、自分の魂に正直に生きることと関係している。喉のチャクラの力とは、まさに真実に生きる力だったのだ。この力の解放にこれだけ手こずったのは、現代社会がいかに真実に生きるということを抑圧しているかということなのだと思う。だから、喉のチャクラの力を解放しようとすると、真実に生きられなかった哀しみや痛みが湧き出てきたり、真実を言うと抑圧されるという恐さが噴き出てきて、なかなか一発ですっきりとは開かなかったのだと思う。
一回目のセッションのあとでは、第二頚椎のあたりから宇宙へと、光の筋のようなへその緒のようなものが伸びていっている感覚があり、とにかくその繋がりさえあれば、真実に生きても守られるはずだというような信頼感を持つことができた。とりわけ3年前から分断と言論弾圧がひどくなった社会で、真実を語る恐怖感が強かった。しかしそれでも、この宇宙との繋がりに守られるはずだと思えたのだ。それはまるで、宇宙からの命綱のように思えた。
二回目のセッションでは、エジプトの冥界の神アヌビスとアクセスしたのだけれど、面白いことにアヌビスは私たちの嘘を喰ってくれたようだった。私たちは今の世の中に生きるために、嘘とも思っていないような嘘で生きるのがスタンダードになっているのだ。こうした生き方、こうした生活をしなければというような思い込みがあって、そうした生き方を自分が望んでいるのだと思い込んでいるのだけれど、実はそうしたものも、世間に思い込まされた嘘にすぎなかったのだ。だからそうしたものも、本当は捨ててしまって、もっと気楽に生きていいのだと思えた。
二回目のセッションのあとでは、何だかもう世間の嘘に合わせているのが嫌になってしまって、それまでだったら黙っているような場面でも、黙っていられなくなってしまった。するとまわりでも、今までだったら言わなかったようなことを暴露している人たちの姿を見かけるようになった。いよいよ真実の力が、嘘だらけの世の中にも通るだけの強さを持つようになったのかと思った。
しかし、エジプトの封印解きを始めてから、何だか地に足をつけるのが恐いような、実際に足が地に着いていないような、妙な感覚を感じていた。意識の世界に初めて開かれるとき、こういう感覚を感じることがある。上は宇宙と繋がっているのだけれど、下は地球と繋がっていなくて、地球と繋がるのが恐いというような感覚がある。それは、多次元的な存在として生まれてきたのに、三次元に制限された世界に生きなければならなかったという、痛みの記憶から来ているのらしい。私たち現代人は、生まれたときから新生児室に入れられたり、保育器に入れられたり、薬を飲まされたりと、多次元性を封じ込められるようなひどい扱いを受けて育つのだ。それで、地上に生きることは、最初からまるで生き残るための戦いのようだ。だから多くの人の中には、こんな世界に生まれてきたくなかったというような、地上の世界への深い嫌悪感が隠れていることがある。
宇宙からの光が、喉のチャクラからハートのあたりまでは繋がっているのだけれど、みぞおちのあたりからの感覚がない。ギザのピラミッドはいつの時代かに封印がかけられていて、そのために軸が通っていないのかもしれない。それなら、ピラミッドが作られた頃、ピラミッドのパワーが本来の状態であった時の時代に戻って、その時のピラミッドのエネルギーにアクセスしようということになった。
それでやってみると、面白いことに、最初からすぐに足の裏が熱くなってきて、下まで軸が通ったのを感じた。それがアトランティスの時代なのか、古代エジプトの時代なのかわからないのだけれど、ピラミッドは表面が白くて、透明感のある素材でできているように思えた。そこは多次元的な世界のようだった。三次元的な世界に生まれてきた痛みの記憶は、そこでは自ずと癒やされていくようだった。エジプト人のような白い衣を着て髭の長い男に人たちがいて、「子供はこのように扱うものではない」と眉をひそめていた。私たちは、三次元に限定された世界に生まれてきたことで、ひどい扱いを受けながら、それを誰もひどい扱いだと思ってくれないという理不尽さの中で生きてきたのだ。その痛みが解けていった。
アトランティス的な整った世界があり、それは多次元的ではあるのだけれど、何か整いすぎていて、生気には欠けているようだった。その一方に、レムリア的な女性的な世界、水の要素、大地の力があるのだけれど、そうしたものとがどうもしっくりと繋がっていないようなのだ。あるいはそれが、アトランティスの時代の問題だったのかもしれない。そのために、アトランティスは水に沈むことになったのかもしれない。
できた当初のピラミッドでも、やはり人工のものだから、本当の宇宙の力のままではなく、何かしら封じ込めてしまっているのかもしれない。それで今度は、ピラミッドが繋ごうとした本来の宇宙の力を解放しようということになった。ピラミッドは、本当はその上に逆さまにしたピラミッドがあるはずで、その中心からトーラス状の流れができるのじゃないかと思った。それで、ピラミッドのところからそういう流れを作ってみることにした。
すると、それで何かが外れたようだった。参加者の顔つきが、急に生き生きして陽気な感じになっていた。まさにそれこそが、アトランティス的な精巧さに欠けていたものだったのだ。完璧だけれど、生気がない。力強い生命力のようなものがない。トーラス状の大きな流れができて、雲が湧き、雨が降り、大地が潤って、川が流れ、地上が緑でおおわれ、花や鳥や動物でいっぱいになった。ムンムンするような生命力で満ちた世界が現れた。
この流れがもう封じ込められることのないように、封じ込めをしっかりと吹き飛ばしたところで、これで地球の喉のチャクラは、本当に解放されたと思った。どんな力が解放されたのか、まだはっきりと言葉にはならないのだけれど、とにかくこれでもう開いたと思った。私たち人間が地上に生きているのは、本当はこの生命力の世界を経験して、それを表現するためなのだろう。アフリカでも南米でもアボリジニたちの社会でも、誰もがアーティストなのじゃないかと思うくらい、人々はきれいなものを作ったり、歌ったり踊ったりするようなことに多くの時間を使っている。それこそは、人間の本来の生き方なのじゃないかと思った。生きるために働くとか、お金を稼ぐようなことのために、私たちは生きているのではないのだ。
土地にはそれぞれ得意とする芸術があり、それはたとえばヨーロッパの音楽の伝統のように、とても深い大きな世界だ。そうしたものが、それぞれの土地にある。その世界が、開かれていくのだという気がした。それこそは、喉のチャクラの力なのだ。生きることがアート表現そのものであるような、そうした生き方をする力だ。
封じ込めが開かれると、そのとき初めて、それまでその力がなかったばかりにどれだけ辛い思いをして生きてきたのかという痛みを感じることがある。セッションが終わってから、大きな安心感とともに、その痛みを感じ始めた。私たちは、この世に生まれてきて初めて喉を使うときに、力のかぎり泣き叫ぶ。それが産声と言われていて、当たり前のように思われているけれど、本当に信頼感の中で生まれてきた子供は、そんな泣き叫ぶような産声は上げないものなのだそうだ。せっかく生まれてきたのに、こんな不快感にさらされて、大声で泣き叫ぶことで、喉のチャクラを使っている。そんな風に始まった人生では、絶えず不快感に耐えることや、泣き叫んで訴えることで、戦い続けるようなことばかりだ。そんな風にして生まれて育ってきたことに、初めて痛みを感じ、それが解けていくのを感じたのだ。
一極支配から多極化の世界へ。生きるために戦い続けなければならない時代は、ついに終わっていくのかもしれない。これまで私たちは、ピラミッド型の支配構造の中で、絶えず戦い、競争して、人を出し抜いたり、出し抜かれたりすることで生きてきた。そうした中で、真実に生きることを忘れ、嘘をつくために喉を使ってきたのだ。まさにその封印こそが、この一極支配の構造を支えてきた。地球の喉のチャクラの封印がついに解けたら、私たちは喉のチャクラの本当の力を思い出すのだろう。そしてそれこそは、一極支配の世界から自分を解放していく力なのだ。
2023年3月11日
地球の頭頂チャクラ
【カイラス山 ー 敵のイメージと頭頂チャクラの封じ込め】
チベットのカイラス山は、地球の頭頂チャクラなのだという。これまで地球のチャクラの封印を解いてエネルギーを解放するのをやってきて、最後にチベットのカイラス山が残った。それで、いよいよカイラス山にアクセスしてみることになった。
頭頂チャクラは、天との繋がり、宇宙との繋がりのセンターで、おそらくは松果体のところから頭頂に向かって開いているのだと思う。それは、高い次元で真実を見通す力であり、自分がこの地上に生きている意味や方向性を与えてくれるセンサーなのだと思う。それは、本来は私たち一人一人が誰でも持っている力だ。
この2000年ほど、地球人類は征服と支配の時代を生きてきたのだけれど、そのために頭頂チャクラはずっと封じ込められてきたのだと思う。支配とはつまるところ、頭頂チャクラを乗っ取って、人を思い通りに動かすことだ。だから、頭頂チャクラを活性化する聖地も、古代から封じ込められてきている。
頭頂チャクラを封じ込めること。それはつまり、真実を見えなくしてしまい、言われるままに向きを変えさせられるようにしてしまうことだ。そのために古代から、恐怖や残虐のイメージが使われてきた。恐ろしい敵がいる、ということを相手に納得させることができれば、その敵と戦うように仕向けることができる。あり得ないくらいに残虐なことをさせることも可能だ。だから古代から、支配のあるところには、つねに恐ろしい残虐な話がついて回っている。
とりわけこの200年ほど、王制から民主制に変わった頃から、国民に戦争をさせるために、「恐ろしい敵がいる」というイメージが戦略的に使われるようになった。現実に存在していない敵のイメージを与えられて、恐怖から動くように仕向けてしまうと、人を過剰な残虐さに駆り立てることができてしまう。ナチス・ドイツは、実はドイツ人にロシアと戦争させるために、英米が工作員を送り込んで作ったものだったというのだけれど、ロシア人は残虐なことをする民族なのだということを、さかんに吹き込んでいたらしい。恐ろしい敵だと思い込まされていたから、ドイツ人はロシアに攻めていって、残虐のかぎりを尽くしてきた。それでロシアは、ものすごい犠牲を払いつつ、ナチス・ドイツからヨーロッパを解放するために戦うことになった。
3年前に始まったパンデミックも、「恐ろしい敵がいる」というイメージを繰り返し与えることによって、ほとんどの人々を恐怖に陥らせ、その敵と戦うために、自分の身やまわりの人間さえ犠牲にするような心境にさせてしまった。それを見ていて、本当に根も葉もないことであっても、恐怖のイメージを与え続けさえすれば、ほとんどの人々に信じさせることができてしまうのだということを、私たちは知った。そして、ロシアのウクライナ侵攻が始まると、今度はロシアが恐ろしい敵だというイメージを与えて、世界中の人々に、自国の経済を犠牲にしても、経済制裁をしたり軍事援助をしたりすることを認めさせてしまった。事実は、ウクライナ軍が自国の人間を虐殺していたのだけれど、それがすべてロシア軍がやったように報道され、それをほとんどの人は信じてしまった。
ところで、ウクライナ人はウクライナ人で、やはりロシア人は恐ろしい敵なのだというイメージを与えられていた。それで、自国のロシア系の人々に対して、想像もできないほど残虐なことをすることができたのだ。恐ろしい敵がいる、と思い込ませることさえできれば、そんなことでもさせることができてしまう。
チベットもまた、頭頂チャクラの乗っ取りによる戦いがあり、残虐行為の記憶のある場所だった。中国政府がチベット民族を残虐な弾圧の仕方をしたという話がある一方で、アメリカの中央情報局が巨額の資金を投じて、チベット民族に中国と戦争させようと工作していたというのも事実だった。本当に残虐行為が行われたかどうかについては諸説あるのだけれど、漢民族が聖人君子ではなかったことも確かだと思う。しかし、「中国人は恐ろしい敵だ」というイメージを与えることで、平和的なチベット人たちに銃を持たせることも可能になる。そして、そうしたやり方は、アメリカ中央情報局の得意とするところでもある。
あるいはそれで、チベット人が銃を持って攻撃してきたので、中国軍が出動することになり、チベット人を刑務所に入れたり拷問にかけたりすることになったのかもしれない。中国は歴史的にも帝国主義的な国で、周辺の異民族を賤民のようにみなしていた時代もあった。漢民族は稲作をする農耕民族で、中央アジアの遊牧民族からつねに攻撃を受けていたから、周辺民族が残虐な蛮族だという思考が昔からあったのかもしれない。それで、チベットが銃を持って攻撃してくるとなると、恐ろしい敵が現れたと思って残虐に応酬することになるのかもしれない。
しかし遊牧民族たちにとっては、農耕民族が土地を専有してしまうのは、死活問題にもなる。遊牧して暮らしていくには、広大な土地を自由に行き来できることが必要だからだ。彼らは土地を独占しはしないけれど、誰かに土地を独占されるのは困る。土地所有をめぐる争いは、アメリカ開拓時代にも、ネイティブ・アメリカンと白人の植民者との間で繰り広げられた。植民者たちにとっては、ネイティブ・アメリカンたちの襲撃は恐ろしかったけれど、彼らネイティブ・アメリカンたちにとっても、土地を専有されてしまうことは死活問題だった。そして、白人の移植者たちは、自分たちの土地を守るためにと、銃をもってネイティブ・アメリカンたちを駆逐していったのだ。
どちらが残虐なのかは、どの物語を切り取って語るかで変わってくる。ウクライナの戦争については、ウクライナ軍が2014年からドンバスを攻撃していた話を語らずに、ロシア侵攻のところから始めたので、ロシアが悪くて残虐なのだという話になった。相手が攻撃してくるところまで挑発したら、「恐ろしい敵だ」というイメージを現実化することができるわけだ。戦争をしかける人たちは、まさにそれを狙ってあらゆる挑発をかけさせる。だから、残虐行為があるなら、何故そうなったのかを、まず確かめるべきなのだ。
第二次世界大戦のあとで、ロシアの占領軍はヨーロッパで暴行のかぎりを尽くしたというので、ヨーロッパでは「ロシア人は恐ろしい」というイメージが染みついている。だから、ウクライナ侵攻のときにも、ロシア軍が残虐行為を行なっているというのを、多くのヨーロッパ人は信じてしまったというのもある。ところで、ロシアの占領軍が暴行のかぎりを尽くしたというのも、ナチス・ドイツがロシアでさんざんに残虐を働いて、ロシアは民間人も兵士たちも、ひどい犠牲を払ったからだった。それで、ナチス・ドイツに家族を犠牲にされた男たちを、占領地に送って、そこで恨みを晴らしてこさせたということだった。もちろん、それがフェアなことだとは思わないけれど、人間というものは、どの民族だからとかそういうことで、意味もなく残虐行為を行いはしないものなのだ。それだけのことを現実にやられているか、あるいはそのようなことをする相手だと思い込まされているかしなければ、人間は残虐なことをしたりするものではないということは、知っておくべきことだと思う。
この2000年ほど、人類は頭頂チャクラを封じ込められ、真実を見る目を曇らされてきた。それで、あれが恐ろしい敵だ、これが脅威だ、とつねに恐怖を掻き立てられて、戦わされるはめになっていたわけだ。向こうに残虐な蛮族がいて、こちらには平和的な正義の人々がいる、というイメージが与えられ、それによって私たちは、つねに何かを守るために戦わされてきた。地球の頭頂チャクラであるカイラス山に、残虐な記憶が染みつけられているのも、この真実を見る力を封じ込めるためだったのかもしれない。これを閉じてしまうことによって、人々に根も葉もないようなことも信じ込ませて、あっちと戦ったりこっちと戦ったりさせることができてしまうからだ。そしてこの2000年ほどは、まさにそうした作られた「敵と正義」の物語で、人々が支配されてきた時代だったと言える。この2000年は、言うならばこうしたプロパガンダによる支配の時代だった。
何が善で何が悪なのか、その概念を集団的に植えつけること。それが宗教であり、イデオロギーであり、プロパガンダだ。しかし今、これから2000年続く水瓶座の時代に入って、そうした概念の植えつけによる支配システムが、崩壊してきているようだ。あるいはそれで、カイラス山の封印解きをするようなことになったのかもしれない。そして、カイラス山の封印を解くとは、私たち自身が、自分の中でこれまでの思考パターンを解体し、新しいあり方を受け入れていくことをも意味している。
残虐なことをする恐ろしい敵の概念は、そこに既成事実があればあるほど、しっかりと固着してしまって、容易には手放せなくなる。だから私たちは、すべてのトラウマをさかのぼって、まだ何の封じ込めも戦いもなかった頃のカイラス山に戻っていって、そのエネルギーと繋がってみた。カラチャクラ曼荼羅のエネルギーを使って、カイラス山を地下のシャンバラ世界と繋ぎもした。頭頂チャクラは、ルートチャクラに恐怖を与えることで、容易に封じ込めることができるからだ。
恐怖や残虐の記憶、罪の意識、そして何よりも、頭頂チャクラの力を使うなど畏れ多いのではないかというような感覚が、カイラス山のエネルギーを解放する妨げになっていた。この2000年の残虐と支配の歴史を、いったいどうしたら解くことができるのだろう? それは、私たち人間には想像することもできないくらいだけれど、宇宙が今、2000年の周期を終えて、新しい時代に入っていくのだから、それは確かに起こるのだろう。
「どんな罪でも赦される」その言葉が繰り返し聞こえてくる。この2000年、私たち人類は、真実を見る目をくもらされて、ありとある愚行、ありとある蛮行をなしてきた。それもあるいは、人類が経験したくてやってきたことだったのかもしれない。何故そんなことを経験したかったのか、それはわからない。あるいは何かを学ぶためだったのかもしれない。あるいは単に、ハンディキャップを乗り越える一種の挑戦として、やってみたかっただけなのかもしれない。
カイラス山のエネルギーを解放して、それと繋がるとき、私たちは自分が真実を見る力を持っていることを思い出し、その力を使うことを自分に許すことになる。それは同時に、この2000年の人類の蛮行の経験をすべて赦して手放すことをも意味している。その経験によって、私たちは今、真実を見る目を持っていることが、どれだけ貴重なことなのかを初めて本当に知るのかもしれない。
これまで私たちは、残虐さを恐れ、憎み、残虐さから身を守ろうとし、誰かを非難し、攻撃してきた。それを認めて、すべての罪を赦す気になれたとき、私たちは本当に愛することを知るのだ。カイラス山のエネルギーを開いたとき、頭の中央の松果体のあたりに、水晶のような透明な光が灯るのを感じた。その光が、宇宙から頭頂を通って入ってくる、真実を見る力なのだ。それは、上から見下ろすように見る力ではなくて、ありのままの現実を目の前に見ること以外のものではなかった。目の前にいる相手が、鬼でも悪魔でもなくて、ただの同じ人間だということをだ。そのとき初めて、私たちは本当にハートが開く経験をする。そのとき初めて、愛がハートから自然に湧き出てくるのを知る。そのために、私たち人類は、この2000年の残虐の歴史を経験してこなければならなかったのだとしたら、このすべての罪を、私は赦すことができる。
2023年3月24日
【闇の中でこそ、進んでいく道がよく見える】
地球の頭頂チャクラだというチベットのカイラス山のエネルギーを解放する封印解きセッションをやったあとで、頭頂チャクラのエネルギーとは、意外にも現実をありのままに見る力にすぎなかったことがわかった。頭頂チャクラの力といったら、宇宙から次元を超えた知覚とかが得られたりするんじゃないかと、思っていた。しかし、まさにそうした思い込みこそは、カイラス山の本当のエネルギーを封じ込めていたのかもしれない。そうした思いが、私たちをスピリチュアルの上昇志向に駆り立ててしまい、そのためかえって自分自身が見えなくなり、現実が見えなくなってしまうのかもしれない。
カイラス山のエネルギーを重苦しくしているものは、まさにそうしたありのままの自分自身から離れていこうとするような上昇志向であり、特別意識だったような気がする。
カウアク(青い嵐)のウェイブスペルの初日に、カイラス山にもう一度アクセスして、エネルギーを解放するセッションをやろうと思ったのは、カウアクのエネルギーには古い構造を突き崩してしまうような、パワフルな浄化の力があるからだった。カイラス山はカイラス水晶という特殊な水晶の産地だということなので、つまりは水晶の力なのだろう。その水晶を意識の力で浄化するようなことをしたらいいんじゃないかと思った。
水晶の浄化には、月の光に当てるのがいいということがよく言われている。月の光は太陽の光と違って、光子が柔らかいので、水晶は光子を吸収していくことができ、それによって水晶の波動が整うのだということだった。それで、カイラス山の水晶に満月の光のエネルギーを送るイメージを作って、浄化してみることにした。
すると面白いことに、カイラス山に満月の光が当たったと思ったら、カイラス山のイメージが消えて、自分の頭の中に満月がすっぽりと入ってしまったかのようだった。カイラス山も自分の松果体も同じものだというのだ。だから、自分の松果体が満月で浄化されれば、カイラス山も同時に浄化されるのだと。それで、頭の中の満月の光を感じていたのだけれど、すると頭がぼんやりして、眠り込んでしまいそうだ。私たちは、頭で考えようとしすぎているのかもしれない。本当はこんな風にぼんやりしている方が、松果体の知覚は研ぎ澄まされるのかもしれない。もっとぼうっとしていればいいのだと、頭の中の月の光は言っているように思えた。
水晶はケイ素でできているけれど、私たちの松果体にもケイ素が入っている。植物にも動物にも、ケイ素は含まれていて、だから地上の生き物は皆、身体の中に水晶の力を持っているのだ。それで、地上のすべての水晶、すべてのケイ素に月の光を送ってみることにした。月の光が当たると、波動がもともとの状態に戻るというか、整う感じになるのかもしれない。浄化というと、汚いものが排除されるみたいだけれど、何かが排除されるというよりも、整ってもともとの状態に戻ると言った方がぴったりくる。もともとあった力が整って動き出す。水晶と水晶は、たがいに繋がってコミュケーションし始めるようで、カイラス山が活性化して輝き始めたら、シャスタ山や富士山も輝き始めて、互いに光で繋がっていくようだった。光が龍のように空を飛んでいくようでもあり、まるで地下水のように地下を通って光り輝く水で繋がっているようにも見えた。そんな風に世界中の水晶が、光のネットワークで繋がっていった。それで世界中がキラキラと輝き始めた。
時空を超えてテレパシックなコミュケーションができるのは、この水晶と水晶の繋がりのおかげなのかもしれない。私たちの松果体の中にあるケイ素がたがいに交信し合い、動物とも植物とも鉱石とも、地球外の生命体とも、自在に繋がってコミュケーションすることが可能なのだ。この力は、誰でも生まれつき持っている。ただ月の光に当てて、活性化すればいいだけのことだったのだ。
20世紀に入ってから、電灯というものができて、私たち人間の生活から本当の闇というものが消えてしまった。都会に住んでいたら、闇の中では月の光がどれだけ明るいものなのかも、知ることがない。満月の光がどれだけ強いものなのかも知ることがない。夜の海で船を操縦する人は、月の光があれば、航路がはっきりと見えるというのだそうだ。電灯のないところで生活したことがある人は、目が慣れると、月がなくても、植物が光って見えるので、道がわかると言っていた。しかも、メガネをしていない方がその光がよく見えるのだそうだ。その植物の光というのは、目で見る光なのではなくて、私たちの松果体が知覚する光なのかもしれない。その知覚を、電灯の光の中で生活することによって、私たちは忘れてしまっているのかもしれない。電灯の光がなかった頃の人たちは、誰でも植物が光って見えることを知っていて、精霊だとか龍だとかが光を放つのも当たり前に見ていたのかもしれない。
本当の闇を知り、本当の月の光の明るさを経験したら、私たちは誰でも自分自身の松果体の知覚を取り戻すのかもしれない。それは、いつどこにいても、自分が進んでいくべき道がはっきりと見分けられるといったような力なのだろう。野生動物は、どこをどう進んでいくべきなのかを、直感的に感じ取る。そんな風に、私たちもどう進んでいくべきなのかは、松果体の中の水晶がつねに示してくれているのかもしれない。そしてそれこそは、つねに宇宙に導かれていっているという感覚なのだと思う。
それで、意識のイメージの中で、世界中から電灯を消して、真っ暗な闇と月の光とを浴びさせて、地球上のすべての人たちの松果体を目覚めさせてみることにした。それは、言葉にしがたいような感覚だった。たしかに、本当の闇と本当の月の光の力を経験したら、私たちは一度に松果体の力を取り戻すのだろうと思えた。それは、自分自身と深く繋がったような、しっとりと落ち着いた感覚で、何がいいのか悪いのか、自分がどう進んでいくべきなのか、その都度はっきりと確実に知ることができるのだろう。この力を世界中の人々が取り戻したら、支配も戦争ももう起こることがなくなるのだろう。そのことが、まったくリアルなこととして、感じられた。参加者のオーラが変わって、頭の真ん中の、松果体のあたり、喉の上のあたりに水晶のような光が灯ったように見えていた。
これが頭頂チャクラの力だったのだ。上から降りてくる情報をキャッチするというようなものではなくて、私たち自身の中にある知覚を思い出すようなことだった。現代の私たちは、情報は外から来るものだと思い込んで、外へ外へと意識を向けさせられていたので、つねに道を誤り、道に迷い続けるようなことになっていたのだろう。その力がついに解放されるときが来たということなのだろう。
この二回目のカイラス山のセッションのあとで、ブータンのチベット仏教僧ラマ・ギュルメの声明をフランス人の音楽家ジャン・フィリップ・リキエルがアレンジした「祝福の雨 rain of blessings」という曲のことを思い出した。私はこの音楽を16年前に初めて聞いて、それ以来チベットといったら、私にとってはまず第一にこの曲だったのに、二回目のセッションが終わるまで一度も思い出さなかったなんて、どうしたわけなのだろうと思った。いや、思い出しはしたのだけれど、何か違うような気がしたのだと思う。だけど、二回目のセッションで、松果体の水晶が灯った感覚になったら、この曲がぴったりと来たのだと思う。
この声明は、地球上どこへ行っても、必ず宇宙に導かれていることを信頼できるというようなエネルギーだと思った。松果体の水晶が灯る感覚とは、まさにそうしたものだった。宇宙の受信器が頭の真ん中のところにあって、いつでも導かれているということ、それは導かれていると同時に、導いている宇宙もまた自分自身だというような、不思議な感覚だ。
チベット仏教では、金剛杵という奇妙な形をした法具を使うけれど、そのミニチュアのものを隕石で作ったお守りがある。それを持っている友達がいて、前に手に持たせてもらったことがあるのだけれど、そのエネルギーは、ラマ・ギュルメの「祝福の雨」とまったく同じだと思った。地球上どこに行っても、必ず宇宙に導かれているというような、泣きたくなるような感覚だった。ところで、この曲には、「ヴァジュラの歌」という副題がついているのだけれど、そのヴァジュラというのが、あの金剛杵のことだということを、今初めて知った。だから、友達が持っているあの法具が、この音楽とまったく同じエネルギーを持っていたのだ。そして、それこそは、カイラス山の水晶であり、私たち誰もが持っている松果体の水晶の光だったのだ。
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ラマ・ギュルメとジャン・フィリップ・リキエルの「祝福の雨 ー ヴァジュラの歌」
https://www.youtube.com/watch?v=CSGaZw0qlj8
2023年4月22日
地球のゲート ー バリ島
【アグン山 ー 時間の扉が開いた】
復活祭前の金曜日は聖金曜日といって、キリスト教ではナザレのイエスが十字架にかかった日だとされている。復活祭というのは、春分の後の最初の満月のあとの日曜日なのだけれど、春分と満月というこの繋がりが、何かしら天候にも作用するらしく、毎年だいたい復活祭が終わると、もう霜が降りることもなくなり、確かに春が来たという感じになる。
そうしたこともあって、復活祭前の一週間というのは、光と闇が争っているような、不思議な感覚がある時だ。ちょうど太極図の陰と陽とが、陰から陽へと切り換わっていくときのように、少しずつ目立たないように変化していくのだけれど、陰が優勢の時から、ついに陽が優勢になる切り換わりの時というのは、確かに何かが決定的に切り換わったという感覚がある。冬から春への切り換わり。復活祭前の一週間というのは、そうした切り換わりの直前の、モヤモヤした不安と期待の入り混じるような時期なのだ。そしてその感覚が、まさにナザレのイエスがエルサレムに入った瞬間から、十字架にかかって復活するまでの、緊迫した感覚と重なっている。
その聖金曜日に、地球のレイラインの交差地点であるバリ島の封印解きをやろうということになったのは、意図したというよりは、流れでそうなっただけなのだけれど、単なる偶然とは思えないものがある。実際、この日ほどぴったりした日はなかったことが、あとになってはっきりとわかった。それはまさに、闇から光への切り換わりを確かに記したようなセッションだった。
バリ島の聖地といったら、アグン山という火山に違いないという。バリ島は、ある時期にヒンズーの僧がやってきて、アグン山の麓に寺院を作り、それがバリヒンズーの総本山になった。バリ島は、地球のバランスが崩れた時、それを調和させる力がある、とその僧は言ったそうだ。
光と闇のバランスを取る力。バリ島の力はそうしたものらしいのだけれど、光も強ければ闇も強いといったようなところがあり、そのエネルギーを解放するのは、容易なことではないように思えた。とにかく闇の深さが半端ではないように思え、その深さに飲み込まれてしまいそうに思えた。
順番からいったら、オーストラリアのウルルのあとでバリ島ということになるのだけれど、バリ島の封印解きをすると考えただけで、気が重くなり、身体まで重くなってくるようだった。それで、先に地球の喉のチャクラであるというエジプトのピラミッドを開けることにしたのだ。その頃から、封印解きは難航するようになった。一回でスカッと開く感じではなくて、エジプトは3回もセッションをやって、ようやく開いた。そのあとチベットのカイラス山を開け、それから石油のエネルギーを解放したりもした。そのたびに、何かが開いた感覚はあるのだけれど、何かしら重いものが引っかかっている感をずっと引きずっていた。それは、封印解きのメンバーの多くも感じていた。
エジプトとカイラス山をやり、石油のエネルギーを開けたあとで、それじゃいよいよバリ島を開けようということになった。ちょうど一週間後が聖金曜日だったから、その日にバリ島だということになったのだ。光と闇の切り換わりというテーマからして、ぴったり合っていると思った。ところで、いざやろうとしたら、この間まであれほど重く思えていたアグン山が、びっくりするくらい軽くなっていたのだ。同じ画像を見ているのに、とても同じ画像だとは思えなかった。見るだけであんなに気が重かったのに、それが嘘のようだった。
他の場所を開けていると、何もしなくても一緒に開いてくるということがある。富士山でも、そういうことを経験した。あのときは、諏訪神社と八ヶ岳の縄文の遺跡を開けたら、富士山が見違えるように軽くなっていたのだ。レイラインで繋がっているところは、他のところが開くと同時に開いてきたりする。バリ島でも、どうもそうしたことが起こったようだった。
アグン山の画像から、そのエネルギーを感じ取ってみると、意外にも男性的な力を感じた人が多かった。山の上から地底の方へ入っていってみると、光がある明るいイメージがあり、そこにいる存在は、地下世界の王、地獄の閻魔さまとか魔王とか悪魔とか言われるような存在のようなのだけれど、それは慈愛そのものの力だった。
私は、15年くらい前に、私がメフィストと呼んでいた悪魔と初めてコンタクトしたときのことを思い出した。そのとき私は、悪魔と呼ばれる存在を目の前にしていることに気づき、この存在の前では、逃げも隠れもできないことを感じた。抵抗しても無駄な相手に出くわしたときに、生き延びる唯一の手段は、完全に無抵抗になることだ。現実は私たちの意識が作っているので、完全に無抵抗になっていれば、何者にも傷つけることはできないからだ。それで私は、悪魔の前で、完全に無抵抗になって、「捕まえるなら捕まえなさい」と言ったのだ。その瞬間、メフィストが私を抱きすくめて、泣いているのがわかった。何ということだろう。悪魔とは、すべてを許す慈愛の力そのものだったのだ。メフィストは、やっとわかってくれる人に出会ったといって、喜びのあまり泣いていた。
アグン山の地下にある力、その存在は、それと同じものだった。悪魔とか閻魔さまとか呼ばれるような存在だ。そこでは、どんな嘘もすべて見抜かれてしまう。だけど、そこではすべての罪は赦される。アグン山の下の悪魔に出会ったとき、人は自分では嘘とも思っていなかったような嘘が、はっきりと見えてしまうような体験をする。自分に対するある種の不正直さ。世間では当たり前だからとか、こういうのがいいと言われているからと、押しつけられた価値観で自分を評価する癖が、私たちにはついてしまっている。それで、本当には自分の魂が命じることではないことを、自分が望んでいるように思って、やっていたりする。アグン山の地下では、そうした嘘までもが、閻魔さまに見通されるように、はっきりと見えてしまうのだ。
罪でも罰でもなく、ただそのことに気づいたとき、私たちはこの地上に生まれてきた本当の意味を思い出す。まだ世間の常識だの価値観だのに毒されていなかった子供の頃の無邪気な心を取り戻して、世界が再びまっさらな無垢なものとして存在し始めるのを感じる。そのとき、私たちはまるで新しい命をもらったかのように、新しく人生を始めていけるのだ。
今、世界は悪魔主義者たちによって支配されている状態なのだけれど、あの悪魔主義者たちは、本当の悪魔を崇拝してなどはいない。彼らの問題は、まさに本当の悪魔と出会えていないということにあるとさえ言える。悪魔に出会うとは、自分の魂に対する正直さを思い出すことそのものだ。あの悪魔主義者たちに、決定的に欠けているものとは、まさにそれなのだ。彼らは、恐怖のエネルギーによって支配され、自分の魂への正直さから切り離されてしまっている。そのために、攻撃性や人を傷つけたいという悪意が、自分より弱い相手へと向かっているのだ。あの人たちは、子供を虐待することに、無上の喜びを感じている。それは、攻撃性の力を、自分のためにまったく使えていないということを意味している。攻撃性とは、自分や家族の身を守り、自由を守るためにこそ使うべきものであり、そうした使い方をするときには、どんな残虐さであれ、愛そのものから来る。ところが、あの悪魔主義者たちは、その力がまったく使えなくされている。組織の中で恐怖によって支配されている。だから、攻撃性や悪意が、誘拐された子供みたいな、まったく無力な存在へと向かってしまうのだ。
しかし、もしすべてに意味があるのだとしたら、そうした悪魔主義者が世界を支配したことにもまた、何かの意味があるのだろう。闇が深くなれば、光もまた強くなる。この2つは、つねにそうやってバランスを取っている。今、あの悪魔主義者たちに、あり得ないくらいにいじめ抜かれているのが、プーチンとトランプなのだけれど、そこまで追い詰める人々がいるからこそ、私たちはこれほどまでに見事な返し技を見ることができているのだと思う。トランプは、でっち上げられた罪で起訴されて、起訴内容も知らされないままに、ニューヨークの裁判所に出頭させられたのだけれど、彼はそこまで汚いやり口を使われたことで、実に見事な返し技をかけてきた。まるで大統領のように、専用機でニューヨークに出かけ、黒リムジンの行列で裁判所に出向いたのだ。そして、フロリダに戻ってくると、皆の前でスピーチして、この起訴に関わった人々のことを、誰がどこからどういうお金をもらって何をしたのかと、暴露しまくっていた。それで、トランプの人気は逆に上がってしまったくらいだ。
どうにもならないようなところまでとことん追い詰められて、それでも自分の魂としっかり繋がって生きていこうと決意したとき、人はこれまで使わないでいた力を使ってしまうのだ。そのとき、追い詰められ切っていたはずの人間が、世界を引っくり返してしまうような力を発揮する。それは、あまりに逃げ場のないように固められてしまったので、その世界の構造そのものを破壊してしまうしかないというかのようだ。闇の支配というものに、もし意味があるのだとしたら、そこまで人を追い詰める役を演じるからなのだと思う。それによって、これまでの世界を破壊し、新しく作り変えるためなのだ。
同様にプーチンは、経済制裁かけられてガチガチに固められたからこそ、アジアやアフリカの国と経済協力関係を結び、結果的に米ドル支配を破壊してしまうことになった。今や、ロシア経済はますます好調で、アメリカは経済的に崩壊寸前だ。とことん追い詰められたときに、それでも従ってしまうのではなく、自分の魂に正直に生きようとしたら、私たちはこうした力を手にするのだ。これまでの世界の構造を引っくり返して、新しい世界を生まれさせてしまう力。そして、まさにこうした力こそは、本当の悪魔の力、アグン山の力だったのだ。
アグン山の力とは、無価値感や虚無の感覚とは、正反対のものだ。そうした虚無の感覚は、アルコールとかの依存症と関わっている。アボリジニたちは、伝統的な生活を奪われて、年金をもらうようになってから、生きている意味がわからなくなり、多くはアル中になってしまったそうだ。自分の人生に意味がないという感覚こそは、最も人間を堕落させてしまうものなのだ。
世界を支配している悪魔主義者たちは、まさにこの虚無感、無価値感によって支配されているのだと思う。彼らは自分の魂に従うのではなく、組織の意志に従っているのであり、組織が与えてくれる報奨とかお金とか快楽とかをいわば人生の糧にして生きているのだ。それは本当の充足ではないから、依存状態になる。いくら得ても、満足できない状態になる。
悪魔主義者たちに支配されている私たちもまた、多かれ少なかれその状態になっている。私たちはこれまで、外からもらえる報奨だとかお金だとか、そういうものを人生の価値のように思って生きてきたようなところがある。社会的な地位だとか、稼いでいるお金の額だとか、所有物とかでだ。だけどそれは、つねに虚無感と隣合わせだ。そういうものが入ってこなくなったら、私たちはとたんに自分には価値がないのかと思い始める。
だけど、アグン山の悪魔との出会いとは、そうしたものをすべて捨ててしまって、ただ自分の魂に正直であるときに、外からの承認も報酬も何もなくても、人生そのものにすべての価値があり、意味があることがわかるといった力なのだ。そして、その力こそは、悪魔主義者に支配されたこの世界を、解放するものだ。
それで、アグン山のその力を、火山が噴火するみたいに解放して、世界中に降らせてみることにした。すると、その水晶のように白い光は、山から噴き出すのではなくて、柔らかに外に出ていって、粉雪のようにサラサラと天から降ってきた。人々の心臓の中に、その雪のひとひらのような光が入っていき、それが人の心にその白い光を灯していくようだった。
そのとき私は、ミヒャエル・エンデの「モモ」のラストで、盗まれた時間の金庫が開いて、生きた時間がその持ち主のところに戻っていく場面を思い出した。アグン山のエネルギーを解放したとき、起こったことは、まさにそれだった。私たちが奪われていたものとは、生きた時間だったのだ。エジプトのピラミッド、チベットのカイラス山と開けてきて、ついにあの盗まれた時間が解放されたのだと思った。
2023年4月7日
【アグンの悪魔 ー 音楽と詩の朗読】
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM0165-Bali-Agung-osamu-naoko-chihiro.mp3
ピアノ即興演奏 Osamu Fujikawa
朗読と歌 Naoko Fujikawa
詩 佐藤シューちひろ
***
【アグンの悪魔】
バリ島の聖なる山
アグンの山の中に棲んでいる神を
人は悪魔と呼んでいる
それは忘れられた力
禁じられた力
世界を新たに生み直す力
アグンの悪魔は、山の中に潜んでいた
忘れられて、誰も呼ばなくなって
ずいぶん長い時が経っていた
***
殺してやろうか? 滅ぼしてやろうか?
僕は君の味方 君が君を大事にするその愛に
僕は頭を下げるんだ
憎しみの念も 怨みの思いも
君が自由と誇りを大事にするからこそのもの
それが君がこの地上に生まれてきた意味だから
どんな憎しみも怨みの念も
それが愛から来ているのを
僕は知っている
その愛を抱きしめていたら、
どんな闇の底へでも降りていける
君の心は天使のように純粋だ
闇の底の底まで、一緒に行ってあげる
愛をしっかり放さないで
降りていけばいいんだよ
さあ、一緒に行こう 禁じられた闇の世界へ
憎しみの念も 怨みの思いも
君の自由と誇りを守るためのもの
君がこの地上に生まれてきた意味を
生きるためのもの
***
君が本当に望むなら
僕は世界だって滅ぼしてあげる
どれだけの苦しみを
この世界は与えてきたことだろう?
君が本当に嫌だったら
僕はこの世界だって滅ぼすよ
どれだけの報われない苦しみを
どれだけの裁かれない残虐を
この世界は許してきたことだろう?
もう終わりにしてしまいたかったら、
僕は世界を丸ごと沈めてあげる
だけどその前に、君に知って欲しいんだ
この世界を新しく生み直す力が
君の中にあることを
世界は自在に形を変える
その力が今まで封じ込められてきた
世界はつねに調和へ向かう
その力が禁じられてきた
それは誰もが持って生まれてきた力
その力を思い出すときがくるとき
世界は再び新しくなる
****
アグンの悪魔は
忘れられていた神
それは世界を
生み直す力
君の自由と
誇りを思い出せ
君が地球に
生まれてきた意味を
アグンの悪魔の
力を思い出せ
愛を抱きしめて
闇に飛び込め
それは調和を
作り出す力
それが世界を
生み直す力
地球のゲート モスクワ
【モスクワが最後の封印だった】
モスクワは、地球の赤道線に沿って大きく蛇行していく2本のレイラインのうち、雌ドラゴンのレイライン上にあるゲートの一つであるという。雌ドラゴンのレイラインは、イギリスのグラストンベリー、南米のチチカカ湖、オーストラリアのウルル(エアーズロック)、バリ島、チベットのカイラス山を通って、モスクワを通過して、北欧を通ってイギリスに戻っていく。このレイライン上で、モスクワは地球の頭頂チャクラであるというカイラス山と、地球のハートチャクラであるというグラストンベリーの間にある。モスクワのゲートは、他のチャクラとゲート合わせて12ヶ所のすべてが整ったときに、初めて開く13番目のゲートだということだった。
モスクワは、グラストンベリー(西)とカイラス山(東)を結ぶポイントにある。モスクワは、ヨーロッパ的なところがある一方、中央アジアにも接していて、トゥルク系の遊牧民族に支配されていた時期もある。歴史的に、西と東とをいかに調和させるかが、モスクワの課題であり役割であったらしい。モスクワのシンボルは、龍を退治する聖ゲオルギウスなのだけれど、トゥルク族は龍神を崇拝している民族で、龍をシンボルにしている。ヨーロッパにも聖ゲオルギウスを祀っている教会はたくさんあるけれど、聖地がある場所は、実はもともとケルトの龍神の聖地なのだ。それがキリスト教化したときに、龍を退治する聖人の聖地になる。つまり、聖ゲオルギウスとは、ケルト民族を征服したということを意味すると同時に、もともと龍の聖地であったことも示している。
モスクワの衛星画像から、モスクワのエネルギーを皆で感じ取ってみると、ハイハートから第三チャクラのあたりが共振し始めたようだった。脈動するような感覚で、心臓が活性化し、流れができる。エネルギー的には意外と明るくて、太陽のような黄色の明るい光を感じた。陽のエネルギー、第三チャクラのエネルギーだ。レイライン上を東からも西からも流れが来ていて、モスクワのところでぶつかっているようだった。そして、そこで渦巻きができて、まるで発電機のようにものすごいパワーを発している。それがモスクワから周囲へとエネルギーを送っているかのようだ。
それはまさに、プーチンのロシアがやっていることそのもののようだ。ロシアはあっちこっちから攻撃を受けながら、その力に抵抗するのではなく、合気道のような具合に、受け流しながらクルリと回してしまい、ますます強くなっていく。外から加えられる攻撃の力で、相手が勝手に倒れていってしまうのだ。そして、その力を使って、次々と変化を起こしていっている。プーチンは柔道の達人でもあるのだけれど、彼が柔道をする動画を見ていると、投げられ方が実に鮮やかだ。負けるか勝つかなどは重要ではないのだ。攻撃の力をやんわりとした力に変えてしまう技。そのあり方は、モスクワのあり方そのものなのかもしれない。
モスクワを中心にしたうず巻きのような流れのイメージのあとには、まわりにいくつもの小さなうず巻きができていくイメージが現れていた。モスクワを中心にした世界ができ上がるのではないのだ。モスクワの力によって、まわりに多極的な世界が生まれていく。それは、踊っているような跳ね回っているような、陽気なエネルギーだった。それがモスクワのまわりにできていく。
モスクワの地下には、モスクワの聖人である聖ゲオルギウスが退治している黒い龍が封じ込められているのかもしれない。それで、地下の方に意識を向けて、龍を解放してみることにした。意識で地下に入っていくと、黒い龍のようなものがいる。それに外に出てもらうと、地面から空に上がって、黒い雨になって世界中に降ってきた。それは悪いもののようにも思えたけれど、黒い雨が身体に入っていくと、それが何かを浄化してくれているらしい。その黒い雨は、世界中に蔓延している邪悪さを浄化しているようだった。
この100年、200年ほどの間、世界はお金によって支配されてきた。人に害をなせば、必ず返ってくるという因果応報の力が、お金によって機能しないようにされていたのだ。そのために、この200年ほど、世界に悪がはびこり続けてきた。モスクワの地下に封じ込められていた黒い龍とは、まさにこの因果応報の力のようなものだったらしい。その黒い雨が世界中に降り注いで、世界の邪悪さを溶かし、洗い流していた。
モスクワの黒い龍、この邪悪さを溶かす黒い力とは、これまで封じ込められてきた闇の力だったらしい。私たちはこれまで、いかに不正になことが行われても、怒りを表したり攻撃したりすることはよくないとか言われて、不正を正そうとする力を抑え込まれてきた。善悪二元論でものを考えるのはよくないとか、正義などというものはないとか言われてきた。それで、すべてを受け入れて赦すべきだと言って、飲み込んできたのだ。まさにそのために、邪悪さが留められることもなく、はびこり続けてきた。その闇の力、自分を守るために攻撃の力を使う力が、解放されて、モスクワの地下から世界中に噴き出したのだ。その力が、お金にしばられて本来の自分を生きていなかった人々を浄化し、解放していた。
モスクワのゲートは、地球のすべてのゲートが開いたときに、初めて開く。それは、世界を新しくする力だった。2000年の魚座の時代が終わり、水瓶座の時代に入ったというのだけれど、その水瓶座に入ったときの世界の転換のゲートが、モスクワにあったということらしい。
まさに、それが今起きていることなのだ。モスクワの龍が目覚めた。そのため、これまでの支配構造を作り出していた力が、モスクワを中心にして、次々と解けていっている。この力を抑え込もうとすればするほど、抑え込もうとする側の支配構造がますます崩壊していってしまうのだ。かくして、ロシアの経済をつぶそうとしたアメリカは、逆に米ドルの価値を地に落すようなことになってしまった。モスクワは、今まさに世界の浄化装置のようだ。これまでの世界を支配してきた邪悪さのすべてが、モスクワに飲み込まれて、消えていっている。
2014年にクリミア紛争が起きたとき、「これが最後の戦争になる」というメッセージを受け取っていたことを思い出した。あのときはまだ主流メディアの報じることを信じていたので、一体何故そのようなことになっているのかわかっていなかったのだけれど、この戦争によって、東西の軍事力がすべて吸い込まれるように消えていき、それでもうすべての戦争は終わるのだということだった。この戦争は、世界中のすべての攻撃性を燃やし尽くすためのプロセスなのだと。
しかしあのあとも、世界中で戦争が起き続けていて、あのとき受け取ったメッセージはやはり本当ではなかったのかと、私は疑っていた。しかし、一年前にウクライナの戦争が始まったとき、2014年に始まった戦争が実はまだ終わっていなかったということを知ったのだ。クリミア紛争とは、2014年にキエフで起きたマイダン革命から始まった、反ロシア運動の結果起こったことだった。ロシアがとつぜんクリミア半島を占領しようとしたわけではなかった。マイダン革命でできたキエフ政権がクリミア半島を挑発的に攻撃したので、ロシアが軍事介入して、併合することになったのだ。
あれから8年、ウクライナ東部のドンバス地方で戦闘が続き、一年前にロシアが再び軍事介入することになった。それ以来、西側の軍事力のすべてが、ウクライナに投入され、破壊されていっている。もうNATO諸国には、ろくに武器が残っていないという。そして今、米ドル支配が世界的に崩壊していっており、この流れはもう止まらないだろう。米ドル支配が終わるとともに、米ドルと依存関係になっていた軍備競争も終わりになる。それによって、絶えず隣の国の軍備を恐れて敵対し、自国の軍備に投資する必要ももうなくなるのだ。
だから、2014年に受け取ったメッセージは、やはり本当だったのだ。ウクライナですべての戦力は破壊される。それ以降、世界でもう戦争が起きることはない。
モスクワの龍を解放したあとで、今度はモスクワのゲートのエネルギーを世界中に送るために、モスクワを中心にして、トーラス状の流れを作ることにした。モスクワの地下まで、ずっと流れを作り、それが上に噴き出すか、下に吸い込まれていくか、その両方の流れを作って、地球全体をぐるぐる回してみた。
すると、トーラスができたと思った瞬間、トーラスではなくて、自分の身体の中ですみずみまで流れができたのを感じたのだ。それは、「身体を取り戻す」といったような感覚だった。まるで身体中のすべての細胞が、急にリアルに自分自身のものとして感じられるようになったかのようだ。これまで私たちは、身体のある一部だけを、自分のものとして感じていたのだ。そして、そのことに気づいてもいなかった。それ以外の部分は、まるで自分の物ではないかのように、何か外の力に支配されていたのだ。身体のすべての細胞に血が通い始めたように生き生きとして、そのすべてが自分の自由になるというリアルな感覚があった。心臓が開いて、パワフルに動き、それが身体中の細胞に血液を送っているのを、すみずみまで感じることができるかのようだ。
参加者の顔も、しっとりと落ち着いて、本来の自分を取り戻したといった感じになっていた。私たちはこれまで、お金に支配されて、本来の自分を生きることができていなかったのだと思う。そのお金に対するこだわりのようなものが、モスクワのエネルギーが解かしてくれたのだ。
世界中が無数の小さな色とりどりの光で、宝石のように輝き始めた。これまでの世界は、文化芸術も商業的なトレンドが作られて、皆が一つの同じものを消費するという形だった。そういった形の文化はもう終わる。その代わり、それぞれが本来の自分を取り戻して、本当の表現をするようになり、それが世界的なネットワークで拡散されていくので、それが無数のキラキラした宝石のように見える。誰も何か別のものになろうとなどせずに、ただ本来の自分を生きているだけで、そうした美しい宝石のような表現を作り出している。これが、水瓶座的な多極化世界であるらしい。
それは、日常的ないたるところに宇宙空間が現れたかのようでもあった。すると、参加者の多くが、額の上のあたりがオーラが開いたように明るくなっていることに気がついた。サードアイがあるという眉間のあたりよりも、少し上のあたりなのだけれど、サードアイが開くとは、実はこういうことなのかもしれない。地球のサードアイのチャクラは、固定した場所ではなく、今のところはグラストンベリーが兼ねているということだったのだけれど、新しいサードアイチャクラは、ゲートが開いたモスクワだったのかもしれないと思った。身体のすべての細胞が本来の状態になって初めて、サードアイが開いたのだ。サードアイは開けようとするべきものではないという話があったけれど、こういうことならば、納得がいく。サードアイとは、そこだけ開けようとしても開くものではなく、身体のすべてが開いたときに、自然に開くものなのだ。
地球の12のゲートのすべてが整ったときに、モスクワのゲートが開く。それは、身体のすべてのチャクラが開いて、流れが整ったときに、サードアイが自然に開くというのと同じようなことだったのかもしれない。モスクワのゲートが開き、サードアイのチャクラになったとき、世界中でサードアイが開いて、それぞれが本来の姿を取り戻していく。モスクワが世界の多極化へのきっかけを作ったわけなのだけれど、それは、モスクワが世界中のサードアイを開けていくからなのだろう。新しいルネサンスとは、まさにこのことであるらしい。
2023年4月15日
【モスクワ ー エゴの時代が終わる】
モスクワの封印を解くセッションのあとで、身体を取り戻したというような、不思議な感覚がしていた。モスクワのエネルギーは、あえて一言で言うならば、自分軸のエネルギーとでも言うべきものだった。自分自身であろうとして、自分を自分でないものにしようとする力に抵抗するための力だ。この2000年の支配の時代で、それこそは封じ込められていたものだったのだ。
グリム童話に「漁師と女房」という話がある。ある貧しい漁師がヒラメを捕まえると、ヒラメが人間の言葉を話して、放してくれたら、何でも願い事を叶えるからと約束する話なのだけれど、あの話を思い出した。漁師は何も願わないでヒラメを放してやるのだけれど、帰ってその話を妻にすると、妻がきれいな家を願って欲しいという。それで、きれいな家をもらうと、今度は城が欲しいといい、女王になりたいといい、皇帝になりたいといい、法王になりたいという。ヒラメはそのすべてを叶えてやるのだけれど、最後に妻が「神さまになりたい」というと、元の海辺の掘っ立て小屋に戻っていた、という話だ。モスクワの封印解きのあとで、「自分の身体を取り戻した」と感じたのは、まさにその感覚だと思った。何か別のものになろうとするのをやめて、ありのままの自分に戻ったというような感覚だった。
「漁師と女房」の話は、欲望が限度を超えたから、バチが当たってすべてを失ったというようにも取れる。しかし、神とは外に存在する大きな力なのではなくて、自分自身の内にあると考えるならば、自分が神さまになるということは、もともとのありのままの自分に戻るということにほかならない。
漁師の妻は、自分のあり方に何かが欠けているという感覚に駆り立てられて、もっと大きなものに、もっと高いものに、と求めていくのだけれど、欠如感に駆り立てられているかぎり、欲望が満たされることはない。つねに自分の上の存在がいて、それに支配されているという感覚に苦しめられる。人間として支配の頂点である法王になったところで、それでもまだ神を従わせることはできないのを知る。日が昇っては沈み、月や星がめぐり、季節が移り変わっていくのを司っているその力は、どんな権力をもった人間も変えることはできない。しかし、神というその力は、支配欲とは無縁な、無我の力なのだ。そしてその意識は、すべての生き物の内にある。その意識にいたったとき、すべての欲望、すべての支配欲や欠如意識は消えてなくなってしまう。
中国の伝奇物語に「邯鄲の夢」というのがあって、これも似たような話だ。都に行って役人になり、出世しようと大望を抱いている青年が、旅の途中で仙人に会い、夢の中で栄枯盛衰のすべてを経験する。それはほんの数分のことだったのだけれど、それによって青年は、出世したからといって、それでどうということはないのを知ってしまう。そして都へ行くのをやめ、田舎へ帰って、幸福に暮らすという話だった。
この100年、200年の間、私たちはつねに自分のあり方に欠如意識を掻き立てられ、何か別のものにならなければいけないと駆り立てられてきたのだと思う。そして、まさにそのことによって、私たちは自分自身と切り離されて、操られてきたのだ。そのままの自分に価値がないように思わされて、もっとお金が稼げるように、もっと人に認められるように、と何か別のものになろうとしてきた。しかし、現実は自分の意識が作り出しているので、欠如意識から始まって、それを満たそうと努力すればするほど、欠如意識は強くなっていく。自分のありのままを否定しているわけなので、ますますありのままの自分から離れていき、稼ぐお金の額だとか、人の承認だとかによってしか、自分の価値を感じられないようになっていってしまう。現在、多くの人々は、まさにその状態になっていて、だからお金でどうにでも動かされてしまうようなことになっている。
このエゴというもの、自分の価値を人に認めさせようとする欲望は、実のところ、この欠如意識から来ている。自分が絶対に正しいと思っているのではなくて、そう思えないからこそ、人に何とかして認めさせようとするのだ。このエゴという状態は、意図的に自分自身から切り離させることによって、作り出されてきたのだと言える。まさにそれによって、私たちは支配されてきた。
音楽でも美術でも、この200年くらいの芸術は、良くも悪くもエゴでできているようなところがある。それはたとえば、バッハの頃の音楽や芸術と比べたら、はっきりとわかる。あの頃の音楽でも芸術でも、エゴというものがまるきり感じられない。自分を出すことなど、誰も考えていないように思える。結果的にとても独創的なものになっていたりはするのだけれど、それが目的でやっているわけではないのだ。むしろ、無我になって普遍的な価値に献身した結果に生まれてきたものだという感じがする。
個性的な表現とか独創性というものは、狙って作るようなものではないのだ。個性とは、結果的ににじみ出てくるものであって、意図的に作るものではない。これを意図的にやろうとすると、エゴになってしまうのだ。押しつけがましいような、独りよがりのようなものになってしまう。それは、根底にあるのが、自分で自分を認められていないという欠如感だからなのだと思う。自分で自分が認められていないから、人に認められないのではないかという恐れがあり、実のところはそれが現実化している。それで、何となく押しつけがましいところのある作品になってしまって、人が共感してくれないという現実ができあがってしまう。
「自分らしい表現を」とか「独創的な作品を」と要求すると、多くの場合、たちまちにしてアートをダメにすることができる。現代アートはまさにこの罠にはまっている。新しい表現でなければ、と言っていると、これまでのすばらしい伝統のすべてから離れてしまうことになる。そして、これまで誰もやっていなかったことであればいいと、実は意味のないようなことを、いかにも意味があるかのようにやるということになる。誰にも理解できないようなものこそは新しいものだ、とか、芸大の先生とか評論家とかは煽るのだけれど、あれこそは芸術の大虐殺だと私は思う。その結果、多くの才能がある人たちが、エゴの虜にさせられてしまったのだ。アートの価値が、評論家とかメディアとかギャラリーのオーナーだとかコンクールの審査員だとかによって、どうにでも操作されるようなことになってしまっている。
それは、祖霊や大地から人々を切り離して支配してきたやり方とも、基本的に同じものだ。私たちは、自然と繋がり、その中で先祖が作り出してきた伝統の表現に支えられて、それによって、自分が自分のありのままで支えられ、認められるという信頼感を持つことができる。その信頼感に満たされているとき、私たちは誰でも自然に表現することができることに気づくのだと思う。アボリジニでも中南米のインディオたちでも、自然とともに生きている人たちは、誰もが芸術家であり音楽家ではないのかと思うくらいに、自然にすばらしい表現を作り出すことができる。美大とか音大とかに行って、勉強してくるのではなく、伝統の表現に支えられている人たちは、まるで息をするように自然に表現を産み出していくのだ。
昨年12月から地球のチャクラやゲートを次々と解放していって、最後にモスクワの封印を解いたとき、その力がついに解放されたと思った。自分のありのままでいる力、そこから切り離そうとするすべての力から自分を守る力だ。それがまさに、「ようやく身体を取り戻した」という感覚だった。これまで私たちは、自分の身体さえも一部しか自分の自由にすることができていなかったのだ。多くの部分は、「今のままの自分ではいけない」という呪いにかかったように、外の評価や承認で支配されていた。そのすべての部分がようやくありのままでいることを許され、貧血状態になっていたところに血が通い始めて暖かくなり、感覚が戻ってきたかのようだ。
新しいルネサンスが来る、というメッセージを、私は17年前に受け取っていたのだけれど、それはこの「身体を取り戻す」ということから始まっていくのだと思う。もはや誰の承認も評価も必要とせず、直接に人と人とを共振させ、繋ぎ合わせるものとしての表現ができていくのだろう。
個性ではなく、普遍性。そこに献身することこそが芸術になるのだと思う。欠如からではなく、満たされた感覚から始まっているとき、献身することと満たされることは同時に起こる。この100年くらい、芸術はまるで貧血状態のようになっていたわけだけれど、それがようやく息を吹き返すように新たな生命を得てよみがえっていくんじゃないかと思っている。
モスクワの封印解きをやったのが、ロシア正教の復活祭の前日だったことを、あとになって知った。封印解きの翌日に、モスクワのロシア正教会では、復活祭の祝祭が華々しく行われていたのだ。封印解きのメンバーの一人が、オランダバッハ協会が演奏するバッハの復活祭オラトリオのリンクを貼りつけて、こういう感じだと言っていたのだけれど、彼女もその日がロシア正教の復活祭だったことは知らなかった。一度死んだように古い世界が崩壊して、そのあとに新しい命が生まれていくのが、復活祭のエネルギーだ。まさにそうした力で、今モスクワを原動力として、世界が生まれ変わっていっている。その力が解放されたということのようだ。
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バッハの復活祭オラトリオ オランダバッハ協会
2023年4月18日
【モスクワの龍 ー 音楽と詩の朗読】
https://studiospoonbali.up.seesaa.net/image/ZOOM0121-moscow-naoko-chihiro-osamu.mp3
唄と朗読:Naoko Fujikawa
ピアノ即興演奏:Osamu Fujikawa
詩:Chihiro Sato-Schuh
【モスクワの龍】Drache Moskaus
モスクワ この街は
地球の上で鼓動する
Moskau pulsiert auf der Erde
どうしてこんなにも
憎まれなくてはならなかった?
Warum musste sie so sehr gehasst werden?
すべての闇を呑み込んで
前よりもっと大きくなる
Sie schluckt alle Dunkelheit hinunter
und wird noch großer
この街はいつか
すっかり世界を変えてしまうだろう
Sie wird eines Tages
die ganze Welt ändern.
***
モスクワ こんなにもこの街を愛していたなんて
何をすべて経験してきたことだろう、この街は
大きく蛇行するモスクワ河にかこまれたこの土地に
住み着いた最初の人々がいた
この河の流れに支えられ、守られてきた
Moskau, mir wurde bewusst, wie sehr wir sie lieben,
was alles die Stadt erlebt hat
Die erste Leute kamen an diesem Land,
das die schlängelnde Fluss Moskwa umringt,
schützt und ernährt
皇帝がいた頃のモスクワ
お城や宮殿や聖堂ができた街
何故こんなにも憎まれなくてはならなかったのか?
Als die Zaren die Stadt herrschten,
entstanden die Schösser und Kathedrale.
Aber warum musste die Stadt so sehr gehasst werden?
ここはアジアと西洋のつなぎ目
すべてを受け入れて、調和を作ることで
この街は生きてきた
Moskau ist eine Verbindung von Asien und den Westen.
Die Stadt schafft eine Harmonie aus allen Unterschiede.
So ist sie immer gewachsen.
東洋と西洋
イスラムとキリスト教
農耕民族と遊牧民族
すべての違いを受け入れて、調和させる
そこにできるのは、美しい螺旋とアラベスク
Die Osten und die Westen
Islam und Christen
Bauern und Nomaden
Moskau schafft eine Harmonie aus allen Unterschiede,
wo wunderschöne Spirale und Arabeske entstehen
何故こんなにも憎まれなくてはならなかったのか?
この街の途方もない可能性は
世界を変えてしまうだろう
Warum musste sie so sehr gehasst werden?
Mit ihrer enormen Möglichkeit
wird sie die Welt ändern.
どんなに押し込まれ、たたき潰されても、
モスクワはさらに大きくなって、また現れる
すべての闇を呑み込んで、また一つ大きくなる
Auch wenn man versucht, sie zu sperren und unterkriegen,
kommt sie immer heraus.
Sie schluckt alle Dunkelheit, wird sie jedes mal großer.
宇宙には、本当は悪なんかない
それは分裂にすぎないから
モスクワはどんな悪も呑み込んで
前よりも大きな調和を作り出してしまう
Es gibt kein Böses im Universum,
sondern nur die Spaltungen
Moskau schluckt alle Böse
und kreiert immer größere Einklänge
どんなに押し込まれ、たたき潰されても、
モスクワはさらに大きくなって、また現れる
すべての悪を呑み込んで、前よりも大きくなる
Auch wenn man versucht, sie zu sperren und unterkriegen,
kommt sie immer heraus.
Sie schluckt alle Dunkelheit, wird sie jedes mal großer.
何故こんなにも憎まれなくてはならなかったのか?
この街の途方もない力は
いつか世界をすっかり変えてしまうだろう
Warum musste sie so sehr gehasst werden?
Mit ihrer enormen Kräfte
wird sie eines Tages die Welt ändern.
***
モスクワ この街は
地球の上で鼓動する
Moskau pulsiert auf der Erde
どうしてこんなにも
憎まれなくてはならなかった?
Warum musste sie so sehr gehasst werden?
すべての闇を呑み込んで
前よりもっと大きくなる
Sie schluckt alle Dunkelheit hinunter
und wird noch großer
この街はいつか
すっかり世界を変えてしまうだろう
Sie wird eines Tages
die ganze Welt ändern.
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