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東京おもちゃ美術館 館長があなたに伝えたい”平和”のメッセージ

 おもちゃには「心のつながり」や「生きる力」を育てる力があるー。そんなメッセージを発信し続ける「おもちゃ美術館」は今、たくさんの共感とご支援を集めて全国各地に広がりつつあります。とても喜ばしいことです。ただその一方、いくつか深く傷つく出来事も起きています。姉妹館協定を結んだ「ロシア国立玩具博物館」があるロシアによるウクライナ侵攻、そして、交流を深める中でおもちゃ美術館創設を進めていたミャンマーでの軍事クーデター。この2つの出来事があって、あらためておもちゃ美術館の〝原点〟に立ち返ろうと心に火がつきました。原点とは「平和創造」。おもちゃ美術館誕生の経緯と深い関わりがあるので、ぜひ 聞いてください。

■創設者がおもちゃ美術館に込めた思い
 東京おもちゃ美術館は、私の父・多田信作が約40年前に創設しました。1953年に民間団体「芸術教育研究所」を立ち上げ、日本を代表する美術教育研究者として幼稚園や小学校の美術教員を育成していた彼が、なぜ「おもちゃ」に目をつけたのか。それは、先進地ヨーロッパで受けた衝撃がきっかけでした。
「なんでこんな洗練されたデザインのおもちゃで、子どもたちが育っているんだ!?」。赤ちゃんのガラガラ一つとっても色、感触、使い心地が磨き上げられていた。それではたと気付いたのです。「人間が初めて出会うアートはおもちゃなのかもしれない」と。
 そこから、猛烈な勢いで人を巻き込み、日本各地から提供してもらった郷土玩具をヨーロッパのおもちゃと物々交換。1000点以上収集したものを幼児教育として活用し始めたことが、おもちゃ美術館の始まりでした。
 東京都中野区に初めておもちゃ美術館をオープンしたのは1984年。おもちゃを資料として展示する「博物館」とは違い、おもちゃを通して〝育む〟ことを目的に「見る」「作る」「借りて遊ぶ」の3本柱でのコンセプト設計でした。約100か国15万点を超えるおもちゃを収蔵する、全国でも初めての試みは大盛況のスタートでした。

■日常に染み込む「静かな平和運動」
 ただ当時私は20代。時代も高度経済成長まっただ中で、「おもちゃの仕事なんて考えられない。自分は大企業 の会社員か弁護士になって、でっかく生きるんだ」と父から逃げることしか考えていませんでした。一度は業界紙の記者になったのですが、取材を通して社会を見てみると「金のためなら」の裏切りだらけ。経済の裏側を知る中で「親父がやってる仕事、まんざらでもないな」と視点が変わり、父との仕事を選んだんです。
 ところが、それから7年後。父は突然、64歳で他界しました。非常に残念でしたが、その7年間があってよかった。彼が何を目指しているのか、知る時間を与えてもらえたと受け止めています。父がやりたかったこと。それを一言で表せば「静かな平和運動」だと私は解釈しています。美術研究者として、ソ連(当時)と向き合い、20年以上交流する中で育んだ思いかもしれません。「おもちゃ美術館は静かな革命家だ。これからの平和運動は、拳を突き上げるものじゃない。日常の中でひたひたと体に染み込ませていくものなんだ」と常々言っていました。

■「美しいもの」を愛し、「醜いもの」を美しく変える力を
 おもちゃ美術館には、いつも掲げている言葉があります。「美しいものをこよなく愛する子どもたち 醜いものを美しいものに変えていく力を持つ子どもたち」。これは父が約50年前に書いた詩。おもちゃを通して 彼が実現しようとした世界観です。
おもちゃにそんな力があるのでしょうか。私は心に一点の曇りもなく「ある」と信じます。それは、遊びが人間にとって、食事と同じくらい大切な生活行為だからです。食事をしないと体は栄養失調でやつれたり、病気になります。それと同じで遊びがないと、心が栄養失調でやつれたり、病気になってしまうんです。
 もちろん、それは子どもだけじゃない。私が確信したのは、ある高齢者施設での体験でした。父の仕事を手伝い始めた時、私が担当したのは高齢者へのアートや遊びの提供。たくさんの施設を回る中で、1人気になる男性がいました。彼は元中小企業の社長。指が思うように動かなくなって自分でボタンをはめられなくなったころから、「自分は生きている意味がない」とみるみる気力を無くしていったんです。
そこで、親指、人差し指、中指の3本を使って回すコマ遊びを勧めました。なんとか巻き込んで続けるうち、少しずつコマを回せるようになり、気づけばボタンもはめられるように。途端に「俺もまだまだいける!」と表情まで快活になって、職員さんが「おもちゃって面白いですね!」と感激するほどでした。
 おもちゃは心の栄養源。どれだけ栄養を与えたかで、心のありようは変わるんです。心のありようが変われば生き方も変わる。1人1人の生き方が変われば社会が変わる。だから、洗練されたおもちゃで、美しいものを愛おしむ心を育てたい。醜いものを美しいものに変える力を育てたい。今はそう思います。

■数々の挑戦を超えてきたおもちゃ美術館
 これまでの40年近くの間、おもちゃ美術館はさまざまな挑戦を続けてきました。美術館を開いて3年後の87年には、芸術教育研究所が「日本グッド・トイ委員会」を設立。国内外のおもちゃから良質な逸品を選定する「グッド・トイ選定事業」を開始して、選ばれたものをおもちゃ美術館に取り入れていきました。
 そして2008年4月20日。中野区のビルにあった「東京おもちゃ美術館」は、新宿区の廃校「四谷第四小学校」の旧校舎に移り、2度目の産声を上げました。「思い出深い校舎を生かしたい」という住民の方々から協力要請いただき、おもちゃ美術館の理念、新宿区役所の方向性も合致して〝お見合い〟が成立したのです。私も初めての経験ながら、「自然が少ないエリアだからこそ、日本の木材を使った木の香が溢れる空間にして、大人も子どもも〝森林浴〟できるものにしよう」と、デザイナーさんやスタッフたちと張り切って奔走したのを覚えています。
 東日本大震災、新型コロナウイルスによる自粛…。その後も、さまざまな「壁」が次々とやってきましたが、それでも「おもちゃ美術館をなくすわけにはいかない」と踏ん張れたのは、父・信作が遺した「平和への思い」を継承したいという使命感があったからかもしれません。

■これからの夢。アジアにおもちゃ美術館を広げたい
 みなさん、「てぶくろ」という絵本をご存じですか?ロシアの絵本作家エヴゲーニー・ラチョフ氏がウクライナ民話をもとに生み出した代表作です。おじいさんが森で落とした片方の手ぶくろに、次々と動物たちが「わたしもいれて」「ぼくもいれて」と集まってくるストーリー。ウクライナ侵攻をきっかけに、平和を願うメッセージとともにあらためて話題になりましたが、このラチョフ氏、実はおもちゃ美術館創設者である父の親友でした。
 ラチョフ氏が父を描いた人物画(といっても、クマに見立てて描かれています)を見るたびに、「いつかウクライナにおもちゃ美術館をつくりたい」という思いが強くなります。復興支援として、また、ウクライナの人たちが「醜いもの(戦争)」を「美しいもの(平和)」に変える力を育んでいくため力になりたい。
 普段はあえてこんな話はしませんが、私個人はこう考えています。「命を懸けて戦争するなんてバカバカしい。もし命を懸けるのであれば、命懸けで戦争を回避する生き方を選びたい」。だから、大使館並みにアジア各国におもちゃ美術館を作っていきたいのです。互いの文化を融合して、心地よい体験を積み重ねて「どっちも素敵な国だよね」って愛着を広げたい。
 これからの日本は、主体性と独自性を持って、いかに平和を生み出していけるかがカギになると思います。そのムーブメントと、おもちゃ美術館という存在がどう歯車を合わせていけるかが私たち「芸術と遊び創造協会」の勝負どころです。
 戦前の建築遺産であり、奇跡的に戦禍を免れた廃校を活用した「東京おもちゃ美術館」。有史以来アジアに開かれた玄関口である福岡に完成した「福岡おもちゃ美術館」。さらには、米軍が常駐し、戦争の傷あとがいまだに残る沖縄にある「やんばる森のおもちゃ美術館」。これらの地でおもちゃ美術館を直営していることは単なる偶然とは思えません。きっと一つの宿命だと受け止めています。

■世界平和も、目の前の家族の平和から
 最後にもう一つ。世界平和という大きな話になりましたが、実はその手前に大切なステージがあることを忘れないでおきたい。それは家族です。
 私たちが大切にしている「ファミリーコミュニケーション」は、誰も置き去りにしない空間づくり。子どもだけ楽しんで親は待ちぼうけになるのではなく、親も癒やされたり、楽しんだり、来場者全員の心をほぐし、いい関係を育んでもらうのがおもちゃ美術館の在り方です。
 私たちが大切にしているものの先に、家族の平和があり、その先に世界の平和がある。だから、私たちが役立てるんです。
 さあ、これから私たちは、おもちゃや遊びの向こう側にどんな「美しいもの」をつくっていけるでしょうか。小さなことでいい。全国のみなさんとワクワクしながら積み上げたい。もうすぐ父の年齢を超えますが、私はまだまだ走ります(笑)。ともに足元からの「美しいもの」づくり、楽しんでいきましょう。

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