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狐の松明

ピピピピッピピピピッー
いつもと変わらない目覚まし時計の音で目が覚める。カーテンを開けると鳥の声が聴こえた。見慣れた自分の部屋を出て、階段を下る。リビングへ入ると母が朝食を作っている後ろ姿が目に入った。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
母から不意に声をかけられ欠伸を噛み殺しながら答える。
「おはよう。まあまあかな。」
母は私の言葉を聞いて微笑み、目玉焼きとハムとレタスの乗ったトーストを真っ白な皿の上に乗せ、ダイニングテーブルの上に置く。その様子を寝ぼけた頭をそのままに眺めていた。
「ほら。何ぼーっと突っ立てってんの、早く冷めないうちに食べな。」
母の声を聞き、ようやく使い物になってきた頭を上下させる。椅子に座ると出来立ての朝食たちが、目の前で食べて欲しいと言わんばかりに湯気を立ち昇らせていた。
「いただきます。」
一言、それだけ呟き朝食に手を伸ばす。いつもと何ら変わらないメニューのはずなのに、この一口目が幸せでたまらない。
「おいしい?」
母からそう問われ、反射的に声を出す。
「うん。いつも通りおいしいよ。」
その声を聞いた母は、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

朝食を食べ終え、リビングを後にする。洗面所へと向かい、鏡の前に立つと自分が眠そうな顔をしてこちらを見ている。自分から目をそらし、ヘアバンドを身に着け顔を洗う。顔を洗い終え、タオルで拭いた顔を見ると、さきほど見た時よりも、少し良く見えた気がした。次に、歯ブラシを手に取り歯を磨いていく。口の中の気持ち悪さが消えたとほぼ同時に口をゆすぐ。そして、ヘアブラシを髪に通していく。一通りの準備を終え、自分の部屋に戻る。制服を手に取り、袖を通していく。制服に着替え終わり、通学用のカバンを肩にかける。リビングに顔を出すと、母がテレビを観ながら洗濯物を畳んでいた。

「いってきます。」
母に向かって声をかける。母は、私の声を聞きこちらを振り向くと満面の笑みを浮かべながらこちらへ駆け寄ってくる。
「いってらっしゃい。気を付けてね。」
母にいつもと同じように声をかけられ、お弁当を手渡される。いつもと同じ相槌を返すと今日も、いつもと変わらない一日が始まる。玄関を出ると、昨日と何も変わらない景色が目に入る。なんの躊躇いもなく、隣の家のチャイムを鳴らす。少しすると、どたばたと騒がしい音と共に一人の少女が出てきた。
「いつもごめんね~!待った?」
申し訳なさそうにそう言いながら、ローファーに苦戦しながらも一生懸命に履こうとしている。彼女は私の幼馴染だ。
「そんなに待ってないよ。大丈夫。早く行こ。」
そう言って、彼女の手を取る。
「ちーちゃんってやっぱイケメンだね…!きゅんとしちゃった。」
彼女はそんな意味の分からないことを言いながら隣を歩く。こんな日々を十年近く続けているためもう慣れっこだ。何の新鮮味もないが、なんとなく落ち着く道を二人で歩く。私たちが通っている高校は、歩いて十五分ほどの場所にある。
「「おはようございます。」」
二人で校門に立っている先生に挨拶をしながら昇降口へと向かう。下駄箱で靴を履き替え、階段を上る。教室へ入ると私は真っ先に机へと向かう。しかし、隣の彼女はそううまくはいかないようだ。
「おはよ!沙也加!」
「おはよー!!今日も沙也加はかわいいね!!」
たくさんのクラスメイトからかけられるそんな声に、一つ一つ笑顔で対応しながら私の隣の席に座る。まだ彼女の机の周りには、クラスメイト達が居座っていた。そんな様子を机に顔を伏せながらなんとなく聞いていた。
「ほらー出欠とるぞー席着けー」
いつもと同じ間延びした声を響かせながら担任が教室へ入ってくる。そんな声を聞き、クラスメイト達がそれぞれ自分の席に戻って行く。やっと一人になれた彼女は、気が抜けたのか大きな欠伸をしていた。
「疲れないの?」
純粋な疑問が口から零れてしまった。こんなこと聞くつもりはなかったのに。もしかしたら困らせてしまうかもしれない。彼女、もとい沙也加は一瞬驚いた顔をした後すぐにいつもの笑顔に戻った。
「んー疲れないって言ったら嘘になるかもしれないけど、それ以上に楽しいんだよね。みんなと話すの。だから、あんまり疲れたって感じることはないかな。」
なるほど、素直にそう思った。そんな考えを持つ沙也加だから、あんなにも人に好かれるんだろう。そんなことを考える。

「ー今日の連絡はこれくらいだな。じゃあ今日も頑張れよー」
はっと気づいた頃には、もうホームルームは終わっていて担任が教室を出ていくところだった。連絡を聞きそびれてしまったが、そんなに重要な連絡はないだろうとあまり気に留めずに窓の外を眺める。
キーンコーンカーンコーンー
始業の合図の鐘が鳴った。知らぬ間に担当の先生が既に来ていたようで、そのまま流れるように授業が始まった。一時間目は数学。私が一番苦手で、沙也加が一番得意な科目。とりあえず開いた教科書とノートを眺める。先生の話は耳には入ってくるものの理解は出来そうにない。ふと隣に目をやると、彼女は真剣な目つきで黒板に視線を向けていた。そんな様子を見て、寝るのは避けようと板書をするためにシャーペンを手に取り手を動かした。

キーンコーンカーンコーンー
度々襲ってくる睡魔と闘いながら手を動かしていたら授業の終わりを告げる鐘が鳴る。やっと終わったことに安堵し、息をつく。
「やっと終わったねー!数学は気が抜けないから特に疲れるんだよね~」
隣の彼女は私に声をかけながら器用に伸びをする。
「私はとにかく眠すぎて辛かった。」
そういいながら彼女の顔を見ると、珍しいものを見るような目つきをしていた。なんとなく不満に思い、顔をしかめる。
「そんなに私が数学の時間に起きてるのって珍しい?」
私が不満の色を滲ませた声で言うと、沙也加はあからさまに焦った様子で言い訳を並べている。その様子が面白くて、思わずくすっと笑ってしまった。そのあとの時間もなんの変哲もない、いつも通りの授業がさもあたりまえかのように過ぎていった。下校時間になり、隣に座る彼女に声をかけようと思い自分の席を立つ。彼女のほうを見やると、たまたまこちらを向いたのかばっちり目がってしまった。なんとなく目をそらせず固まっていると彼女のほうから一緒に帰らないかと声をかけられた。その誘いに反射的に頷く。いつもと変わらない手順で帰り支度を済ませ、学校を後にした。

隣に並ぶ彼女の話に耳を傾けながら歩を進める。今日も代り映えしない一日だったと、つくづくそう思う。なんとなく周りを見ながら歩いていると、ふと石畳の階段が目に留まる。階段の上を見上げると真っ赤な鳥居がどっしりと構えていた。
「こんなところに神社なんてあったっけ…?」
思わずそうつぶやく。階段を挟むように彼岸花が群生して咲いていて、一度見たら忘れられないような美しさがあった。
「こんな綺麗なところ通ったことあったら忘れないと思うけど…」
沙也加が、私の気持ちを代弁するかのように呟く。ふと鳥居の方を見上げるとこの辺りでは見たことがない狐がこちらを見ていた。
「ねえ!狐さんが居るよ!!」
沙也加は私の腕を掴み、がくがく揺らしながら狐を見つめている。狐に視線を戻すと、こちらを見やった後鳥居の奥へと消えてしまった。
「ねえ、追いかけてみようよ。」
沙也加がキラキラした瞳でこちらを見つめながらそう言う。私は昔から沙也加のお願いを断れた試しがない。今回もそうだった。
「いいよ。私もあの狐がどこに住んでるのか気になるし。」
本心でそう言うと彼女は心底嬉しそうに頷いた。

どれくらい歩いただろうか。細く曲がりくねった石畳の道をひたすらに歩く。鳥居の向こうにこんなに長い道があるとは思わず、素直に驚いていた。もう後ろを振り向いても真っ赤な鳥居は視界の端にも映らない。前を見るとゆらゆらと揺れる黄金色の尻尾が見えた。私も沙也加も話しながら歩く元気はとうに尽きていた。
「ねえ、もう結構疲れてきたんだけどまだ狐さんのお家に着かないのかな。」
先に沈黙を破ったのは沙也加のほうだった。
「そうだね。すぐ着くもんだと思ったらずいぶんと長い道のりだね。」
素直に沙也加に同意する。さすがに疲れてきた。前を歩く狐は、疲れた様子は一切なく悠々と歩を進めている。人間と動物とでこんなにも体力差があることを実感するのは初めてだ、そんなことを思いながら狐の後ろについていく。前を見ると道の先の洞窟が目に入った。そこに吸い込まれるように狐が中へ入っていく。ぽっかりと口を開けて待ち構えているそれに思わず尻込みしてしまいそうになる。そんな私のことを知ってか知らずか、沙也加はなんのためらいもなくスタスタと狐の後をついて行ってしまう。私は置いて行かれないように懸命に後に続くことしかできなかった。

洞窟の中に入ると、中は思ったよりも暗くはなく目を凝らせば中の様子が分かるほどだった。洞窟の中は狭く、奥に進んでいく道は無さそうだった。何よりも驚いたのは洞窟に群生している彼岸花だった。こんなに日当たりの悪いところでも花が咲くとは到底思えなかった。ここが狐の棲み処なのかと思い前を見ると沙也加が信じられないといった顔つきで突っ立っていた。何かあったのかと思い声をかけようとした時、沙也加が口を開いた。
「狐さんこの中に消えてっちゃった。」
そう言い、真っ暗な闇を指差す。もやもやとしたそれはいくら目を凝らしても、ただただ黒かった。こんなものの中に入れるのか疑問は尽きないが、狐は洞窟をくまなく探しても見つからなかった。ふと隣を見ると、沙也加の指先が得体の知れないそれに埋まっていた。驚いた私は思わず沙也加の手を払いのける。もし、沙也加の指が狐と同じように闇に消えてしまったらと思うと怖くてたまらなかった。そんな私の心情はつゆ知らず、沙也加はぼーっとしたまま自分の指先を眺めている。
「なんか、私も入れそう。」
突然そう呟くと今度は指先だけでなく肘の辺りまで一気に闇に手を突っ込んだ。一度ならず二度までも。私の心配などまったく気にしない様子だった。口に出していないから仕方ないのだ。しかし、さすがに私も見ているだけでは気がすまなかった。
「何してるの。危ないよ。何かあったらどうするの。」
気がついたら沙也加の腕を掴み、子供に言い聞かせるようにそう言っていた。本当に不安で、心配で、どうにかなりそうだった。
「大丈夫だよ。そんなに心配しなくても。だって、ほら肘まで入れたけど何ともないよ。」
沙也加は闇から手を引き抜き何事も無かったかのようにそう言う。今は大丈夫でも後々何かあったらと、心配や不安で頭がいっぱいになる。そんな私をよそに、沙也加は闇を眺めている。
「ねえ、もう帰ろうよ。」
私がそう言い、沙也加を見た時だった。隣にいた沙也加が闇の中へ誘われているかのように入っていく。私は声も出せずその様子をただ、見ることしかできなかった。気づいた時には石を投げた湖のように闇に波紋が広がっていて、沙也加の姿は跡形もなく消えてしまった。後悔しても遅いのに、何故止められなかったのかと自分を責めることしかできない。そんな自分に嫌気がさす。1人でただただ考えていても仕方がないと思った私は覚悟を決めた。闇の前に立つと、一気に自分の身を投げた。

闇のなかは案外心地が良かった。暖かいものに優しく包み込まれているかのような感覚が続いた。どれだけ闇に包まれていたかは分からない。とても長かったような気もするし、とても短かったような気もする。とにかく不思議な感覚だった。そんな感覚から突然解放され、思わずぶるりと身震いしてしまう。ぎゅっと閉じていた目をおそるおそる開ける。すると目の前には倒れている沙也加とこちらをじっと見つめる狐の姿があった。すぐに沙也加に駆け寄る。抱き起こして様子を確認すると制服は汚れていたが怪我は無さそうだ。そのことに安心してほっと息をつく。沙也加が無事で本当に良かった。
「おぬしはその娘が大層大切なようだな。」
不意に掛けられた声に驚く。声のするほうを見ると狐が変わらずこちらを見つめている。まさか狐が喋ることなんてことあるはずが無い。自分が瞬時にした仮説をかぶりを振り、消し去ろうとした。しかし、そうはさせてくれないようだ。
「おぬしに言っているんだ。なんとか言わんか。」
低く唸るような声に思わず怯んで口を噤んでしまいそうになる。何か言わなければと、自分を奮い立たせる。
「そうです。私は沙也加がすごく大切なんです。怖くて仕方なかった闇に身を投げてしまうくらいには。」
そう独り言のように呟き、狐を見る。狐は黒い瞳を丸くしてこちらを見た。
「驚いた。わしの声に応えるとは。」
応えろという威圧をこれでもかと出していたくせにどこに驚いているのだろうか。狐の言葉に納得がいかず、思わず口を開きそうになる。その時だった。周りを見ると今まで生きてきて、見たことも無いようなものが広がっていた。

真っ赤な日本家屋が左右に建ち並ぶ石畳の道、いたる所に群生している彼岸花、空は夕日で紅を引いたかのように綺麗だった。目に入るもの全てが赤いと言っても良いほど町は真っ赤で埋め尽くされている。そんな異様な光景をただ呆然と眺めることしかできない。思わずその場にぼーっと座り込んでしまう。
「なにをぼーっと座り込んでいるのだ。早く立て。」
狐にそう言われ反射的に立ち上がる。
「おぬしらにはわしに協力してもらわんといけんからのう。」
協力って何に協力するんだ、要件を聞かなければ了承することはできない。そんな至極真っ当な私の意見を切り捨てるように狐が言った。
「あ、ちなみに拒否権はないからのう。拒否するようなら二人まとめてこちらの世界に永遠に閉じ込めてしまうからな。」


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