お金はあげられないのに、なぜ彼は笑顔で手を振るのだろう、と思った話
街に出れば、必ず手を伸ばされる。
食べ物がない、という懇願の表情でお腹をさすり、私の横を離れない。
" hungry. money. "
日本ではほぼ出会わない光景だが、ここでは日常茶飯事なのである。
初めてカンボジアで物乞いに出会ったときは、心が大きく揺れた。小さくてとても美しい目をした子供にお金をせがまれた。今でも覚えている。とても可愛く、愛らしく、それでもボロボロの服をきているのが気になった。お金をあげようとする私を止めたのは、ベトナム人の友人だった。
「お金をあげることは、彼らのためにはならない」
彼女の言葉は強かった。我にかえって、子供にごめんね、と言いながらその場を去った。それでもその子は、屈託のない笑顔で、私に手を振り続けていた。
私は君に何ができるだろうか。そう考えた瞬間、悔しくて涙が溢れ出た。
まるでこのような人たちが、ごく普通にそこら中にいて、子供や大人を問わず、道端で物乞いをする。それが、途上国では普通なのである。
私自身、途上国での経験を積む中で、やはり物乞いには基本的にはお金をあげないようにしている。
以下、理由は二つある。
一つは、物乞いビジネスの存在である。物乞いは、お金に困る人々が個々人でやっているかのようだが、実際のところ全てがそのようなケースではなかったりする。
貧しい子供を引き取って、街で物乞いをさせることで外国人や裕福な層からお金を巻き上げ搾取する、「物乞いビジネス」なるものがこの世には存在する。(詳しくは、原寛太さんのブログを読んでみてください)
だから、いくら貧しい子供にお金を手渡したとしても、彼らの手元にはこれっぽっちも残らないことだってある。ただ、その見分けをつけるのは非常に困難で、本当に困っている人に、正しくお金を渡すことなんてそうそうできやしない。物乞いにお金をあげることが、かえってそのような人の生きる道を塞ぐ可能性だってある。
ひとつ聞いた話で衝撃だったのは、貧しい家庭の親が、わざと子供を怪我させて、観光客の前にさし出すこともあるという事実だった。自分の子供を傷つけてまで、物乞いをするのである。信じがたいが、それほどまでに物乞いはビジネス化し、私たち”外の人”は、知らず知らずに実態を悪化させることもあるのだ。それを、頭に入れておく必要がある。
二つ目は、何とも個人的な理由であり、そしてエゴなのかもしれないが、「与える人」にはなりたくないと感じているからである。
現地に行くと、やはり日本人は”裕福な人たち”で、羨望の目でみられることが少なくはない。事実、生きる上でお金に困ることなく生活してきた私は、とてつもない”うしろめたさ”と毎日向き合っている。これはとても苦しい感情である。
でもやはり「与える側」で生きることは、私にとっては無意味なのである。そしてそのような棲み分けも、いつか消えることを願っている。
数ヶ月前、ウガンダ北部で南スーダン難民の自立支援に関わっている方と話す機会があった。彼曰く、国連やNGO、その他国際機関が長期にわたって、南スーダン難民への援助を継続しているが、そこにはやはりいい面も悪い面もあると言う。
難民の方々が、長期にわたる食料や物資の援助に慣れてしまうことで、彼ら自身で生計をたて家計を養っていく”自立の力”が、いつしか阻害されていってしまうのである。いつか援助の手が途絶えてしまう時、自分たちの生活を支えるのは彼ら自身でしかない。だからこそ、外からの援助に頼る発展の状態は、極めて脆弱なのである。
これは究極の自己責任論とかではない。そういう風に物事を極端に抽象化して批判する人も多いが、そのような人を見る時、私は必ず、ああ現場を踏んでないんだろうな、と冷ややかな気持ちになる。ぬくぬくと育ったその場所で、どうぞ呟いててもろて。と、そう思う。これは口が悪いが。
ある地域が貧困状態から抜け出し、長期的な発展をむかえるには、必ず地域の人々の自治と自立が必要になる。そう私は考えている。だからこそ、やはり自分が与え続けるようなことは避けたいと感じる。
とはいえ、困っている人には積極的に手を差し伸べなさい、という教えは、このイスラムの国にも根強い価値観である。事実、バングラデシュの人たちはとても優しく、お節介なほどに面倒を見てくれる。そこを考えると、私もきっと変に考えすぎず、素直に手を差し伸べる必要があるのだとも感じる。
お金をあげずとも、彼はなぜ私に笑顔で手を振るのだろうか。
その瞬間は苦しいが、これは私がうしろめたさと生きていく、その鍵になる瞬間でもある。こんな瞬間に、これから何度も出会っていくと思う。
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