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雷の刻印【全8話】 2.上客

その日の客は特別だった。ホッシビリタに住む、二十歳そこそこの娘と、その娘についている年老いた執事の二人が今日の客だ。

ホッシビリタといえば、街を歩けば金持ちに当たるほど、大金持ちがゴロゴロと住んでいる街だ。

あらかじめ、執事のじいさんがどの船がいいのか下調べにやってきたとき、たばこ屋のばあさんのところで勧められて俺を知り、指名してきたのだ。

今日のスケジュールはこんな感じだ。

丸一日、俺の船を貸切り、屋敷のあるホッシビリタまで海路で迎えに行き、そこからジンシア島の市場を案内し、またホッシビリタまで送るという、ずいぶんと楽な仕事だ。

それなのに、じいさんは前払いでまず、俺に手付として金を払っていった。その金はそれだけで俺が通常もらっている料金の五倍を超えていた。

さらに無事に仕事が済めば、高額な報酬を払うという。計算してみると、その額は三か月まるまる遊んでも暮らせる金額だった。

随分見入りのいい話にホクホクして、ばあさんに金を払っておいてよかったと俺は心の中でニンマリと笑った。

ただし、あらかじめ注意事項が申し渡されていた。じいさんの話によると、娘は病弱で生まれてから今まで、屋敷からほとんど出ることはなかったそうだ。最近になってようやく体調が落ち着いて外出することを許され、じいさんを伴ってあちこち社会見学に出かけるようになったという。

じいさんの話を聞けば聞くほど、箱入り娘のお嬢様は触れば壊れてしまうような、まるで「取り扱い注意」の札がついた人形のように思えた。

ホッシビリタの港に着くと、二人はすでに待っていた。

じいさんは相変わらず、すました顔をしていたが、隣に立っている娘は見ればわかるほどに全身からうれしい、というオーラを醸し出していた。娘は俺を見るなり、光り輝くような笑顔になり、これ以上ないだろうと思うほど、丁寧に頭を下げて、弾んだ声で挨拶をした。

この娘はどれだけこの旅を楽しみにしていたのだろうか。

「はじめまして、リザルと申します。本日は私のためにお時間をわざわざ作っていただき、ありがとうございます」

家からほとんど出たことがないというリザルは、聞いた年齢よりもずっと幼く見え、女性というより、清楚で素直そうな幼い少女のようだった。顔立ちも良家の娘らしく品があり、可愛らしくて利発そうな美人で、スッと鼻筋が通った高い鼻と、猫のようにくるくると表情豊かに動く大きな瞳が小顔に形よく収まっていた。

こんなに丁寧にお辞儀をされたことがなくて、俺は戸惑った。しかも相手は大金持ちの客だ。された側が、どう返すのが正しいのか混乱してしまうほど、きちんとした、礼儀正しいお辞儀だった。良家の娘というのはこういうしつけがきちんとされているものなのか、と俺は感心しながら、船を動かす準備にかかった。

船が海へと動き出すと、リザルは目を閉じ、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開けてじいさんに言った。

「じい、これが海の本当の香りなのですね。想像していたよりもずっとずっとさわやかな香りです。本当に夢のよう!私は、とても、とても幸せです」

ずっと家に閉じこもり気味だったせいなのだろうか、船に乗り込むとリザルの瞳は好奇心でさらにキラキラと輝きだした。波の中で魚が跳ねても、遠くに船が一艘浮かんでいるのを見つけても物珍しいらしく、いちいち、じいさんにうれしそうに報告する。

その無邪気さがほほえましくて、つられて俺も気がついたら笑顔になっていた。

執事のじいさんは、そんなお嬢様のことが執事としての責務だけでなく心からかわいいと思っているようだった。

時々はしゃぎまわるお嬢様に手を焼きながらも、実は鉄板が入ってるんじゃないかと思うくらいにピンと背中を伸ばし、年の割にキビキビと動いて彼女のそばに常についていた。

ジンシア島に着いて、俺が市場を案内するといったら二人でゆっくりと回りたいからと、断られた。島を案内する計画をあれやこれやと頭の中で立てていた俺は肩透かしを食らった状態になったが、客がそういうなら仕方ない。楽をさせてもらおうと、二人が買い物している間、俺はのんびりと船で過ごすことにした。

船の中で待っている間の俺は、ずっとニヤニヤしっぱなしで、仕事が終わったら手に入れた大金をどうするか頭はそのことだけでいっぱいだった。

日が傾きかけたころ、たくさんの買い物袋を抱えて二人が帰ってきた。手ぶらのリザルと反対に、じいさんときたら、顔さえ隠れて見えないくらいの荷物を抱えていて、それだけでなく、背中にも大きなリュックをしょっていた。

「そろそろ出発するぜ?」

早く帰らないと、日が暮れる。海賊たちが出没する海域に入り込むことがなければ、この周辺はまず安全だが、この上客を確実に安全にきっちり帰してやらないと大金は入らない。

大急ぎで碇をあげて出航し、振り向くと、二人は俺なんかにお構いなしに、うれしそうに買ってきたものをさっそく甲板に広げている最中だった。

「これはお父様に差し上げるのよ」
「これはこんな使い方をするのね」

リザルの声が、言葉を発するたびにうれしそうに弾んでいる。ずっと閉じ込められていた部屋を飛び出したこのお嬢さまは、これからはこんな風に世の中のありとあらゆるものを楽しんでいくのだろう。

「まあ、少しばかり大目に見てやるか」

俺は苦笑したあと、ホッシビリタへ向かって舵を取った。俺の胸の中に、かすかな不安がよぎった。

三人とも、これから起こる事件のことなどまるで予想もしていない、落ちていく太陽が美しい、静かな夕刻だった。
◇ ◇ ◇
アキアーンを出航してからどのくらい経ったのか……。突然、背後でドスンと音がした。音に驚いて振り向くと甲板にリザルが倒れていた。

執事のじいさんが真っ青になって「お嬢様!」と声をあげた。

俺もあわてて舵をそのままにしてリザルに駆け寄った。彼女を見ると手に小さな小瓶が握られていて、どうやらこれを飲んだらしい。


薄い紫色の「気」のようなものが横たわるリザルの身体にまとわりついていて、俺はギョッとして動きを止めた。

紫の気……?紫の気といえば、魔法がかけられた薬を飲んだ証拠だ。

紫の気はしばらく漂っていたが、突然クルクルとつむじ風のように回り始め、一気にリザルの中に消えた。一瞬、どうしていいかわからなかったが、俺は我に返ってじいさんに叫んだ。

「おい、水だ!船尾の樽の中に入ってるから持ってきてくれ」

こくりと頷いたじいさんが船尾に走っていくのを見送ると、俺はリザルを抱きあげて様子を見た。「おい、しっかりしろ。どうした?これを飲んだのか?」

意識を失った彼女がしっかり握っていた小瓶を俺は手から引きはがして、そのラベルに「フェンチル」と書かれているのを見た。

フェンチル……。

その薬の名前を俺はどこかで聞いたような気がしたが、それがなんだったのか思い出せない……。

だが、毒ではなかったことは確かだったと思う。

「ううん……」リザルが腕の中でうっすらと目を開けると俺を見上げた。「アキアーノさま?」

「どうした?大丈夫か?」声をかけた俺と目が合ったリザルの顔は、みるみる上気したように赤くなった。抱き上げている身体も急に熱くなった気がした。

「どこか苦しくないか?」

もう一度俺が声をかけると、彼女は熱っぽい潤んだ瞳で、俺を見つめ返してこう言った。

「アキアーノ様……あなたはなんてイケメンで、素敵なんでしょう……」


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