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ゆるした先に現れてくるもの

ひとつ前の投稿で、ゆるすことについて書いた。ゆるすことで結局はわたし自身、その人自身が心の傷みや苦しみから解放されるから、許し難いことも許してしまうのは他者のためではなく、自分自身のためよ、というようなこと。

今日はゆるしたその先に観えてきたものについて書いてみようと思う。


そもそもこの「ゆるすこと」はいろんな本や誰かの提言でたくさん聞いたり、目にしたりして、そうすることがいいんだろうな、くらいにはわかっていたし、出来ればそうありたいと願っていた。

でもできない。ゆるしたつもりでも後からまた湧き上がってくる記憶や朧げな感覚、何かを引き金に呼び覚まされてしまい過去の時空間に戻ってしまうことがあるのだとしたら、そしてそれを笑って誤魔化したり、諦めたり、蓋をして感じないようにしているなら、やっぱりそれは終わっていないのだと思う。

私は量子場調整©︎なるものを時々受けています。

全てのものは最小単位の量子が元で、その量子は観察者によって観察=観られていると、観察された結果、動きによる波を形成し、それが物質や現象となっていく。

量子場調整は、この「場」を観察することによって意識と無意識の間に架け橋をかけ、その人の潜在意識に働きかけた結果、“意思をもった観察”を受けた量子が波動を持ち、事象や現象を創っていく。その結果、自分自身をも変えられていく。そんな技術だ。(説明、合ってるかな?)

私は施術を受けてずいぶんと経つのに、いつまでも幼少期のトラウマをそのまま反映した反応をしたり、狭いものの見方しかできず、同じことをグルグルと繰り返し、抑えていた感情を蘇らせ、それが湧き上がるのをまた苦しい状態で味わう、といった時間が長かった。

二重三重に積み重なっている過去の体験によるトラウマや感情のほとんど全て(悲しみや怒りだけでなく、私の場合は喜びや楽しむこともだった)を幼少期のうちに抑圧し、蓋をし、ご丁寧にコンクリートで封印するほど、なかったことにしてきたのだから、まず自分の中にそんなものがあること自体に自覚がない。なぜ自分にはそんな厄介が起こるのかわからない。痛い目をたくさんみて、だんだんにやっぱり何かかがおかしいとやっと重い腰をあげる。そこで入り口にやっと立ったと思ったらとんでもない。ひとつ何かを解放すれば、それはその下の別の何かのカモフラージュ用の感情、さらにその下にはまた隠れ蓑、と紐解けば解いてゆくほどにカオスを招き、本当に果てしないような気持ちになっていた。

施術を受けた多くの方のレビューにあるような、清々しい気持ちや素敵な変容は自分には起こらないのだ…と落胆し、かなしい気持ちになっていた頃もあった。

わたしに施術をしてくださる先生によると、それは無意識のなせる技なのだそうだ。無意識には時間や空間認識がない。いつでもその事象が起こった時空間へひとっ飛び。その現場を現実さながらに再現してくれる。苦しみの無限ループにまた戻る。

意識はその無意識の暗闇に光をあてる。そうして初めて無意識の領域に光が射し、意思を持って自分の人生を歩むなり、創造していくことが始まる。

私はそのことの意味が頭でしかわかっていなかったのだな、と今は思う。量子場調整的に言うと、観察者になっていなかったからなのだと、ある時やっと気がついた。いや、正確には気がついていたけれど、観察者にはなりたくなかったのだと思う。観察できると言うのは、結局全てを受け入れると言うことと同義語だ。そこにあるものに善悪の判断をつけない。全てにおいて。

観察ができるようになると、事象がただ「そうである」で終わってしまう。

つまらない。そう、つまらないのだ。たぶん。

自己受容の過程で誰もが通る道なのかもしれない。それは、苦しんでいることによるメリットがたくさんあるからだと思う。誤解を恐れずに言うと、被害者でいることは他者に責任を転嫁できるし悲しい物語の中の住人役をちょっとの間たのしめる、ドラマチックな人生劇場を演じることができる。さらに加害者を作り出すことも可能になる。そうなったことの全ては加害者のせいにできる。そうすることで自分自身の人生に四つに組んで真っ向から対峙することや、与えられたいのち、人生そのものを愛することから遠ざかっていられる。

その状態をわたしは「逃げている」とは言わない。どんな人も何かしら課題を持ってこの地球に降りてきて、「いのち」を生き、味わっている。逃げているというより、いつかそこに真正面から向かい合うためには準備する整えるための時間が必要な人がほとんどだと思う。その時間は無駄ではないし、あっていいと思う。

「わかってる…でも、待ってほしい。今はできない。」と自分の中で叫んでしまうのはその人にしかわからない大切な感覚、大切な時間だと思う。それはそのままでいいと思う。向かい合う時がいつ来るのかは誰にもわからない。自分でその時を決める人もいれば、決めても思うようにはいかなかったりする。決めたつもりはないのに何故かそういう流れになってしまったり。でも残念な事に、そのままを観る(=受け入れる)までは漏れなく苦悩や苦しみはついてくる。

さて、整える時間を経、ゆるすことによって現れてきたのはこの“観察している自分自身”でした。よく、空きスペースに幸せが呼び込まれるから断捨離〜とか言うけれど、ゆるすことでその次元にいた自分自身から解放され、視界が広がる=認識できる空間が大きくなることでそのままを観れる=受け入れられるのだと思う。苦しみの渦中にいるとき、誰でも人は視界が狭く、息は浅く、波動で言うと重たい状態になっているのだという。軽やかになりたいと思ってもその出来事に対しての拘りを手放さずにしっかり握っているものだから、錨ををおろしたままの船と同じで前にも後ろにも動くことはない。

観察できる目がひらかれると、草原を見渡した時のような清々しい感覚がある。その開かれたフィールドがその人の本来の器なのだと思う。ただし、一度草原に経ったらゴールではない。何度でもやってくる。おそらく。多くの体験をしている人であればあるほど、そうだと思う。

しかもそれは、衝撃的なドラマティックな変化ではない。気がついたら、「あ、そういえば最近ははあの激しい反応はしなくなったな...」とか、以前は目の前、近距離で繰り広げられるように感じていた出来事が、気づけばいつも、ある程度の距離を置いてそれが観える、とか。

たったそれだけなのだけど、これがびっくりぽんなのである。観える、観察ができるだけでこんなにも視界が広がるものなのかと思う。そして、この観察があらゆる場面で生きてくる。さらに、観察できる領域が段々に広がりも深さも持ってくるものだから、ちょっと面白くなってくる。

わたくしなんぞはまだまだひよっこなので、しかもガイドしてもらわないとうまいことできないこともあるし、アップダウンも当然あるのだけど、量子場の技術を開発した院長によると、それでもよちよち続けていると、最初は補助輪がなければ乗れなかった自転車にいつの間にか乗れるようになっていく。乗れない、自分で漕げない、バランスが取れずにグラグラすると思っていたけれど、ある時気がついたら誰かが支えてくれていた手は外れ、ひとりで自転車を漕いでいる。そんな状態へ変容していくのだと言う。

ゆるして、“観る”をすると、最も実感できる大きな変化は、今まで奪われていた力が戻ってくる感覚だと思う。元気になってくる。そのことが更に自分を前に踏み出させてくれる。


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