この社会で生きていくための研究。

久しぶりに後輩から連絡が来ました。
それがすごく嬉しくて、何より私が今枯渇していたものを見つけてくれた気がして、涙が出ました。

元々学生の頃から、反出生主義であったり、生きること死ぬことを語り合う仲間が多かったのですが、働き始めてから、そんな時間なくて。笑

その子の連絡から始まったちょっとした議論がとても私の心に染み渡って、

あ〜私には、これが足りなかったんだ。

と悟りました。

私に大学院という選択肢を教えてくれた先生は
「あなたなら社会人やりながら研究活動もできるよ!」
と言ってくださったけれど、今は結構無理です。というかできる気がしないです。

でも、やっぱり、
長い間、自死のこと、この社会で生きていく上での生きづらさのことを考えて、研究してきた身とすれば、
そこから離れることは、私の一部が消え去っていくも同然で。

気づくのか遅すぎたけど、やっぱりつらかったんだなって思います。

平常的に死生観や福祉的課題を語るなんてことできませんからね。
そんなことを経験し続けられた高校大学の7年間は明らかに誰よりも不思議で幸せだったと思います。

周りの友人、活動を支援してくださる方、活動者の皆さん、先生のおかげ。

その不思議で幸せだった古巣から抜けて、ビタビタにその幸せだった過去を思い出してます。

この2ヶ月くらい、毎年恒例の?体調不良で、
今目の前のことで手一杯、明日のことなんて考えたくないぜっ状態だったので、

私が今どんな気持ちで、どんな状態で、何を望んでいるのか全くわからなくて、
今も正直そんな感じなのですが。

ぽっと浮かんだのは、
この社会で生きていくためのお守りになるような研究がしたい。
でした。

私は元々、福祉政策や憲法の部分を専門に大学時代過ごしてきたのですが、
社会福祉や哲学とも政治は深い繋がりがあることを知っているので、裾野を広げて、
社会で生きていくためのお守り、死にたいと思う前に支えてくれる知識を得に行きたいとやっぱり思いました。

今はまだ、思うだけなんだけど。はい。

(今活字を読むのも結構つらくて、ひたすらに文献読みまくってたあの頃が眩しい…)

高校大学と守られ続けてきた私が、外の世界を見て感じたのは、
死について考える人はいないんだな
という部分だったんです。

死について考えるのは、死を間近に経験した人で、私はたまたま小さな頃に「死にたい」と思ってしまったから、死を考えながら生きているんです。

それは悪く言えば、死に囚われてると言うし、
良く言えば、死にたいと考えている人の思考に寄り添えるということだと思うんです。

だから、死にたいと思う前に、お守りや支柱になるような、今の社会を生きていくための研究がしたい。そう思うんだと思います。

(今は思うだけなんだけど。)

正直、明日を生きることすら精一杯で、
様々なものに頼って生きているので、
余剰で何かをするということはできないのですが、やりたいなぁ。という気持ちだけを吐露しておきます。

残しておけばきっと思い出すから。

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「死にたい」という一言は、絶望の1歩手前の希望だと思います。

自死という行為は、絶望の1歩手前で勇気を振り絞った行動だと思います。

でも、その一言、その行為は、一個人にとっても、社会にとっても、幸せな言動なのでしょうか。

自死を正とするしない以前に、その言動の在り方は、人々が生きることを前提とされた社会や社会を作る法にとって、正とするかしないかだと思います。

今のところ、自死を正当化する法律はありません。それはどうしてなのか。

そんなところから研究を再開してみるのもいいのかな。なんて。ね。

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