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わたしの言葉の良いところ。

わたしは友人から相談されることが割と多い。
相談事ではなくても、日常の出来事を聞くこともよくある。
そして話し終わった時に、大抵の友人がこんなことを言ってくれる。

「千晴と話しているとまるでカウンセリングを受けたような気持ちになる。ありがとう。」

と。

そう言われると嬉しい気持ちになるのだが、同時に疑問に感じることもある。
ただ普通に話を聞いて、ただ思ったことを言っているだけなのに、どうして友人は「癒された」などと言ってくれるんだろう。

自分が友人と話すときの会話を客観的に思い返してみる。
すると、わたしから出る言葉に、2つの特徴があるような気がした。
あくまでも自分目線なので友人の感じている感覚とは違うかもしれないが、わたしの特徴として書いてみよう。


1.そう感じるのは当然だよね。

わたしは決して相手の気持ちを否定しない。
「否定したら落ち込んでしまうかもしれない」とか「頑張れなどと言う言葉はふさわしくない」など、世間的なマニュアルにそっているわけではない。

相手の話を聞いていると自然とこの言葉が出てくるのだ。
「そう感じるのは当然だよ。」
と。

例えば子どもを叩いてしまうと悩んでいる友人。
よくよく聞くと、友人自身が親から叩かれて育っていた。
「親の期待に沿わないと叩かれる」と思い込んでしまった彼女。
今度は自分の子どもが言うことを聞かないと叩いてしまうようになった。
そこには「この子をいい子に育てなくちゃ、お母さんにまた怒られる」と、彼女自身の恐怖と悲しみが癒えることなく渦巻いているのだ。

わたしはこう言う。
「叩いてしまうあなたの気持ちは、何も間違えていない。
そう感じるのは当然だよ。だって怖いよね……」
と。

子供を叩くという行為を肯定するのではない。それはいけないこと。
でも叩いてしまいたくなる気持ちになることは、当然だ。
その感情は何もおかしくない。

わたしは友人の感情を100パーセント理解するし、
むしろ話を深く聞くほど、点と点が結び付いたかのように、共感以外の感情は沸いてこない。

表面的なことだけで、相手を判断しない。
その結果には必ず原因がある。
そこに思いを馳せる。

無意識にわたしがしていることだ。それが「その気持ちは当然だよ」という言葉に繋がっているのだと思う。


2.それは違うと思うよ。

相手の感情に共感はするけれど、違和感を感じたことははっきりと伝える。
自分で考える自分の会話の特徴2つ目だ。

例えば、上記の子どもを叩いてしまう友人が
「わたしはどうせ子どもを愛せない母親なの。仕方ない。」
などと言ってきたら。

「それは違うよ。愛せないと思っているだけだよ。そう思ってしまうくらい辛かっただけだよ。本当は愛情に満ちた人なんだよ。わたしには分かるよ。」

こんなことを言ってしまうと思う。

過去のトラウマは、簡単にその人の本来の姿を消してしまう。
愛された経験が乏しいと、まるで自分は愛を知らない人のように感じてしまうのだ。

『本当の姿』と『過去によって塗り替えられた姿』

目の前の人が、塗り替えられた姿を、まるで本来の自分かのように言っていると感じた時。
わたしははっきりと言う。

「それは違うと思うよ」と。


…………


自分の会話を客観的に見た時。
長所と言うとこの2点だろうか。

「元気になった」
「癒された」
「ありがとう」

喜ばせたいと感じて発言したことは一度もないが、そう言ってもらえるのは嬉しい。


今日は、自分のことを褒めてみた。
自分の良い所を探すって、少し難しくて、少し誇らしいな。
友人の話は架空のものです。

サポートありがとうございます。東京でライティング講座に参加したいです。きっと才能あふれた都会のオシャレさんがたくさんいて気後れしてしまいそうですが、おばさん頑張ります。